第36話 救済の巣
荊はペネロペとともに、セルク達の方へと振り返った。
アイリスはイーサンにもらい泣きをし、セルクはまずは一人が救えたことに一安心している。
「使用人の皆をここに連れ込んで、一人ずつ呪具を壊そう」
荊は改めて宣言した。
それから、氷に閉ざされた扉を見る。
白の氷霜に遮られ、扉の向こう側を透かして見ることはできない。しかし、目標であるアイリスはここにいるのだから、融けない氷をどうしようかと無駄な悩みを抱いていることだろうことは察せられる。
「一人ずつ、この部屋に招き入れる」
「……どうやるんだ。扉を開けるにしたって、行儀よく並んではくれないだろう」
「ええ。だから、巣にするんです」
セルクは荊が言わんとしていることが分からなかった。
怪訝な顔で首を傾げた騎士に、荊は殊更に愛想の良い笑顔を向ける。ぱんぱんと二度、手を打ち鳴らした。
「ツクヨミ」
「――」
「うん。一人、連れてきて。よろしく」
名を呼ばれた宵闇の飛竜は了解だと言わんばかりに咆えると、その身体を天井に開けられた穴にねじ込むように飛び立った。
少しの後、氷壁の向こう側からくぐもった騒音が聞こえてくる。いかんせん、急造された壁が分厚過ぎて明確な音が伝わってこない。
しかし、振動は分かった。
建物でいうところの壁一枚向こう。何かが起こっている。
「まずはアイリスに呪具が壊せるかを確認しよう」
荊はぽかんとしたままの全員を放って、当然のように話を進めた。
「式上、ちゃんと説明を――」
「すぐ戻りますよ。ほら――」
天井から音が聞こえてくる。
段々と大きくなるその正体は姿を見なくても分かった。黒の影。飛び出した穴からツクヨミが戻ったのである。
獲物――人を咥えて。
ツクヨミは使用人の制服を着た女をぺっと吐き捨てる。氷の床に落ちた女は、ぐらぐらと身体を揺らしながら起き上がった。
「オソウジシナキヤ! シニガミ、コロサナキヤ!」
濁った目が捉えたのは荊だった。
「傀儡人形――っ!」
荊は大鎌を手にすると、飛びかかってきた女が開けた大口に噛ませるように柄を押し付けた。傀儡人形は口の中に入っているそれを噛み千切ろうとしているが、死神の大鎌の形をした悪魔が人間の歯で砕けるわけもない。
荊はさっさと足を払い、バランスを崩した身体にのしかかって動きを奪う。
「僕がやる」
傀儡人形が動けなくなると、すぐにペネロペが飛び出した。
よだれを垂らしながら、ばたばたと四肢を暴れさせ、死神を殺すと繰り返す使用人の女は、ペネロペがその身体に触れてすぐに動かなくなった。
それが糸が切れたように、ぱたりと身じろぎもなくなるのだから、何とも不安になるものだった。まるで、死んでしまったのでは、と思えるような電池の切れ方である。
「ありがとう、ペネロペ」
ペネロペは「うん」と真面目な顔で一つ頷いた。
傀儡人形を作った呪術師の魔力はよく知るものである。
「アイリス、壊せるかやってみて」
「はい!」
アイリスは寝かされた使用人の元に駆け寄り、跪く。腰を撫でおろすように手のひらを這わせた。すぐに異物に触れ、顔を苦々しく歪める。
命を奪う貞操帯。
アイリスはぐっと涙が落ちるのをこらえる。それは想像もできない恥辱だと思った。ドルドという狂った人間の欲望に、命の運命が歪められている。
アイリスの手は使用人の腰にある帯を辿り、下腹部へと異動した。それから、白い手がぐっと押し付けられる。
「お願い。壊れて、壊れて――」
少女は目を閉じ、念じるように希望を口に出す。
命を守りたいと願い、必要のない死を否定する。
それは、静かな奇跡だった。
耳を澄ましていなければ聞こえないような小さな音。断裂音と呼ぶのは仰々しいような気がしてしまうが、それは確かに断ち裂ける音だった。
荊はアイリスの手に添えるように使用人の腹に手を置く。指先には何の痛みも感じることはない。
「壊れてる」
アイリスは自分の胸を押さえ、ほっとしたように息をついた。できると想定していても、実際に成功するまでは不安だったのだろう。
ぽろと我慢していた涙の雫が頬を伝った。
「よ、よかった」
荊はアイリスの涙を指の先で拭ってやる。今日だけでどれだけの涙が流れただろうか。既に真っ赤になってしまっている肌はかさついていて、シャルルの力が怪我と断定するほどだ。
アイリスの福音が上手く動作することは、荊にとって何よりの結果だった。
ペネロペとアイリスに使用人たちの救出を任せられるなら、自分は自由に動ける。
「呪具を壊せた使用人は、このままこの部屋で匿いましょう」
「……巣とはそういうことか」
「ええ。ツクヨミには面倒をかけますけど、これならアイリスやペネロペを連れまわさなくてもいい」
獲物を浚い、救い、貯め込むための巣。
屋敷側からすれば、屋根を壊し開けて降りてきた異形の生物が、無作為に人を連れて行くという恐怖でしかない。しかし、その恐怖は隠れ蓑になる。この部屋で行われる救済が外に漏れることがない。
「セルクさん、ここをお願いします。傀儡人形だけはどうにかしないといけないかもしれませんが――、ツクヨミ」
「――」
「うん。いきなり吐き出さないで、セルクさんが許可を出したら離すようにして。ネロも手伝ってあげて」
「はいはーい。よーし、ヨミ。ボクが指示を出すぞ!」
