第23話 福音の調べ
二人は音を立てないよう、慎重な足取りで進む。
ナターシャの眠る部屋に忍び込むのは簡単だった。閉ざされた扉に鍵はかかっておらず、見張りも立っていない。
荊は丁寧な動作で扉を開け、アイリスとともに身体を滑りこませた。
そして、二人は少女の姿に目を瞠る。
「……酷いな」
部屋の中心に置かれた寝台、赤い服を着た寝たきりの少女。
その手足には昨日にはなかった拘束具が付けられている。手首と足首にそれぞれつけられた枷はベッドの足と鎖で繋がれていた。
これが幸せにしたいという花嫁候補にする扱いなのだろうか。
「ナターシャさんのことお願い。俺は鎖を――」
アイリスはこくりと頷き、ナターシャの傍に座り込んだ。少女の手を取り、祈るように手を合わせる。
荊は「ヘル」と手を打ち、青鈍色の大鎌を手にした。
空いている方の手で太い鎖を拾い上げる――、瞬間、ばちばちと静電気のような刺激が荊の指先に走った。
「!」
反射的にぱっと手を離す。鎖はベッドの上に落ち、じゃらりと金属が打ち鳴った。
荊は物珍しげに自分の手を見やる。外傷はないが、確かに攻撃を受けた感覚があった。毒針に刺されてしびれるようなわずかの痛み。
鎖には魔力の痕跡があった。
「……これが呪いか」
荊は関心したように呟く。
ナターシャのベッドに降り立ったネロが、安否を確認するように荊の顔を見上げた。アイリスも同じような顔色でいる。
二人とも突然に鎖を手放した青年の行動が気になったようだ。
「気をつけて。この鎖、呪具だ。触らないように」
そう言いつつも、荊は呪われた鎖を手に取った。ヘルで断ち切ることができるか確かめるためだ。
荊の行動にアイリスの顔色がぞっと悪くなる。それを見て、荊は最初こそ不思議そうにしていたが、彼女の想像を理解して「ああ」と納得した。
「心配しなくても俺は平気だよ。俺に呪いをかけたいなら、呪術師には相当頑張ってもらわないと」
この程度の呪いでは、荊の魂には触れることもできない。
荊の魂の強さは悪魔を五体従えてなお、魂を食われずに平然としているほどだ。彼に呪術をかけるには、並の呪術師では命をかけるだけでも足りない。
荊は大鎌の刃を鎖に当てて引く。刃と鎖が触れた瞬間に金属音が鳴ったが、あとは静かなもので、まるで水を切っているかのように刃が通る。
鎖が切れると呪術の効力も消えるようだ。荊の手をずっと刺し続けていた呪いの痛みは、拘束具が鉄くずになるとともに消えた。
荊はナターシャの両手両足、四か所の鎖を切り落とす。どれも金属とは思えないほどたやすく切られた。
切るものを切り終わり、荊が鎌の柄から手を離すと、ヘルは地面に向かって倒れる。死神の鎌は地面にぶつかる前に霧散した。悪魔の送還にしても雑な所作である。
その間もアイリスは祈りを捧げ続けていた。
祝詞を上げるわけでもなく、無言のままで祈る姿は、傍目には何をしているのか分からないだろう。
荊は自分の仕事を終え、その光景を眩しそうに見ていた。
魔力すら目視できる悪魔の眼があるというのに、アイリスの福音を荊は感じ取ることもできない。不可思議の力だった。
分かることは少女の神聖さと高潔さだけだ。
不意にナターシャから、かさついた呻き声が上がる。
「! 苦しんでる――、意識が戻りそうなのかも」
荊はナターシャの顔にかかる髪の毛を払い、顔色を確認した。
眠り姫のようであった少女の表情は、苦しみに耐えるものに変わっていた。眉間に寄ったしわ、漏れる唸り声、血の気の引いた肌。
アイリスは握る手に力を込めた。
緊張と重圧に汗でじっとりと濡れた手は冷たい。しかし、彼女の手の中にあるナターシャの手はもっと冷たかった。まるで血の通っていないような、生きている温度を感じられない手。
ふ、と荊とネロは扉の方へと視線を向けた。扉の向こう側に気配を感じたからだ。
荊は足音も立てずに扉の傍に近寄り、壁に背を預けた。ネロはアイリスの傍に立ち、じっと扉を睨み付ける。
一人分の足音。
この部屋へ向かってきている。
ぎいと扉が開くと同時に、荊は入ってきた人間の手を取り、力任せに引きずり込んだ。手を引かれた来訪者は突然の衝撃に短い悲鳴を上げる。
荊はその誰かをぽいと部屋の中へ投げるようにして手を離した。それから、丁寧な動作で扉を閉じる。
