第38話 悪夢からの目覚め
荊にはセナが本気であることはすぐに分かった。
逃げたい、救われたい――、理由は様々だが、世の中には心から死を望む人間がいる。荊は元の世界で飽きるほど見てきた。
セナはそんな人生に絶望した人間たちと同じ目をしている。
「駄目だ。俺は君のことを助けたい」
荊はかぶりを振った。こぼれ出たのは掛け値なしの本音である。
昔の荊なら善意か無関心で殺しているところだが、今の彼には到底そんなことはできなかった。
セナがペネロペの兄だからというだけではない。名前も知らない誰かだとしても、救われる道がまだある被害者を殺す、というのが荊にはできなくなっていた。
ネロが言うところの”すっかりイイ人”というやつだ。
「そう思うなら、殺してくれよッ!!」
悲哀に満ちた叫びが、張り詰めた空気を裂くように響く。
荊はセナとの距離を詰めるために歩み寄った。
一歩、二歩と進んだところでセナがばっと背中から生えた羽を大きく広げる。激情の表れ。
セナのぎりりと鋭く吊り上げた目は、さっさと望みを叶えてくれない荊を責めていた。
「殺してくれ、なんて、言うなよ」
言いながら、荊はなんて気の利かない言葉だろうかと自分に呆れた。こんなもの毒にも薬にもならない。
荊が上手くことを進められないのも当然だった。
死を願うものに生を説得するなど、荊には初めての経験なのだ。
「生きるために、耐えて来たんだろ?」
語るもおぞましい醜悪を――。
もう、その悪夢も終わる。終わらせにきた。全部忘れることなどできなくても、生きていくことはできるはずだ。
視線を合わせるため、荊はその場で跪いた。
セナとは数歩の距離がある。わずかの距離なのに酷く遠くに感じられた。心の距離はこんなものの比ではない。
「セナ君、だったら――」
「違う」
拒絶するような否定だ。
セナは荊をねめつけながら、今も新しく涙の雫を作っている。頬から床へと落ちていった涙は、敷かれた絨毯に吸い込まれていく。どこに落ちたかなど、すぐに分からなくなった。
荊は自然と口を噤む。助けたいと申し出た者の義務として、彼の抱えたものを知らなければ、と思った。
「死ぬことも、許されなかった。できなかった。生きたかったわけじゃ、ない」
か細く、潜めた小声。
セナは犯した罪を告白をしているかのようだった。
――死ぬことを、許さない。
荊はすっと目を細めた。セナの悲痛な顔に、いつかに見た誰かの横顔が重なる。
荊のいた元の世界では、悪魔使いは往々にして飼い殺しにされているものだった。自分の意思で自らの生死をコントロールすることはできず、授かった力を主人に命令されるがまま行使する。
そういう特殊な力を持つ者を御する手綱が、非人道的なものなのは決まった様式だった。心のある人間を支配するのだから、狂気でなければ成立しない。
セナがどんな卑劣な目にあったかなど、改まって聞き暴く必要は荊にはなかった。
「あの女さえ用意すれば、ドルドは僕を開放してくれるって言ったんだ……! だからっ……!」
血が沸き、熱が入り、セナの声は段々と大きくなっていく。しかし、それは勇猛ではなく、憎悪の膨張のせいでだ。
セナは苦渋の表情を崩せないでいる。眼球などは溶けて、涙とともに流れ落ちてしまいそうだった。
「けど、もう、ドルドが捕まるなら――、残った俺は、自分だけ助かろうとした裏切り者だ……!」
セナは感情のままに心のうちを吐露する。
せき止める理性なんてものは、とうになくなってしまったようだ。
「あんなに嫌悪したジジイと同じ! 呪術で人を不幸にする罪人! みんなが酷い目に遭ってるって分かってたのに、自分が一番不幸なんだと思って、俺は……! 俺はっ!!」
