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王の庭


 十織は地球に帰ることを決めた。ジルオールの話を聞いたことが一番の理由だが、その前から、いつか遠くないうちに帰るのだろう、と密かに感じていた。


 十織は、自分を弱いと思っている。けれど、必要以上に強いと自覚している。


 強い十織、弱い十織。どちらに立って考えても、十織は帰ろうと決意したことだろう。……きっとそれは、ジルオールに促されなくとも。




 帰ると宣言してから二夜、リーレスは時間をくれた。


“別れを告げたいひともいるだろう。持って帰りたい品もあるだろう。待ってあげる。だから、トール。願わくば、想い一つ残さず、戻れるよう”







 ねえ、楽しかった?


 うん、楽しかったよ。







 帰っちゃうんだ。とセレフェールは言った。


 そうか。とキィスは一度だけ頷いた。


 帰ることを決めて、初めにそれを報告したのは、セレフェールとキィスだった。二人は残念そうな、けれどほっとしたような顔をして、十織の想いを受け入れた。


 十織がローザリアに来てから一年と少し。三人が出会ってからは、約十一ヶ月。決して短くはない時だった。


 言葉は話せるが読み書きのできない十織にそれを教えたのは、セレフェールだった。司書の仕事を教えたのは、キィスだった。キィスの失恋を笑ったり、セレフェールのミーハー振りに引いてみたり、十織の嫌いな食べ物を無理矢理食わせてみたり、本棚の角に膝をぶつけて悶絶するキィスを笑ったり。……三人で育んできた友情が、確かにここにあった。


 十織は異世界人。いつかいなくなることを、ローザリアの二人は心に留めていたかもしれない。元の世界に帰らない十織に、帰ろうと思ったその時まで、ただ添うことを。


「正直言って、寂しくなるな」

「私にいじめてもらえなくなって?」

「そんなわけあるか!」

「あら、違うの? キィス、いじめられるの好きじゃなかったかしら」

「どんなだ?! そんなわけないだろ!」

「嘘を付くのはよくないと思うけど?」

「だから、それってどういう性癖だよ!」


 常と変わらず言葉攻めした十織は、本気で弁解するキィスにくすくすと笑う。キィスはそんな十織にげんなりした顔をして、ふうと息をつくと苦笑した。


「……まあ、元気でな。トール」


 そっと手を伸ばし、十織の頭を撫でる。それに驚く十織を、セレフェールは正面からぎゅっと抱きしめる。


「……元気で、トール」


 ――強く、優しく、温かく、触れてくるひとの存在に、十織はほんの少しだけ、泣きそうになった。




 他の人々の下へ挨拶に行く十織の背に、セレフェールが問うた。


「ねえ、トール。……ここは、楽しかった?」


 十織はにっこりと振り返り、大きく縦に頷く。


「当たり前じゃん。……楽しかったよ」


 そうして歩いてゆく背中を見て、セレフェールは静かにうつむく。その肩を、キィスはそっと抱いた。







 お前は、幸せか?


 うん、幸せだよ。







 帰ることを告げて回っていれば、いつしか人気のないところに出た。西塔……そこにいるのは、あの狂ったような青年。


「……サイアス」


 呼ぶことを許された名を囁く。躊躇なく、いつぞやのように塔を昇る。


「サイアス」


 求めるように名を呼んで最上階の扉を開けば、サイアスはそこに立っていた。そしてその横に、


「イルク」


 蔵書室の主たる者もいる。二人は十織を目に止め、微笑すら浮かべず単刀直入に確認した。


「帰るのか」

「戻るのだろう」


 十織は頷き、並び立つ二人をじっと見る。推測は、付いていた。けれど、それを訊く理由も、度胸も、十織にはなかった。


 ……兄に疎まれ、幽閉された男。


 ……ひとと関わらず、本の中で暮らす男。


 十織には、どちらの気持ちもわからない。少なくとも十織は、家族にそれほどまで憎まれてはいない。他人の中にある自分を無視することはできない。それでも、どこかが似ているのかもしれない。


