第37話 明けない夜
荊は屋根の上でツクヨミと別れた。
ツクヨミは一声鳴き、新たな獲物を狩るべく、既にできた穴の中へと突っ込んでいく。ナターシャの眠る部屋からでは聞こえなかった阿鼻叫喚が荊の耳に届いた。
考えることのできない状態の傀儡人形ならともかく、それ以外にはツクヨミは脅威の侵略者だろう。人間や魔人を喰らいに来た魔物にしか見えない。
――さて。
荊の目下の標的はダニエラである。
屋敷は広いが目的の人物を探して歩き回るような真似はしない。
魔力で人間を判別し、位置を特定するのは得意分野なのである。ナターシャにかけられた解呪から、街の外にある森にいたペネロペの居場所を割り出せるほど正確だ。既に分かっているダニエラの魔力を、この敷地の中から見つけ出すことなど造作もない。
ダニエラがいるのは屋敷の二階、玄関ホールから続く階段の上だ。
荊はダニエラのいる近場の部屋の窓ガラスを蹴り割り、部屋の中に滑り込んだ。
足音もなく部屋の中を走り、扉横の壁に背を当てた。
眼でも耳でも確認できる。音につられて近づいてくる人間――ダニエラだ。
扉が開いた瞬間、荊は動いた。
「――!」
荊は来訪者の手を引き、まずは口を凍らせて塞いだ。そのまま両手足、両手首を氷の錠に収める。ついには目隠しだ。真っ白の拘束具が自由を奪う。
荊はぱっと手を離し、ダニエラの膝を足蹴にした。彼女は衝撃のまま、その場にごろりと転倒する。
流れるような手際。
彼女には何が起こっているか、理解できていないだろう。
「っ――!!」
ダニエラがうろうろと顔を動かしても、氷に閉ざされた視界には何も見えない。感じられるのは体の芯まで凍えさせる冷たさだけだ。
「……」
正面から出て名乗ってやる道理はない。荊は騎士ではないのだから。
とはいえ、派手に氷の塔を建設した後である。ダニエラは相手が荊だと気付いているだろう。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
荊は無言のままで次の作業に移る。
目と口、四肢を拘束したまま、荊はダニエラの肩を踏み、身体を仰向けで固定した。そのまま、下腹部に手を当てる。特段に前置きも置かず、荊は呪具を氷漬けにして壊した。
静かで迅速な制圧だ。
ヘルの氷は自然界の氷とは違う。
感じられる寒さ一つを取っても、体感の温度で寒いと感じるのではなく、魂を冷やされるから寒いと感じるのだ。その機微は普通の人間に分かるものではないが、身体に起こる現象としては実感することができる。
ヘルの氷は凍傷を引き起こさない。
拘束をそのままにしていても、永遠と続く冷たさに苛まれるだけで外傷ができるわけではない。氷の表面にできた突起が刺さったり、裂いたりはするが。
もちろん、ヘルには自然界の氷と同じ氷を造ることも可能であり、その使い分けは荊の思うがままである。
荊はダニエラにはもう用事がないとばかりに、拘束具もそのままで、部屋の中に転がしたままで部屋を出た。
廊下に人の気配はない。
皆が皆、ナターシャの部屋の前に集まっているようだ。攫われると分かって集まっているのか、隠れても良さそうなものだが。
――死んだ方が救われる、と思って集まってるんじゃないだろうな。
荊はふと浮かんだ可能性に、苦々しく表情を歪めた。
確かにツクヨミは使用人たちを助けるための動線には違いないが、そうなると意味が変わってくる。
そもそも、この屋敷の人間はどれだけ自分の状況を理解しているのか、と荊は唇を引き結ぶ。
荊にはずっと引っかかっていることがあった。
どうして妊娠すると教会に場所が移動されるのか。
荊の想定で最有力なのは、血縁を分からなくさせるため、だった。
子を産んだ者は、この屋敷に自分の子供がいると分かっているのだろうか。いると分かっていても、誰だかは正確に把握していないのではないだろうか。
兄弟がいると知っているのか。長くこの家にいる者は知っている、または、察しているかもしれないが、年若い層は自分の父親がドルドだという事実すら知らないのではないか。
荊は答えの出ない想像に気分を害す。ドルドへの嫌悪が募るだけだった。
荊は足音こそ静かにだが、堂々と廊下を歩いている。目指すはドルドの私室だ。イーサンに言われた通り、二階の真ん中の廊下に向かっていた。
廊下の壁には等間隔で絵画が飾られている。荊は価値の分からない絵を見ながら、金持ちはこういうところに妙な金をかける節があるよな、と古巣を思い出していた。
床に敷かれた絨毯も、細やかな花の形が浮き出るように見えるほど繊細に織られている。
この屋敷は、どこを見ても金になりそうなものばかりだった。
荊の足がぴたりと止まる。
ドルドの私室に繋がる廊下、その真ん中にぽつんと立っている小さな影。
「セナ君……」
青白い顔をしたセナが立っていた。
荊は改めてよくよくその容姿を見た。大きな瑠璃色の瞳、同じ色の翼、くすんだ金の髪。
ペネロペと瓜二つ。
違うところといえば、こちらを見つめる目に生気がないことだ。
「死神――」
かすれた声。
荊はセナの様子を見て、魔法人形を動かしているのが彼だと確信した。
セナはその小さな身体一つで、事務所一つ分の騎士団の足を止める魔法人形を操り、傀儡人形を使ってアイリスを捕えようとしている。
どんなに魔力が強かろうが、それらは限界を超過した行動だろう。荊ですらよくやるな、と感心するほどである。疲弊するのは当然だ。
「セナ君、降参してくれない?」
荊は真面目な口調でそう提案した。
「俺相手に呪術は効果が無いのは分かってるでしょ。怪我を治せるのも知ってるはず」
荊と敵対するということはそういうことだ。
対峙した今、荊がセナに劣る点は何もなかった。荊には彼に反撃の一つも許さずに拘束することができる。
わざわざ説得をするのは、彼の考えを知りたかったからだ。誰の邪魔もなく、言葉を交わしてみたかった。
しかし、セナからは何の反応もない。
何なら、荊を見ていた死人のような目は伏せられ、どんな表情でいるかも分からなくなっていた。
荊は怪訝な顔で「セナ君?」と声をかける。
ばっと見上げた少年は、涙に濡れた目をしていた。その瞳に荊を映し、ぽろぽろと熱い雫を落とす。
「俺を、殺してくれ」
酷く弱々しい声だったが、その響きは確かに荊へ届いた。
荊は表情を失う。心の中の想いを外に出すという回路がいかれてしまったようだった。
ぎゅっと心臓を締められる痛み。
ひやりと背中に走る悪寒。
使用人たちを助ける、というのは荊たちの主観による行動だ。蓋を開けて、心から感謝する者ばかりではないことは彼も分かっていた。
それでも、それを口にするのがセナだったことが、荊には少なからず衝撃だった。
命に優劣をつけるつもりはなくとも、顔も名前も知らない使用人ではなく、友人の兄である彼は特別だった。
セナは必ず助けたい相手なのだ。