「……セルクさんが、って言ってるだろ」
しいて問題を上げるとすれば、理性による限界を飛ばされた傀儡人形の存在であるが、それも悪魔であるツクヨミとネロがいれば、動きを封じるのはたやすい話だ。
ツクヨミは承知した、と何度も首を縦に振った。
連れ帰った傀儡人形がいきなり荊に襲い掛かったことを気に病んでいたらしい。この様子なら、二度と同じ過ちはしないだろう。荊はそう確信し「これで大丈夫だと思います」とセルクを見やった。
「お前はどうする」
「個別に始末をつけに行きます。ダニエラさんとドルド卿」
――場合によっては、セナ君も。
そう思いながらも、荊は少年の名は口にしなかった。
セナのこととなれば、どうしたってペネロペがついてきたがる。今となっては、ペネロペにセナを会わせることを阻止するつもりは荊にはない。
しかし、この屋敷の中で、この状況じゃなくてもいいだろう、という考えはあった。
セルクは荊の人選について、言外のことも含めて察しているようだ。とはいっても、それとこれとは話が違う。彼女は一人で行こうとする荊の背中を押し、送り出すことはできなかった。
「お前の腕が立つのは分かっている。だが、一人で行かせることには賛成しかねる」
「呪術師とやり合うなら俺が適任でしょう?」
セルクの反論は簡単に跳ね返された。
彼女はぐっと悔しげに歯を食いしばった。考えを巡らせても、上手い言葉が出てこないようである。
それもそうだろう、荊以上の適任が他にいない。
セルクは荊の腕を不審にして躊躇っているのではない、危険だと分かっていることを押し付けることに引け目を感じているのだ。
荊は肩の力を抜くように微笑んだ。高潔な彼女らしい、と思う。
「騎士団の仕事は、国民の安全確保が最優先。違いますか?」
「それは、そうだが。お前だってそのうちだ」
「ありがとうございます。でも、今は俺よりも被害者である人たちを優先してください。屋敷の人たちにとって、俺たちは所詮、どこの誰かも分からない存在です。ここにいるのも偶然の寄せ集まり。救う力を持っているけれど、それを信じてもらうことは口だけでは難しいでしょう」
ここに使用人が連れ込まれたとして、まず間違いなく良い想像はしないだろう。少なくとも、助けてもらえる、という発想は出ないはずだ。
氷河期でもきたのかという部屋。飛竜のツクヨミ、猫の姿で人語をしゃべるネロ、死神の生贄として捨てられたアイリス、呪術師であるセナと瓜二つのペネロペ。不可思議の巣窟である。
餌にされる、復讐に来た、実験の被検体にされる――悪いものならどんな想像でもできそうなものだ。
「でも、セルクさんは違う。貴方は騎士だ」
荊はぴっとセルクを指差した。
「セルクさんだけが、救いの象徴になり得る。その制服を着た貴方が言うんです。助けに来た、と」
白き騎士団の制服。
混沌としたこの部屋でセルクだけが言葉を必要としない。
「俺たちにはできない。貴方にしかできない救いなんです」
セルクは背筋を伸ばし、真っすぐに荊を見据えた。
ギルドから派遣されてきた青年。すべき仕事をするために、協力関係を持っただけの相手――、それだけの存在だったのは、どこまでだっただろうか。
「この場は私が責任を持つ」
セルクは荊に向けて敬礼をする。彼女の最大限の誠意だった。
「はい、よろしくお願いします」
「そちらは任せた」
「期待には応えます。必ず」
荊は心臓に手を当て、不敵に美しく笑うと丁寧に頭を下げる。
預けられたものは大きい。しかし、その想いに報う自信はあった。ここまで来て失敗なんてしようものならば、荊は自分自身を許せない。
荊とセルクはほとんど同時に姿勢を崩した。堅苦しい空気ではあるが、そこにあるのは全幅の信頼だ。
不意に荊は視線をアイリスの方へと向け、そのまま詰め寄った。肩の上のネロを引っ掴み、彼女の腕に押し付ける。
アイリスは唇を真一文字に引き絞った。
荊が行くのを止める気はないが心配はしている、という顔だ。目元の赤みが引いただけで痛々しさはなくなったが、福音による疲労は蓄積しているようである。
「アイリス。頑張るのはいいけど、無理しないこと。いいね?」
「分かりました」
「ネロはあんまりわがまま言って困らせるなよ」
「早く行けよ」
素直に返事をしたアイリスに対し、ネロはぎゃっと目を吊り上げて吐き捨てた。言葉選びはともかく、言っていることは正しい。
荊は二人への注意はそれで切り上げ、最後の難関へと向き合った。
「ペネロペ」
ペネロペは唇を噛み、むつりとしたまま床を見ている。
彼女は荊に一緒に連れて行って欲しいのだ。
しかし、荊にその気がないのも分かっている。無理について行っても、戦う術のない自分が荷物でしかないことも理解していた。
それでも、心は納得できない。
「今すぐにでもここを出て、セナ君を探して、ドルド卿を殴りたいだろうけど、ちょっとだけ我慢できる?」
荊は努めて冷静に言い聞かせるように声をかけた。
「……うん」
呑み下せていない返事だ。
それでも、これ以上はどうしようもない。心の中でドルドを殴らせることを固く約束し、荊はぽんとペネロペの肩を叩いた。
荊がツクヨミの背中に飛び乗れば、彼は待っていたとばかりに翼を広げる。そして、電光石火のように氷でできた巣から飛び出した。




