王宮の明るい廊下
食堂にキィス、セレフェールの二人とともに歩いていたら、目の前から会いたくない度第一位の青年が猛然と向かってきて、十織は思わず回れ右した。
「おい、待てっ!」
「……俺達先に行くから」
「頑張ってね、トール。アルスも」
キィスとセレフェールは、そんな見慣れた状況にすでに何を言うこともなく足を進める。駆けだす十織とその後を追う青年は、二人の背後に消えた。
「こら、トール! 逃げるな、止まれ!」
毎度鬱陶しいことこの上ない、逃げるに決まっている。けれどそこは、やはり歩幅の差。腕を掴まれ足を止めると、怖い顔で振り返る。
「毎回毎回しつこい!」
しつこいと言われ続けて八ヶ月、珍しい銀髪とありふれた茶色の目をした青年アルスは、その程度ではひるまない。
「しつこくって当然だろ! お前、今日こそは帰してやるからな!」
「帰らないって言ってるじゃん!」
「帰すんだっ!」
「決定権は本人にあるんだけど!」
「知るか! 異世界人にそんな権利はない!」
「ちょっと、何差別してんの!」
ぎゃーぎゃー喚きたてるこの二人の口喧嘩は、決して珍しいものではない。アルスは普段王宮にいないが時折来るし、十織はそのたびアルスに捕まっている。騒音に悩まされる周囲の者達は、よく飽きないものだ、と溜息をつくばかり。
――帰れ帰れとアルスは言う。帰らないと十織は言う。譲るということを、両者とも知らないのだろう。しかしまあ、譲れないのも、ある意味では当然のこと。アルスの主張は普通のことで、おかしいのはむしろ十織だ。帰らないと言い張るばかりで、その理由も話さない。
「離せってば!」
「離したら逃げるだろ! 今日こそは、強制的に帰す!」
「……嫌だってば! 離せっ!」
十織はわかっていた。リーレスは、十織の意思を無視して無理矢理元の世界へ戻したりする人間ではない、と。しかし、もしも、ということがある。それを考えると、とりあえず力一杯抵抗するしかない。ええい大人しくしろ、するわけないだろ、と口論と引っ張り合いを続けていれば、ふと、
「……え?」
空気が変わった、
「……え? 何?」
ような、気がした。
廊下は変わらず前に後ろに続く。気のせいか、と十織が息を吐くと同時に、アルスが一際強く腕を引く。
「ちょっ……何!」
油断していたところを問答無用だ。半ば転びかけた十織をアルスがしっかり支える。突然の乱暴に抗議の言葉を続けようとしたが、アルスの真剣な顔を見て出鼻をくじかれる。どうしたの、と尋ねる。
「……トール」
腕を掴まれたまま名を呼ばれ、十織は下からうかがうようにその目を見る。アルスは廊下のずっと先を見つめながら、ちっと舌打ちすると、
「巻き込まれたな。……出るぞ」
ぐいと腕を引かればかりの十織には何が何やらわからず、ちょっと!と叫ぶ。
「何、一体! 何に巻き込まれたっての!」
アルスはずんずんと進みながら、手短に説明する。
「“明るい廊下”だ」
「は? ……何それ?」
「窓の外、見るなよ。どの扉も開けるな。廊下の先だけ見てろ」
「? ……何なの、一体?」
――これは移動魔術の一種だ。
施術者はおらず、特定の場所で自然発生する。特にこの王宮内で発生するもののことを“明るい廊下”と呼び、巻き込まれた者の三割は、廊下を抜ける前に罠にかかり、いなくなる。
「いなくなる? どこによ」
「いなくなった者がどこに消えたのかは、誰も知らない。わからないんだ」
……繋がる場所がわからない、偶発的な移動魔術。もし罠にかかったならば、その時は、ただ無事を祈るしかない。
何それ、と眉をしかめた十織の前を行くアルスは、
「知るか。……とりあえず、出口はある。何も見るな、触るな。俺についてこい」
そう落ち着いた声で言う。十織は、掴まれた腕を振り解き自分で歩けると言いつつも、ついつい泳ぐ視線をしょうがなく目の前の背中に固定する。
