第43話 嘆きの声
ペネロペはふらりと揺れる。足がすくんだのか、視界が回ったのか、自身では判別できなかった。
ここは深海かと錯覚するほど、息苦しく、音もせず、目の前は暗かった。光一つ差し込まない闇の世界に取り残されたようだ。一縷の望みもない。
「わしの可愛い子よ。お前もわしのもとに来たかっただろうに。あの悪党に攫われて可哀想にのう。大丈夫だとも。離れていた分は今からでも愛してやろう」
「……」
「そうかそうか、言葉も出ないほど嬉しいか」
ドルドは喜色満面で饒舌だ。惜しみない愛情と歪んだ執着をあれこれと囁く。しかし、ペネロペには屈曲した励ましの言葉も、同調を求める笑みも届いていなかった。
「可愛いのう。女なのか。そうか、そうか――」
皺に隠された薄茶色の瞳は好色に輝く。
「わしの可愛い可愛いセナに唯一、本当に唯一できないことは、子供を産むことなのだ」
「う……、う……」
「お前の母親も貌は良かったが身が育ちすぎていてな」
ペネロペは喉が渇いていることに気づいた。からからの口内からは唾液の一滴も出そうになく、乾いた舌が上あごに張り付いて動かない。
次いで、胃が重くなるのを感じた。胃だけではない。身体の中にある内蔵という内蔵の中に手を突っ込まれてかき混ぜられた気分だった。かき混ぜられた胃の内容物がせり上がり、こぷりと細い喉が鳴る。
小さな手は口元を押さえた。猛烈な吐き気は引っ込むどころか、急かしたてて大きくなっていく。
「ペネロペ」
荊はペネロペの手を後ろから引くと、ドルドの目から隠すように抱え込む。ゆっくりと背中をさすり、「吐いちゃいな」と心配そうに顔を覗きこんだ。
許しがあって気が抜けたのか、我慢ができなかったのか。ペネロペは口を塞いでいた手を取ると、苦しげな呻きを漏らしながら嘔吐した。
「こっちにおいで! わしが介抱し――」
「本当に我慢のできない人ですね」
荊がすいと手を振れば、縦皺の刻まれたドルドの上唇と下唇がぴたりと接着される。これで身体の機能に制限をかけられるのは何か所目か。口の減らないご老体は、口を開くたびに自由を奪われている。
今となっては彼の意思を示すものは目だけだ。
その残された目は荊を蔑視するよりも、ペネロペに熱視線を送ることに忙しい。合間合間にセナへ助けを求めることも忘れていなかった。
ペネロペは胃の中身を吐き出し終え、胃液すらも吐き出している。しばらくして、出せるものがなくなった少女は泣き声を漏らし、ひゃっくりを上げた。
涙を流す少女の顔は苦痛そのもの。分かっていたことだとしても、覚悟を持って聞いたことだとしても、堪えられなかったのだ。
ペネロペの頭には嫌な想像ばかりが巡っていた。
解呪の呪術師が命を狙われる存在だということは、同じ職である彼女自身も分かっている。それでも、もしも、自分とセナが生まれてこなければ、祖父が死ぬことはなかったのではないか、と思わずにはいられない。
――よくないこと考えてるな。
荊はペネロペの頬を掴むように手を添えると、ぐいと顔を持ち上げて無理矢理に視線を交わらせた。服の袖で吐しゃ物と唾液に汚れた口元を拭ってやる。
「ペネロペ。ペネロペは何も悪くないんだよ」
「うっ、ひぐっ、ぼ、く、僕は――、だめだめ、だから――」
荊はこつんと自分の額を小さな額にぶつけた。
「いくらペネロペでも、俺の友達の悪口を言うのは許さないからね」
「うっいっ、荊ぁ……」
「君が駄目駄目なはずないだろ」
荊は真面目な口調でそう言うと、ペネロペを片腕に座らせるように抱え上げる。細い腕は首に回り、肩口に顔をうずめた少女はえぐえぐと堪えた泣き声を漏らした。
荊は幼子をあやすように背中を叩いた。それに促されるように泣き声は大きくなる。
今すぐにすべてを受け入れて前を向け、と言う気は荊にはない。ペネロペの気持ちを捻じ曲げることができない以上、彼にできるのは傍にいて甘やかしてやることだけだった。
「……、ペネロペ。まだドルド卿と話す?」