失意のどん底に堕ちた瑠璃羽の鳥。
翼を羽ばたかせても籠にぶつかるだけ、空を飛ぶことはできない。どんなにもがいても出られない。おかしくなることも、死ぬこともできない。
一生を狭い世界に囚われたままで終える。
「俺は自由になるためにたくさん努力したのに、結局は日の当たらないところで一生飼い殺しだ!! 大したこともできない跡取りの坊っちゃんが憎かった! 呪具があろうが、限りのある自由が許されて! 俺には少しもないのに! あんな奴、恋人共々死んじまえって思った!!」
セナは命を削るように言葉を発する。
まるで体に巡る毒を吐き出すように、血反吐を吐くように。
「アイリスなんかもっと嫌いだ! 大っ嫌いだ!! 何が死神の生贄だよ!! ふざけんな!! うまくこの家から逃げ仰せて、死神に守られて、ジジイに汚されず幸せそうに笑いやがって!!」
セナはがつがつと粗暴な足運びで荊に詰め寄ると、小さな手で胸ぐらを掴んだ。
それから、ぐっと握った拳が荊を胸を何度も叩く。荊には痛くもない強さのそれは物理的にではなく、精神的に響くものだった。
「俺のことは誰も助けてくれないのに!!」
セナはしゃっくりを上げ、呼吸を乱し、むせび泣く。
「全員、死ねばいいんだ!!」
絶望がセナを蝕んでいた。
「俺を、俺を殺してくれよッ!!」
――それを言うなら、助けて欲しいだろ。
荊はセナの動向など関係なしに残っていた距離をゼロにする。背中に腕を回し、力一杯に小さな身体を抱き寄せた。
セナは腕と羽とをばたばたと暴れさせたが、荊はちっとも力を緩めたりはしなかった。
誰が彼を責められると言うのか。
どうあろうと、荊は自分の仕事ではないと思った。アイリスのことだって、ドルドが妙な欲を持たなければこんなことにはなっていない。彼女がセナを責めるなら止めないが、荊の知るアイリスはセナと一緒に涙を流し、ドルドに怒る――、そういう、心優しい少女だ。
「殺せるわけ、ないだろ……!」
もうすぐ、すべての片がつくというのに。不幸のままで命を散らせろというのか。
がたがたと震えるセナは、荊の腕の中で離せと暴れ続けていた。意味のない呻き声を上げ、泣き腫らし、荊から伝わってくる体温と優しさを拒絶する。
荊の行動はもはや、ペネロペの兄だから、という特別に起因するものではなくなっていた。
荊はこの少年を救わなければならない、と絶対の決意していた。
「俺は君が生きていて良かった」
「っ――ふざけんな!! 綺麗ごとばっかり言いやがって!! 俺のことなんて何も知らないくせに!!」
「分かるよ。俺には、分かる」
「そんなんで、俺が慰められるとでも思ってんのか!!」
セナは心のままに喚き散らしている。
「同情で言ってるんじゃない。俺も君と同じ、他人に身も心も全部を捧げて生きてきたから――」
荊はセナとは対象的に、穏やかに自分の人生を語った。
生まれた病院に捨て置かれたこと、孤児として育ったこと、拾われた家に悪魔使いとして仕えたこと、裏社会に生きたこと、どんな汚れた仕事もしたこと、最後には殺されかけ、今もずっと命を狙われたままだということ。
異世界の生まれであることは言わずとも、告げた言葉に嘘はない。
「俺はずっとそれが普通だと思ってたから、君ほど辛い想いはしてこなかったけどね」
手を汚しても、身体を汚しても、荊には死にたいという発想が出たことがなかった。夜ノ森の家のために、すべてを捧げるのが当然だと生きてきた。
これはおかしいことなのかもしれない、と想像ができるようになる頃には、とっくに正常な感情を失っていていた。今更それに気づいたからなんなのだ、と。もう戻れないほど、人の道から外れたところに立っていたのだ。