 ひとは、ひとの中に自分を見るという。ならば、この二人の生き様もまた、十織の中に存在するものなのかもしれない。


 ただ、一つだけ、訊こうと思っていた。


「ねえ、サイアス」

「ああ」

「ねえ、イルク」

「何だ」

「……幸せだった?」


 二人は答えとしての言葉を紡がず、一方は微笑、一方は目を閉じた。


 ――訊かずとも、答えは知れたもの。彼らは恐らく、幸福から見放されていた。




 さよなら、と口にして十織は身を翻した。その背に、サイアスが訊く。


「お前は、どうだ。……幸せか?」


 十織は振り返らず、小さく頷く。


「勿論だ。……幸せだよ」


 そう答えた十織を、サイアスと、イルクまでもが、わずかに微笑んで見つめていたことを、十織は知らない。







 もう、逃げませんね?


 うん、逃げないよ。







 二日目は、街に出る。彼に会わなければいけない、と強く思う。十織と同じ、異世界の者。二つの家族をもった男。


「拓考さん」


 儚い花が咲き誇る庭に、以前のように拓考はいた。淡い微笑みを浮かべて立っている。


「十織さん」


 漢字を理解した男の発音に、懐かしさが募る。地球、日本。十織が生まれ住んだ場所。いまだこの世界では異邦人で、もし留まり続けても変わらず異邦人であっただろうことを、十織に感じさせる。


「拓考、さん」


 言葉が、続かない。……十織は、彼の後悔を知っている。拓考は同じ轍を踏まないようにと十織に忠告をくれたし、また運良く、その忠告を受け入れることもできた。


 そう、偶然なのだ。十織が地球に帰ることを、決められたのは。


「……拓考、さん」


 ほんのちょっとの偶然が、十織と拓考の道を分けた。どちらがより素晴らしいかなんてわからない。けれど、拓考の道はきっと、十織以上に険しいものだった。


 胸に湧き上がる罪悪感のようなもので十織が口ごもっていると、拓考は穏やかに笑んで、


「安心しましたよ。……私の存在も、無駄ではなかった」


 十織の肩を、ぽんと叩く。励ますように。




 名残を惜しむように何度も振り返る十織に、拓考は苦笑気味に尋ねた。


「もう、こんな遠くへは、逃げませんね?」


 十織は立ち止まり拓考を見つめると、はっきりと頷く。


「大丈夫。……逃げないとは言えないけど、逃げない、から」


 矛盾をはらんだ表現に苦笑を深める拓考を、十織はもう一度、強く見つめて。それから振り返らずに歩いていく。その背に、拓考は深く、礼をした。







 夜。少ない荷物をまとめていた十織は、ふと窓の外を見て、少し向こうの木の上に浮かぶ人影を見て、目を見開く。ばんっと音を立てて窓を開けると、鋭く叫ぶ。


「アルスっ!」


 どこか怒ったようなその声に振り向いたアルスは、銀の髪を月光に散らして十織を見る。ほんの一瞬……見つめ合って、十織に向かって手を差し伸べた。


「来い」

「は?何言ってんの、私は飛べないよ」


 魔術師じゃないんだから、と渋る十織に、アルスはわずかに微笑むこともなくもう一度、来い、飛べ、と短く命ずる。だから無理、と言おうとした十織はしかし、アルスの本気をその無表情から感じ取り、躊躇する。そして、


「……落ちたら、恨むよ」


 さすがに少々緊張しながら、窓枠に足をかけ、外に出る。一瞬の落下感。それはすぐに収まり、十織はアルスの隣へと運ばれた。


「珍しいな。ほとんど疑いもしないで」


 十織に窓から飛ぶように命じた張本人の苦笑気味な言葉に、十織は憮然と答える。


「私が、空から落ちてきた時。助けたのは……あんただろ」


 ずっと高い空の上から、雲を突き抜け、大地に至る。その光景は、十織の脳裏にしっかり焼き付いている。現実離れした恐怖感に、これは夢だと感じた。空から見た大地は緑も水も豊富で、綺麗だと、思った。


 川に打ちつけられる瞬間、わずかに体が浮いて。十メートルの高さから飛び込みする程度の勢いで、十織は川へと落ちた。……アルスが落下の勢いを緩和しなければ、十織の体は今頃ぐちゃぐちゃになっている。


