従順な薬
長年研究してきた薬がとうとう完成して、僕はひとつの決心をした。
これまでずっと研究一筋で、恋人どころか女の友人さえいなかったが、結婚するのだ。
今ならそれが可能だ。
僕は数少ない友人の中から、社交的な男を選んで呼び出した。
彼は僕と同じく独身で、沢山の知り合いがいる。もちろん女性の知り合いも。
珍しく僕に呼び出されて、彼は興味津々でたずねてきた。
「やあ。一体どうした風の吹きまわしだい、俺に頼み事があるとは」
「実は、そろそろ身を固めたいと思っている」
僕の言葉に彼は驚いた。
「なに! 本当か?」
僕は頷いて、彼に頭を下げた。
「そこで、君の力を借りたいのだが」
「ああ、もちろんかまわないとも。結婚式のスピーチなら任せてくれ」
僕はあわてて首を振った。
「いや、それも頼むかもしれないが、その前に、君の知り合いに独身の女性はいないだろうか。出来れば美人で妙齢の」
彼はとたんにつまらなそうな顔をした。
「なんだ、そういうことか。……美人の知り合いなら、まあ、いることはいるが。しかし、研究ばかりしていたお前に合うかどうか」
気乗りのしない様子の彼に、僕は熱心に頼みこんだ。
「一緒に住むなら美しい方がいい。美人なら多少性格に問題があってもかまわない。とにかく誰かいないだろうか」
「……お前、面食いだったのか。だが、性格は交際するにせよ結婚するにせよ重要だぞ」
呆れた様子の彼に、僕は自信満々で出来たばかりのキラキラする丸薬が詰まった瓶をふところから出して見せた。
「そんなものは僕のこの薬でどうにでもなる」
「何だ、その薬。お前が作ったのか」
胡散臭そうに彼は横目でちらりと僕と薬を見比べた。
出来たばかりの新薬を疑いの目で見られて、僕は躍起になって説明した。
「そうとも。長いことかかってやっと完成させたのだ。この薬を飲ませた後その手を握ると、飲んだ人間は手を握った人物の言うことを何でもきくようになるのだ。どうだ、画期的だろう。これは実に素晴らしい薬で副作用も無く、効果は長期に渡る。恐らく死亡するまで持続する。摂取する量も少量で良い。成人ひとりにつきたった一粒で十分だ。また、廃棄することになっても毒性が無いので環境にも問題が無い」
僕の説明を聞いても、彼はまだ疑わしいという表情を浮かべていた。
が、ちょっとは興味を示してくれたようだった。
「ふうん。変な物を作ったな。それが本当に効くのかどうかはともかく、一人、とびきり美人だがどうしようもなく性格の悪い女性に心当たりがある。独身だ。紹介してやろうか」
「ありがたい。是非、頼む」
「わかった。いいだろう。だが、本当に嫌な女だぞ。覚悟しておけ」
彼は、後日女性を連れてくる約束をしてくれた。
彼が連れてきた女性は確かにものすごい美人だった。
上から下まで、雑誌のモデルか何かのように輝いて見えた。うむ。これなら申し分ない美女だ。
今まで見たこともないその美しさに喜び、うっかり見とれてしまった僕は、彼女の発した言葉に耳を疑った。
「まあ。小さい上に薄汚い家ねえ。それになんだか地味な感じ。でも、家の主にはぴったりね」
まるできらめく星のような瞳で僕と周囲を見回した後、形の良い唇からまさかそんな言葉が出てくるとは。
初めて訪れた家と初対面の僕に対してなんという言い草だろうか。確かに大いに問題があるようだ。
しかし、僕は失礼な言葉を努めて無視することにした。
彼は苦笑いしてまあまあ、と彼女をなだめ、僕を紹介した。
「こちらが例の友人だ。非常に優秀な科学者なんだ」
僕は気を取り直してとりあえず挨拶をした。
「初めまして。どうぞよろしく。……とてもお美しいですね」
