蔵書室の主
――司書長アラバサスには、知られざる友がいる。
「トール、書庫から本を探してきてくれ!」
名指しされた十織は返事をして立ち上がり、リストを受け取ると書庫へ向かう。リストにある本は八冊、年代の古いものが数冊混じっていて、何階か地下へ下りなければならない。それが面倒で、十織が指名されたのだ。閉架書庫は別に嫌いでないので、先輩特権の頼まれ事をされても断るつもりはない。
広い閉架書庫内は、魔術の作用なのだろう、ひとが側を通ると燭台の光が灯り、しんと冷えた書庫内をぼんやりと浮かび上がらせる。
「ま、ま、ま……」
一番手近なマ行の棚の前で、目的の本の一つを探す。あっさり見つかり、次の棚へ。それもすぐ見つかり、階段で下りる。二階下の部屋は、何だかとても寒かった。冷気が足元を漂い、肌を撫でていく。
「うっわ、寒……」
何でこんなに寒いのかと思いながら、さっさと探そうと足を速める。
その、途中。
「……え?」
備えられた、使う者のない閲覧用の机に、本を広げる人影。声を上げた十織をつと見やるその目の色は、青がかった灰色。白い顔を縁取るのは、真っ青な髪。
「だ、れ?」
床に引きずりそうに長い黒のローブを着た青年は、静かに立ち上がり、狼狽する十織に近寄る。
「……名前を訊くなら、まず名乗れ」
十織より数歳年上ほどの青年。この寒い部屋の中、震えもしない。何とはなく薄気味悪さを感じながら、彼のまとう妙な威圧感に負け、名乗る。
「片倉、十織……です。十織が名前で、蔵書室で働いてます」
警戒する十織に、青年はそうかと頷き、名乗りを返す。
「私は、イルクだ」
イルクは、アラバサス司書長の友だと言った。そういえば、あのごく普通のおじさんに見えるアラバサスには、珍しい友がいるという噂だ。きっとイルクが噂の君なのだろうと、十織は推測する。
「あなたは、何でこんな場所にいるんです?」
尋ねると、イルクはリストを十織の手から奪い取り、こっちにあると前に立って案内しながら、
「いたら悪いのか」
そう言う。書庫は、最下層以外には鍵一つかかっておらず、誰でも出入り自由だ。悪いなどと言えるわけがなく、別にそういうわけではないけど、と言葉を濁し、口を閉じる。イルクはさらに一階下りる。十織は静かについていく。
「これで八冊、全部だ」
そして、回り道一つせず本を集めた。どこに何があるか、正確に把握しているのだろう。この膨大な蔵書を全て。目を丸くしていると、微笑一つ浮かべることなく、
「お前は、異世界の者か」
唐突に問う。十織は頷き、すっと視線を細めると、それが何か悪いんですかと先ほどの言葉を逆手に取る。イルクは何も答えず、懐から一冊、厚さのない、題名もない本を出すと、十織が抱える本の山の一番上にぽんと置く。
「? ……何ですか、これ」
そのまま、用は終わったとばかりに背を向ける。
「ちょっと!」
声を大きくした十織を振り返ることなく、イルクはそのまま去っていった。
「……何なの、一体」
十織は床に本を置き、一番上に置かれた本を躊躇いながら手に取る。そして、しばらく考えた後、それを上着のポケットにねじ込んだ。
その夜、十織はイルクが渡してきた本を、何とはなしにぱらりと開く。一番初めのページには、たった一文、こう書かれていた。
「時は過ぎる……?」
何のことだろうと思いながら、ぱらり、ページをめくった十織は……途端白く弾けた視界に、一瞬の、夢を見た。
*****
兄ちゃん、見て、テストで百点取ったの。すごいでしょ? 頑張ったんだよ、とーる。
おおそっか、すごいな。兄ちゃんはやばかったよ、赤点だぜ、赤点。
赤点ってなぁに?
赤点っていうのはな……百点の反対だよ。兄ちゃんは、ダメなんだ。トオルみたいに、頭良くないんだ。トオル、お前はちゃんと勉強して、母さんを喜ばしてやれよ。お前ならできるさ。
うん、兄ちゃん。とーる、頑張るよ。いい点取れば、母さんも父さんも笑ってくれるもん。
トオル、ちゃんと勉強してるの? あなたはいい高校行って、いい大学行って、ちゃんとした職に就かなきゃ駄目よ。そうじゃなくちゃ、サトルみたいに……、
わかってるよ、やってるよ。
トオル、サトルみたいにならないでね。全くあの子も、ミュージシャンだなんて馬鹿な夢、早く諦めてくれればいいのに。ただでさえ今は不況で、うちだって、
わかってる、大丈夫だよ、母さん。あたしは兄ちゃんみたいにはならないんだから。
そう……? そうね、あなたは、そんなことしないわよね。サトルと違って頭もいいし、努力家だし、わがままも言わないし。
そうだよ、母さん。だから……、
あなたがそんなだから、サトルがああなるのよ!