「……意味わかんない」
不安からか不満からか、そう呟いた十織に、アルスは溜息で答えた。
その魔術名通り、廊下は普段よりも華やかに明るい。危険なことなど何もないよと主張するように、ぱっと明るい。……けれど、これだけ明るくても、道を逸れたらいけないのだという。
もし、この魔術に巻き込まれたのが十織一人ならば。
十織は、どこかへ飛ばされていたことだろう。それがいいことか悪いことかなど、わかりはしないが。
――結局、どこにいようと同じなのかもしれない。どこか、そう、どこかへ行けるならば、それはきっと悪いことではない。どこにいようと、十織は十織だ。それに変わりはない。
「トール、離れるな」
名を呼ばれ、はっとする。気付けば、アルスと十織の間は三歩分ほど空いている。何ぼんやりしてるんだ、と言われてむっとすると、私は迷子でも子どもでもないんだけどと足を止める。
「おい」
アルスもまた足を止め、体ごと振り返る。いらだった目が十織を睨む。
「トール、今そんなことやってる場合じゃ、」
「この際だから、一つ訊いとく」
アルスの言葉を遮り、十織は振り返ったその目を見つめる。十織にしてはやけに静かなその目に、アルスは続けようとした言葉を呑み込む。
「……何だ」
唸るような声で先を促せば、十織はわずかに視線を逸らす。
「あんた、何でさ……私を、元の世界に戻そうとするわけ?」
改めてそう問われたアルスは、今さら訊くのかそれ、と不可解げに眉をひそめる。
「それは、当たり前だろ。だってお前は、」
「この世界の、人間じゃないから?」
両者、黙る。さらにきつく眉を寄せたアルスは、わかってるなら何故訊く、と警戒する。それに十織は、それってそんな重要なの、と問いを重ねる。
「それは、もちろ、」
「本当、に?」
十織は、意図が読めずにいるアルスの言葉をまた遮る。何度も言葉半ばに口を挟まれたアルスは、不機嫌になり言い捨てる。
「わかりきったことを、訊くな」
十織は口を閉じ、やや視線を落とす。
「……そう。わかった」
温度のないその声に、一瞬背筋が冷やりとする。
「……トール?」
名を呼べば、十織はすっと顔を上げ、アルスの横を通り抜ける。
「行こうか」
その背を慌てて追い半歩ほど前に出たアルスは、規則正しい速度で進む十織の顔をちらりと見て、その視線がただ真っ直ぐ前に向けられてアルスを捉えないことに狼狽する。
「……トール」
十織は何も言わず。かつかつと、足音だけを響かせる。
そうして、明るい廊下には、険しい顔をした男女が一組。
「……出よう」
「……ああ」
しばらく経ってようやく交わした言葉は、それだけだった。
すぐ横の扉が、いきなり開いた。
「っ?!」
「下がれ!」
アルスに押しのけられたたらを踏んだ十織は、どうにか転ばずに耐え、前に立つアルスの背中越しに向こうを見る。そこには、
「おお、全然無事だな。さすが!」
軽いノリの青年が明るく笑っていた。
「……リーエスタ!」
驚いて声を大きくしたアルスの肩にぽんと手を置き、ようアルスと笑ったリーエスタは、金茶色の髪と目をその肩越しに十織へとやる。
「ト-ルも。ええと、五日ぶりくらいか。元気?」
その能天気な笑みに、思わず溜息が出る。何であんたが出てくる、と嘆くように言えば、リーエスタはウインクを飛ばす。
「そりゃ俺は、宮廷魔術士だからな。自分の陣地内で妙な魔術の気配があれば、様子を見に来るのは当たり前だろ?」
それもそうなので、十織は不満げに黙る。
アルスが、助かったとほっと息をつきながら、リーエスタの開けた扉をくぐる。その後に十織も続き、二人は“明るい廊下”を脱した。
とにかく無駄に明るいリーエスタは、十織とアルスの間の気まずい空気など気付きもしないで喋り、嵐のように去った。残された二人はしばらく並んでその背を見送り、それから、何も言わずに背を向け合う。
――二人の想いは、平行線を辿る。