セレィス王の杖
かつて世界には精霊がいた。精霊は神の血筋。美しく創られた世界を守り育むため、地に下りた。
同じ頃、地にはひとがいた。神によって創られた世界で、豊かに暮らしていた。
今は昔。精霊はもう、ほとんどがこの地を去った。
その片鱗を見せるのは、居残ったわずかな精霊がいるとされる、地上の一部分。そして、セレィスの王を代表とする、精霊返りの存在だけである。
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三十代も半ばほどの外見のセレィスの王リーレスは、とても目立つ深緑色の髪をしている。腰まで伸ばした豊かなそれを二つ結びにして、金がかった紫の目は優しくひとを見る。そして、常にリーレスへ寄り添う淡い空色の髪と目をした美女が、王妃ルーディアである。その口元には、いつも優しげな微笑が浮かぶ。このセレィスの国を支える王と王妃の間には女児が一人おり、二人の色彩を受け継いで深緑の髪と淡い空色の目をしている。名をファリナという。
セレィスの王族ということだけが特別で、実に平穏な彼ら家族。
……だが、知る者は、知っている。実はこの夫婦の間には、もう一人子があることを。
十織は本を抱えて廊下を歩く。積みすぎて前がほとんど見えないが、階段もない廊下を真っ直ぐ歩く分に支障はないし、たとえ正面からひとが来ても相手が避けさえすればいいのだから、何も困ることはない。
この本は、宮廷魔術士のルウロの下から回収してきたものだ。ルウロは勉強熱心でよく本を借りに来るのだが、借りるばかりで返しに来ない。時々こうして回収しに行くのが、司書仲間内での決まり事となっている。
八ヶ月という異世界生活の間に力もつき、二十冊程度の本ならば楽に運べるほどになった十織は、危なげなく足を前に出す。磨かれ光る廊下にこつこつと足音を響かせながら蔵書室へと向かっていると、
「……え? ちょっわっ痛っ!」
何かが勢いよくぶつかってきて、バランスを崩した。本がばらばらと落下する。何冊かは十織の頭に当たり、痛い思いをする。
「い、痛ぁ……! もう、何?!」
手元に本が残っているために頭をさすることもできない十織は、低くなった本の山の上から前を確かめる。
「……え、誰?」
そして、眉をひそめる。この場には珍しい、全く見覚えのない、けれどどこか見たことのあるような雰囲気の、子ども。幼い少年。
「何となく……どこかで、見たことあるような?」
少年は無表情で自分の頭を撫でている。本がぶつかったらしい。少し涙目だ。ああもう、と忌々しげに吐き捨てた十織は、本を全て床に置き、少年の頭に手をやる。
「怪我は……ないね。こぶもないし。痛かった?」
少年はその淡い空色の目を十織へと向け、こくりと頷く。触れた髪は深緑。珍しい、非常に目立つ色。ぴんと思い付き、十織は思わず手を引っ込める。
「……あんた、もしかして、王様の子ども?」
少年は十織の問いに、自らの腰に付けたポーチから紙とペンを取り出して、大きくぐりぐりと文字を書き十織に見せる。
「……ファリオ、って名前?」
少年は、またしてもこくりと頷く。十織は、確信する。……この少年は王の息子だ。何故って、王の娘の名とたった一文字違いの、こんな珍しい色彩の子ども、偶然こんな場所にいるわけがない。
やばい隠し子だ、と十織は狼狽した。
何故かファリオが十織の後をついてくる。気に入られてしまったらしい。
「……ねえ」
「……」
「……母親と父親のところに、帰んなよ」
「……」
「……私、仕事してるんだけど」
「……」
会話にならない。もしかしたら、この子は口がきけないのかもしれない。かといってそれを直接尋ねるのも気が引け、元来子どもの扱いが得意でないこともあって、溜息一つ。足を止める。廊下の端に本を下ろし、肩を回しながら振り返る。
「……遊んでほしいの?」
少年はわずかな間の後、こくん、と頷いた。
話せない少年と、異世界の娘の交流。それは何ともぎこちなく、噛み合わない。物陰からしばらく様子をうかがっていたリーレスは、その微笑ましさに含み笑いする。
「……リーレ。いつまでこうしているつもり?」
「うーん……あの子が飽きて、私達の下に来るまで、待とうかと思ったのだけど」
「ファリオ、あのひとのことが、気に入ったみたいね」
ルーディアとファリナは、リーレスと顔を見合せて微笑む。いつまでもこうして様子を見ているわけにもいかず、頷きあうと、姿を見せる。
「トール」
名を呼ばれた十織は、リーレスを見て一瞬息を止める。
「お、王様……」
リーレスの背後にルーディアとファリナを見た十織は、さらに硬直する。あまりにわかりやすい反応に、リーレスは苦笑した。
「トール、ファリオと遊んでくれて、ありがとう。……ファリオ、トールにあまり迷惑をかけてはいけないよ。さ、行こう」
ファリオは静かに立ち上がり十織を見ると、ちょこんと頭を下げリーレスの後に従った。
「トール、ありがとう。早く仕事に戻らないと、怒られるでしょう? 貴女も行きなさい」
ルーディアに言われ、慌てて十織も立ち上がる。重い本を抱え上げていれば、その横を通り過ぎながらファリナは、
「ええと、トールさん? ファリオ、また訪ねてくるかもしれないけれど、その時はお願いします」
微笑み、父母の下へ小走りで追いつき、ファリオの手を握る。その様子は実に仲良さげで、十織はもやもや感に眉を寄せる。
「……隠し子じゃ、ないの?」
その答えは、蔵書室の司書仲間に訊き、わかった。
「あれ、今まで会ったことなかったんだ?」
さも当然のようにそう言われ、十織はむっとする。
「何、会ったことなかったらおかしいわけ?」
別にそういうことじゃないけど、と慌てる青年。怯えすぎ、とその頭を小突く女性。十織の司書仲間である彼ら、茶髪青目の青年はキィス、金髪緑目の女性はセレフェールという。
「で、あれ、誰。知らないんだから、教えろ」
キィスでは駄目だとセレフェールへ目を向けた十織は、剣呑な目付きでそう訊く。問われたセレフェールは、
「トールはその子ども、王の隠し子だと思ったのね。ああ、おかしい」
そうくすくす笑うと、いいわ、教えてあげると短い説明をする。
――いわく、あれは王の杖である、と。
「……杖?」
何のことだと首を傾げた十織に、キィスが説明を付け足す。
「セレィス王の杖は、人型をとるんだ。リーレス様があのような姿にと望まれたから、あの杖はあんな子どもの姿をしているのさ」
王と王妃の娘、ファリナによく似た姿。たった一文字違いの名。リーレスが何を望んだのかなど、明白だ。
「……兄弟って、わけ」
杖が、兄弟。それをごく普通に受け入れ接する家族の豪胆なこと。
「可愛いわよね、王の杖。ファリナ様と一緒にいる時なんて、本当、双子みたい」
「トール、気に入られたんだろ?次会ったら、ここに連れてきてくれよ」
「あら、いい提案ね。私なんかほとんど会ったことないから、楽しみだわ」
そして……杖が人型をとることを、何のてらいもなく受け入れる者達。いつまで経っても異世界の常識を拭いきれない自分に、十織は苦笑を浮かべるのだった。