一応と荊が尋ねると、ペネロペはふるふると首を振る。荊もそれがいいと思った。ドルドは口を開けば余計なことばかりを言う。聞きたいことを答えるのではなく、欲望のままの意見を言われては、双子の心労が増えるばかりだ。
「セナ君は?」
荊はふいと顔をひねり、後ろに控えたセナを見やる。静かな殺気に満ちた少年がずっと気がかりだった。
セナは黙ったままだ。
荊の声など聞こえていないようである。無表情のままで、瑠璃色の瞳に囚われたドルドを映していた。
荊は胸中で少年の様子にむむむと悩んだ。この状況では何を考えているのか分からないのが一番困る。特にセナは要注意である。復讐する力のあるセナが強行に出たとしたら、どんな結果になるかが想定しきれない。
――それなら、セナ君より先に動く。
「ドルド卿」
感情を暴走させるドルドは、一ミリもその場から動いていないのに忙しそうである。
ペネロペを手籠めにしたい、どうしてセナは自分を助けないのか――その繰り返しなのだろう。都合が悪いからなのか、邪魔だからなのか、やはり荊は視界に入っていないようだ。
荊はペネロペを抱えたままでドルドの前に立った。つま先でこつんと無事な方の足を蹴る。しかし、老人は荊の呼びかけを無視した。
「俺、たくさん考えたんです。どうしたら貴方が苦しむのかなって。何かを欠損させることも候補にあったんですが、手当が必要な怪我や日常生活に影響のあるものとなると、収監した後に騎士団の方にお手数おかけすることになるでしょう? そういうわけにはいきませんから却下しました。貴方には孤独で、誰の慈悲にも救われずにいてもらわないと」
低く落ち着いた美しい声。まるで耳心地の良い弦楽器の調べのようだ。
内容は不穏だが、荊にとってはそれがドルドにどう聞こえているかどうかは関係なかった。ただの前置き。肯定されても、否定されても、この先は変わらない。
「俺からの贈り物です」
荊はその場にしゃがみこむと、ペネロペを抱えているのとは逆の腕をドルドへと伸ばした。ぱっと大きく広げられた手がドルドに近づくと、その位置を開けるように氷の蔦が蠢く。
ぺたりと荊の掌がドルドの下腹部に触れる。年老いた男の薄い腹。その手に力を込めれば、骨を粉砕とはいかずとも、折ることはできそうである。
しかし、そのために醜悪の男に触れたのではない。
凍て風。
空気の凍る音とともに、氷が精製されるばきばきとした音が響く。
ひやりとした空気に包まれ、肌に触れる氷に気づいたとき、ドルドは氷漬けにされた唇の奥から叫び声を上げた。
「――!! ――っ!!!!」
しかしながら、くぐもった声は意味のない音にしか聞こえない。
血走った目をこれでもかと剥き出しにし、拘束された身体を揺する。必死の抵抗。血を吐きそうなほどに声帯を震わせていたが、開かぬ口では誰にも届かない。
絶望――、その形相は本物の死神と出会ったかのようだ。命を取られることに恐怖する顔。
荊はようやくドルドに言葉が通じた想いだった。実際のところ、通じているのは言葉ではないが、共通認識が生まれたのは本当の事だ。
氷結の音がゆっくりと収まっていくと、代わりにドルドの身動ぎが激しくなる。年老いた痩身は怪我をすることも、痛みに苛まれることも恐れずに、氷の拘束に全身で抗っていた。
「言わなくても分かると思いますが――」
荊は華やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと手を離す。凍て風は止み、製氷の音は消えていた。
「それは特別の氷でできた貴方だけの貞操帯です」
荊は眉を下げて困ったように「壊れた物を見せていただいただけなので、そっくり同じものではないのは勘弁してください」と謝罪する。
ドルドが人の命の尊厳を奪うために使っていた呪具。その形を模したものが、今はその持ち主の性器を拘束していた。
「――!!!! ――!!!!」
荊の声など届いていないようだ。
口が自由だったなら、今頃はドルドの絶叫が轟いていたことだろう。
「少しは皆さんの気持ちが分かりました?」
荊は他人事のように「安心してくださいね、その氷、血液や体液なんかじゃ融けないんで」と素っ気なく説明を加えた。