キミエ、落ち着いて……。
落ち着けると思う?! サトルはたいした職にも就いてないのに、子どもなんか生まれて、育てていけるわけないでしょう!
サトルだって父親になるんだ。ちゃんと頑張るさ。相手の子もいい子そうだし……。
あんな若者夫婦が、ちゃんと子どもを育てられるはずないでしょう! ……そうよ、あなたにはわからないわよね! 私がどれだけ苦労して、サトルとトオルを育ててきたか! あなたはいつも寝てばかり、嫌なことは知らんぷり、面倒くさい疲れてるって、子どものことは全部私に任せっきりだったんだから!
キミエ、
あなたはいつもそう! トオルの大学のことだって、何の相談にも乗ろうとしなかったわ!
金は出すって、言っただろう。
お金のことは感謝してますよ?! でもね、あなた、あの子が遠くの大学に行きたいって言っても、説得一つしなかったじゃないの! 女の子が一人で、危ないと思わないの?
トオルが決めたことなら、俺達が口出しすることじゃないだろう。
そう、いつもそう! そうやって、子どものこともほっぽりっぱなし!
キミエ、俺だって、俺のやり方で子どもと関わってきたんだ。それをお前にどうこう指図される理由はない!
俺のやり方? ……そんな都合のいい言葉で片付けないで!
**********
十織は、自分の叫び声で目を開けた。動悸がひどい。体中に汗をかいている。浅く息を吐き、震える手の甲で額の汗を拭う。
「何……?」
何を見たのか、一瞬理解できなかった。周囲を見回す。暗く狭い部屋、十織は部屋の真ん中にぺったりと座り込んでいる。
「……トール? トール! どうしたの、何かあった?!」
そこに、扉をノックする音。十織は咄嗟に、転んだだけだと嘘をつく。
「ごめん、セレフェール、大丈夫だから」
隣の部屋の住人であるセレフェールはその返答を聞き、ならいいけれど、気を付けてね、と声をかけ、しばらくして扉から離れる。セレフェールが隣の部屋に入っていく音をじっとしたまま聞いた十織は、ほっと息をつくと、窓の外に視線をやる。大きな月は、地平線へと落ち始めているところだ。
「何だった、の」
月は先ほど見た時とほぼ同じ場所にいる。時間にして、五分も経っていないだろう。
「……夢?」
――見たくもない、夢だった。
ふと見れば、右手にはあの本を握っている。反射的にそれを壁へ向かって投げつけた十織は、ぐっと唇を噛み、虚空を睨んだ。
アラバサスは、イルクと向き合い溜息をついた。
「イルク……こういうのは、やめてくれ」
この友は、アラバサスの苦情など聞きもしない。けれど、言わざるを得ない。アラバサスは司書達の長であり、蔵書室の主だからだ。
「何故だ?」
案の定そう訊かれ、アラバサスはまた溜息をつく。誰だって自分の過去を誰かに読まれるのは嫌だろう、と訴えてみるも、イルクは首をひねるばかり。
「私は別に、構わないが」
そうだろうな、と苦笑。イルクに感情論は通じない。言うだけ無駄だが言ってみたアラバサスは、やはり無駄だったことにまた息を吐く。
「お前も読むか、アラバサス。実にくだらないことばかり、書かれているが」
異世界人というからもっと面白いと思ったんだがな、と残念そうなイルクの勧めを、アラバサスは断る。彼には、ひとの過去を知る権利も義務も趣味もない。
「……くだらないな。家族など、気にも留めず放っておけばよいものを」
本を読みながら、そう呟くイルク。それを本気で言ってしまう辺り、イルクには何がしかの感情が欠けているのだろう。
「そんなことは……できないものだ」
本のみに囲まれ一人でいることを苦痛にさえ思わない、アラバサスの同僚、イルク。もう一人の蔵書室の主に言い聞かせるように、アラバサスは口を開く。
「……ひとを切り捨てるなど、簡単にできるものではない。イルク」
アラバサスが背を向けると同時に、イルクはその場から、すっと姿を消した。
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返しておいてくださいとあの本を手渡した時、アラバサスはとても苦々しい顔をしていた。すまないと謝ったということは、アラバサスはそれがどういうものか、知っているということ。これは何ですかと問うた十織をはぐらかした理由は、昨日の夢にあるのだろう。
十織はそう確信し、あいつ悪趣味だ、と想像の中でイルクに向かって唾を吐いた。