 まあな、と頷いたアルスは、さらに上空高く十織の腕を引いて飛翔する。月は満ちている。


「……ねえ」


 高く高く、真上に向かって進むアルスに、十織は声をかける。


「あんたさ、知ってたんだよね。いつから?」


 主語がなくとも、意味は重々わかっている。あの夢の日の次、と返事をすれば、ひと月前からか、十織は期間を計算し呟く。それはちょうど、アルスが十織を避け始めた頃。


「……ずっと、帰れ帰れって言ってたくせに、どうして今この状況で、それを言いに来ないわけ」


 今となっては、その答えに見当はついている。あえて、十織は訊く。アルスは嫌そうな顔をして、しばらく逡巡した後、


「……誰かが言わなきゃ、お前は本当に、忘れようとしただろ」


 ぽつりと、そう呟いた。視線を天に背けつつ。その答えを予期していた十織は、同じようにそっぽを向く。


「余計なお世話だ、けど……ありが、とう」


 素っ気なく、けれど込められるだけの心を込めて。




 帰れと、言い続けたアルス。帰らないと、言い続けた十織。帰る場所があるのは、本当はどちらなのか。互いの事情など、二人は把握しない。訊くつもりも、話すつもりもない。







 相変わらず、空から見たこの世界は息を呑むほど綺麗だ。暗いけれど、月の光一つで遠くまで大地が続いているのがわかる。水平線に輝くのは、海だろうか。風一つない夜空でさざめくのは、地上で生きる虫の声。果てない空の中でたった二人、まるで大海に浮かぶ木切れのよう。




 ――多分、人間というのは、無意識に知っているのだ。自分というものが、ほんのちっぽけな存在であることを。だから群れるのだ。一人の恐ろしさを紛らわせるため。




 けれど、そうして忘れたふりをした恐怖が、いつか胸の奥から溢れだす。それが、孤独というものかもしれない。自分というものかもしれない。


 そうして、ほんのわずかの触れ合いの、大切さに気付くのだろう。







 お前は大丈夫だ、トール。お前にもちゃんと帰る場所があって、迎えてくれる者がいる。怖がらなくても、逃げなくても……いや、怖がっても、逃げても、戻ってこれる場所を守ってくれるやつが、笑顔を向けてくれるやつが、いる。


 お前は何を誇る必要も、卑下する必要もない。そのままでいろ。それがお前だ。


 何も変わらないことが、本当はどんなことより大きな変化かも、しれない。


 ただ誰も、それを知らないというだけで。







 地球に帰る十織を見送りに来た者は、誰もいなかった。ローザリアの者は、いつか十織が元の世界へ戻ることを知っていた。ここ二日であっさりと別れを済まして、残るのは寂しさよりも喜びだ。十織はだから、誰もいないことを悲しんだりはしない。喜びと嬉しさに満ちた笑みを、餞別に受け取っているのだから。


 リーレスは十織を、以前十織とエルグが迷い込んだあの花園へと連れていった。


「ここはね、トール。“王の庭”と呼ばれている」


 安らぐ暇のないセレィス王のために、ジルオールら精霊が創った場。


 綺麗だろうと、リーレスは微笑む。美しいものを覚えてお帰り、と。


「この世界は、どうだったかな」


 綺麗でしたよ、と十織は答え。


「……私も少し、この世界に馴染みましたけど。それでもここは本当に、私の世界とは比べ物にならないくらい美しくて。忘れようにも、忘れられません」


 ふわりと笑う。




 十織が持った荷物は二つ。何てことない写真立てと、桜柄の黒のショール。何だかんだ言って十織が自らのために購入したのは、これだけ長くこの世界にいて、この二つだけだ。


 本当は、これらですら置いていこうと思った。何一つ持たず、その身一つで地球に戻ろうと思った。けれど、写真のない写真立てには、写真が必要だと気付いた。異世界の布に染められた桜が、この世界で十織が地球のことを思っていた証拠だと気付いた。この事実が愛おしくて、これら二つの品だけは持ち帰ろうと、決めたのだ。




 杖を手にしたリーレスが、最後にちょっとだけ泣きそうに笑む。それを見た十織は、王様、と声を上げる。


「全部終わって、沢山泣いた後は。笑ってくださいね。……約束です」




 ありがとう、と微笑んで。ばいばい、と手を振り。十織はローザリアから姿を消した。


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