「っ――誰だお前ら!」
「しー。静かに。俺たちは貴方の敵じゃありませんよ、イーサンさん」
部屋に入ってきたのはドルドの息子であり、ナターシャの恋人であるイーサンだった。
イーサンは荊の存在にぎゃっと目を見開いた。
「! お前、昨日ダニエラが連れて来た――」
「式上荊、ギルドから来ました」
荊はイーサンを拘束することも、口を塞ぐこともしない。ただ、両手を上げて敵意がないことを示していた。
イーサンは殺意のこもった鋭い視線で荊を射抜く。
しかし、それも長くは続かなかった。
恋人の手を握る別の不審者の姿を見て「ナターシャ!!」と声を荒げる。荊はいたって冷静に「静かにしてくださいってば」と動揺する少年をなだめた。
「お前!! 何をした!!」
イーサンがアイリスを押し退けようとする寸前、荊はイーサンの腕を引く。
ネロもイーサンとアイリスの間に立ち、彼が暴力を振りかざそうものならば氷漬けにしてやろうと牙を剥いていた。
「イーサンさん、落ち着いて。話を聞いてください」
そうは言っても、言葉だけでイーサンが落ち着けるものでもないことは荊も分かっていた。
この状況は本来、単純であるのに複雑化して見えている。
荊、アイリス、ネロ、イーサン。ここにいる者たちは全員、ナターシャを助けようと思っている。全員味方、敵ではないのだ。
しかし、イーサンはそれを知らない。それどころか「ジジイの雌犬が連れて来た奴なんか信じられるか!」と一行に罵声を浴びせていた。
ぐるると獣のように喉を鳴らすイーサンは、自分の腕を掴む荊の手を外そうとするが、拘束する手の力は緩まないどころか強くなった。
「俺たちが味方である証明は簡単です」
「あぁ!?」
荊はちらりとアイリスの方へと視線を向ける。
この状況は荊たちには想定の範囲の出来事だった。そして、この場合の対処法も事前に取り決めてある。
アイリスはナターシャの手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
それから、口元以外を隠す大きなフードとって顔を見せる。朝焼けのような朱の髪、黄緑色の瞳、均整の取れた美しい容姿。
イーサンは自分の目を疑った。
そこにいる人物を亡霊かと思ったのだ。彼女がここにいるはずがない、と。
「イーサンくん」
柔らかくの響く鈴のような声。
名前を呼ばれて、イーサンはとうとうその場に崩れ落ちた。身体に力が入らないようだ。少年は瞬きを忘れ、瞳孔を開いたままで消えない亡霊を見つめている。
そんな彼を見かねてか、アイリスが率先して「お久しぶりです」と話しかけた。
「あ、アイリス――っ!? 生きてたのか!?」
イーサンは騒がしい胸元を押さえた。あまりの驚きに心臓が飛び出してしまいそうだったのだ。
浅い呼吸を繰り返し、目の前の少女に目を白黒とさせている。未だにアイリスがそこにいることが信じられないようだ。
荊はイーサンが敵意を消したことを確認し、彼の腕を掴んでいた手を離した。支えを失った腕はだらりと床に落ちる。
「俺たちはナターシャさんを助けに来たんです」
「はい。ナターシャちゃんは私たちが絶対に助けます」
二人の言葉は力強い。
イーサンはすっかり覇気を失ったようで、呆然としたまま荊とアイリスとで視線を行き来させた。敵ではないと認識したようだが、この状況を理解するまでには至っていないようである。
膠着した空気を壊すようにナターシャがうなされる。少女の顔は苦痛そのものだ。
アイリスは再び少女の手を取った。きゅうと力を込めれば、一層にナターシャの抗う声が響く。
「ナターシャ……!」
イーサンはずるずると力の入らない足を引きずり、這いつくばるようにしてナターシャの元へと近寄った。
「なんで、ナターシャは、苦しんで――」
「苦しむっていうことは痛みが分かるってことです。今まではうんともすんとも言わないほど意識が深いところまで落ちていました」
荊は淡々と状況を説明する。
悪魔の眼でナターシャの魂を見ると、彼女の魂がアイリスの魔力によって包まれているように見えた。呪の杭は突き刺さったままだが、杭とナターシャの魂との間に分け入るようにアイリスの魔力が満たされている。
アイリスの福音によって、呪いの進行は止まっていた。