お世辞を言うと、彼女はふんと鼻先で笑った。
「平凡な台詞ね。本当に頭がいい科学者なの?」
どうも彼女には人を不快にさせる類の才能があるらしい。
僕は自分の顔が怒りで赤くなりそうになるのをかろうじてこらえた。
嫌な女であることは聞いていたではないか。この程度で腹を立ててどうする。
「ははは。相変わらず彼女のジョークはきついな」
彼は明るく笑い飛ばして言うと、僕に向かってこっそり身振りで接待するように訴えた。
僕は小さくうなずき、お客を案内してテーブルにつかせた。
それから人数分のコーヒーを淹れて、その中からおもむろに一つ選んで彼女に差し出した。
もちろん、彼女用のカップにだけあの素晴らしい薬が入れてあるのだ。
「どうぞ、召し上がって下さい」
勧めると、彼は遠慮なく受け取った。
「ありがたくいただこう」
そして一口美味そうに飲んでくれた。
一方、彼女はテーブルの上に並べられたコーヒーを見て、麗しく眉をひそめ文句を言った。
「やあだ。私、コーヒー嫌い。紅茶の方がいいのに」
この女は一体何様のつもりなのだろうか。ここを喫茶店か何かと間違えているのだろうか。
僕は激しい苛立ちを感じたが、努力してそれを押し殺した。ならぬ堪忍するが堪忍、だ。
「まあまあ。そう言わないで。ミルクと砂糖を入れてあげよう。いくつがいい?」
友人は、彼女の機嫌を取るように愛想良くきいた。
僕は砂糖の入った容器を手にし、辛抱強く彼女の返事を待った。
「砂糖は二つよ。早くして。あなた、気も利かないのね」
つんと澄まして彼女はぴしりと言った。
僕は急いで砂糖をすくってカップに入れてやったが、はらわたが煮えくりかえるような気がした。
小鳥のさえずりかと思うような綺麗な声で、なんと高飛車な物言いをする女だろうか。
いやいや、こんなことで腹を立ててはならない。我慢するのだ。
とにかく、薬さえ飲めばこんな態度も命令一つで変わるのだから。
僕が二杯目のスプーンにのせた砂糖をカップの上へ持ってきたとき、彼女は意地悪くしかし惚れ惚れするほどあでやかな微笑みを浮かべながら僕に命令した。
「……やっぱり砂糖は入れないで。ミルクだけにして」
どう見ても、僕が砂糖を入れたのを確認した上でのわがままだった。
「もう入れてしまったのですが」
あふれそうな苛立ちを我慢して僕がそう言うと、彼女は妖艶な笑みのまま隣に並んだコーヒーを指さした。
「じゃあ、そっちのと交換してちょうだい」
何だと。貴重な僕の薬が無駄になってしまう。
僕は彼女の欲求を拒否した。
「それは出来ない。これは僕の分だ。それにく、」
薬が。僕はそう言いかけてはっ、と口をつぐんだ。
いかん。薬のことがばれてはまずい。
だが、友人は急に黙ってしまった僕の言いたいことを察したようだった。
得心したように目配せをくれると、
「いいじゃないか、少し砂糖が入ったぐらい。こいつは君と違って甘いのが大の苦手なんだよ。甘い物を飲むと苦しくなるたちなんだ」
と助け船を出してくれた。
僕は彼に心の中で山ほど感謝した。
が、今度は彼女が明らかに不機嫌になった。
「なによ。たかがコーヒー一杯でむきになっちゃって。融通のきかない人って嫌いよ。今日だって全然気乗りじゃなかったけど、是非にもって言うからわざわざ来てあげたのに。つまらないわ。器の小さい男ねえ!」
彼女は甲高い声でわめき始めてしまった。
友人はおろおろしながら彼女をなだめようとした。
「そう言うなよ。こいつは君みたいな美人を前にしてちょっと緊張しているだけだから。女性の扱いに慣れてないのは勘弁してやってくれ」
彼女は僕を指さして言った。