「セナ君、俺は君に死んで欲しくない」
セナの狂乱のような抵抗はいつの間にか収まっていた。彼はぽろぽろと涙を零しながら、黙って荊の言葉に耳を傾けていた。
セナは荊の語った男の人生が、自分のことのように聞こえたのだ。なんと不幸でなんと醜悪な人生。惨めで、恥ずかしい、弄ばれた人生。
荊はセナを抱く腕に力を込めた。
セナは素直にそれを受け入れる。力の入っていない華奢な体は青年へと倒れ込んだ。覇気を失った翼はぺたりとしぼんでいて、腕はだらりと下ろされている。
「君は何も悪くない、君を死にたいと思わせるものが悪い」
荊は逡巡する。自分はセナの命の責任を負えるのだろうか、と。
セナの身体に絡みついた因果の糸――いいや、糸ではなく鎖だ。重厚で頑丈な自由を絡めとるもの。鎖を断って、それで終わりとはならない。
セナの負った傷は永遠に塞がらないものだ。誤魔化すことや、目を背けることはできても、消えはしない。
そんな少年のことを、荊は誰よりも理解してやれる。そして、それを今、セナも確信していた。
巡り合うべくして巡り合った運命。こんなにも似通った境遇の同類同士が引き寄せあった奇跡。
「俺は君に生きて欲しい」
「こっ、こんな身体でっ、どんな顔して生きてけっていうんだよ……」
「俺だって汚れきった悪党だ。でも、生きてる」
最初はぼんやりと生を永らえさせただけだった。目的もなく、意味もなく。もしかしたら、死に場所を探すために生き延びたのかもしれない、と荊は今更になって思うこともあった。
しかし、今は違う。
幸せになるという漠然としたと目標を掲げ、心臓を鼓動させることを続けている。
自分の人生を生きること、それは素晴らしいものなのだ。
セナにも知ってもらいたい。
何気ないことで、幸せだと笑って欲しい。アイリスやイーサンと友人になれないだろうか。悪魔たちはよく懐きそうだ。ペネロペと兄妹の絆を築いてくれたなら、それは荊にとっても幸せだった。
――最初から、決まってたな。
荊はセナを解放すると、彼の両肩に手を移動させる。きゅっと力強く肩を掴み、涙でぼやけた瑠璃色の目を見つめた。
死神は美しく微笑む。
「俺に殺してと頼むなら、その命を俺に頂戴」
「――は、あ?」
セナは呆然と口を開けた。
荊は表情はそのままにくつりと喉で笑い、一言一句同じに繰り返す。それから、右手の親指の先で少年の腫れた両の目元を柔らかく撫でた。熱い涙を拭い、かさついた肌を治癒する。
「覚悟ができた。君の命を背負う覚悟」
「……何、言ってるんだよ」
「それに、俺だけじゃなくて、君のこと――」
荊は不自然に言葉を止め、背後に首をひねった。
見知った気配、独特の足音。ここに来るはずのない少女の魔力。
廊下の端からぴょこりと飛び出した人影は、荊の想像通りの人物だった。
「ペネロペ……!?」
「いば、ら――、――えっ!! おっ――お、おにっ、おお兄ちゃ、ん!?」
セナは乱入者の声にびくりと肩を跳ねさせる。
ペネロペの登場に驚いたのは、セナだけでなく荊も同じだった。
ツクヨミによってあの部屋を巣にしたのには、秘密裏に救済を進めるとともに、仲間内の誰かが危険を承知で突っ込むことを防ぐためでもあった。
なのに、彼女はどうやってここに来たというのか。
あの氷の塔から出てきた方法はすぐに分かった。
瑠璃色の羽がきらきらと輝いている。移動中にぶつけたのか、ところどころを白の色に染めるのはヘルの氷雪だ。氷の粉に彩られた羽は硝子細工のようである。
――飛べたのか。
荊はペネロペが飛んでいる姿を見たことがなく、勝手に背中のそれを飾り物だと思っていた。どうやら、ちゃんと機能するものだったらしい。