「冗談じゃないわ。こんな雰囲気も何も無い家に連れてこられて、地味で陰気そうな男と一緒にティータイムを過ごすなんてはっきり言って拷問よ。だいたい、優秀な化学者だなんて話も信じられないわ。こんな人じゃ知的な会話なんか期待出来そうにないし。どう、何か面白い事をひとつぐらい言えるかしら。ふん。出来っこないでしょう」
さすがの僕もこの暴言にとうとう我慢が出来なくなってしまった。
僕が何と言ってやろうかと考えながら全身をぶるぶると怒りにふるわせていると、友人はなんとか場を治めようとして横から彼女に言った。
「いや、本当にこいつは凄い奴なんだ。最近も画期的な新薬を作ったばかりなんだ。俺の知り合いをそう悪く言わないでくれよ。これでもなかなか面白い男なんだぜ」
「どこがどう面白いのよ。新薬だなんて、嘘ばっかり」
そうまで言うのなら、見せてやろうじゃないか。
僕はふところに手を入れて、素晴らしい薬の詰まった瓶を取り出して彼女に見せた。
「嘘なものか。これが僕の長年研究してきた成果、ついに出来た新薬だ」
瓶の中の丸薬はキラキラと光を反射して輝いた。
彼女はその薬を見て目を丸くした。
「……なにこれ。これがお薬なの。なんて綺麗なのかしら。宝石みたいに光っているわ」
彼女は僕の薬を凝視したまま、また我儘なことを言い出した。
「ねえ、ねえ。これ一粒ちょうだい。こんなにきれいな薬、初めて見たわ。私、こういうきらきらしたものが大好きなの」
僕は最初断ろうとして、考え直した。
黙って瓶の蓋を開けると、一粒取り出して彼女に手渡した。
彼女は手の平に薬をのせてしげしげと眺め、それから指でつまんでかざしたり匂いをかいでみたりと試してみた。
「これ、何の薬なの?栄養剤か何かかしら」
彼女の質問に、僕は唾をのみ込み、意を決して言った。
「飲んでみればわかる」
彼女はそうね、とあっさりうなずきためらわずに口に含んだ。
喉が上下するのを確認し、僕はさっと彼女の手を握った。
「これから、僕の言うことを何でも聞くんだ」
「……はい」
彼女は何の文句も言わず、無表情になった顔で素直に返事をした。
「おい、やったな! すごい効き目じゃないか」
友人は彼女の変化に心底驚いたようだった。
感心した様子で僕の肩をぽんと叩くと、温かくねぎらってくれた。
「たいしたもんだ。全く素晴らしい薬だなあ。お前は天才だ。おめでとう」
手放しの賛辞に僕は嬉しくなった。
なんだかこそばゆい照れくささで一杯になり、彼に礼を言った。
「ありがとう。それもこれも、君の協力のおかげだ」
「なに、大したことはしてないさ」
彼は自分のコーヒーカップを持ち、もうひとつテーブルからカップを取り上げると僕に手渡して言った。
「お酒じゃないが、まあいいだろう。新薬の成功に乾杯!」
彼はごくごくと喉を鳴らしてコーヒーを飲んだ。
つられて僕もカップを軽く上げ、乾杯と言ってすっかりぬるくなったコーヒーを飲み干した。
そして僕はカップをテーブルに戻そうとした時、やっと気がついた。
僕のコーヒーはなみなみと注がれて、まだそこにあった。
今飲んだものは。
なんだか少しばかり甘いような気がしたが、もしかして。
彼はにやりと笑んで素早く僕の手を握った。
「これから俺の言うことを聞いてもらうぜ。そうだな、手始めに彼女に俺の言うことを何でも聞くように、と命令してもらおうか」
僕は、自分の口が意思に反して酷く抑揚のない声で「はい」と答えるのを聞いた。
終
このお話に最後までおつきあいいただき、どうもありがとうございました。
大昔に書いたものの焼き直しです。
2009.03.24書き直し