神と神
きっと、何か欠けたものの方が、ずっとずっと強いのだ。
彼らは、完璧などないと、知っているから。
いつも通りの廊下を、いつも通りに歩いていた。その十織の前に、ぱっと人影が現れる。前触れなく、いきなりだ。
「あ、んたは……」
十織や拓考、多くの日本人のそれよりももっと深い、黒の髪。黒の目。姿形はただの青年のようなのに、どこか普通ではない、いつぞやの青年。ジルオール、と名乗った青年は、まさしく射抜くような目で十織を見る。一言問う。
「もう時間はない。決めたのか」
話が読めない十織は小首を傾げ、何のことだと訊く。ジルオールはしばらく凝視した後、
「……俺は言った。覚悟はしておけ、と」
最終勧告のような言葉を残して、現れた時同様、その姿を掻き消した。
「ちょっ……! 待ちなさいよ!」
ジルオールの物言いに、何かただならないものを覚える。そこに最近思っていた疑問の答えがあると直感し、消えた背を追いかけて王宮の廊下を闇雲に走りだす。
……その後ろ姿がいつしか消え失せたのに、気付いた者はいなかった。
ここ最近、アルスがおかしい。ずっと王宮にいるのに、十織の下へ来ない。それどころか、擦れ違っても何も言わない。……むしろ、何かを言わないように、避けてさえいるようだ。
「どう思う?」
それをセレフェールに問えば、ううんと唸り、考え込む。
「何かしらね。……ここ最近、他のひと達も、何だかおかしいし」
ルウロさんとかリーエスタさん、ファリナ様も何だか元気がないみたい、とセレフェールは不安げに顔を曇らせる。
「ねえ、キィス。何か心当たりはない?」
キィスは、俺もわからないと首を横に振る。
――ここ最近、王宮の中が、何だか変だ。
誰もがそれに、勘付いてはいた。
神は長い間問うていた。何故、彼がこの世界を捨てたのか。何故、自分は一人なのか。
元々、二人で創り上げた世界だった。ひとと精霊、世界に生きる二つの命。
見守るのとは違う。世界は、二人の神が管理し、命が育つ箱庭。遊びの延長だった。
遠き昔、神の一人は世界を捨てた。そして、もう一人の神の下を去った。
――私達は間違いを犯したのかもしれない。この世界は、手に余る。
去った神は、最後にそう呟いた。
そして、その意図するところは今なおわからずとも、残った神も、去るべき時を見定めた。
二人の神に創られた世界は、神なき世界となる。
気付けば十織は、どことも知れぬ場所を走っていた。どこだかわからない場所を、意味もなく、走っていた。
……何故走っているのだろう? このまま走って、どこへ着くというのだろうか。
ただ、足を止めてはいけないと思い、走る。息が切れ、乱れた髪は頬に張り付く。酸欠でくらくらしてくる。引きずるような足が重い。
止まってはいけない、後ろを見てはいけない、走り続けなければいけない。
そう、十織はそうやって生きていなかければならない。
「……それがお前の神か」
ふと、誰かに腕を引かれ体勢を崩す。足が止まる。その恐怖と怒りで腕の先にある顔を強く睨みつければ、青年はもう片方の手の平で軽く十織の頬を叩いた。
「呑まれるな。己を保て」
深い黒の瞳が、静かに十織を見つめる。その闇のような黒を見ていると、十織の中から徐々に熱い感情が抜けていき、代わりに困惑が広がっていく。
「あ……」
何を問うべきか、言うべきか、思いつかずに口を開閉させる十織を鋭く見つめた後、ジルオールは手を放す。十織は一歩距離を取り、ジルオールの瞳を見つめる。……その背を追って走っていたことに、思い至る。
「あんた……何。何なの?」
ジルオールが“何”なのか。事ここに至り、十織はようやくそのどうしようもない違和感に冷や汗を流す。ジルオールは嘆息し、ついていてこいと顎で言うと歩き出す。
「……どこに行く気?」
警戒して動かない十織に視線をくれることもなく、ジルオールは言う。
「この創られた世界の中で、俺達が一体どこへ行けるというんだ」
ジルオールはこの“世界”について十織に説明した。
かつて二人の神が創ったこと。一人の神は遥か昔に去ったこと。
二人の神がそれぞれ人間と精霊を創ったこと。
今、残りし神も去ろうとしていること。残される被造物達のこと。
そして、半精霊という存在のこと。
「……世界に結ばれる、って」
どういうこと、と問えば、ジルオールは淀みなく説明する。
人間でも精霊でもない半端もの。神との結びは弱い。彼らは生まれた世界に繋がれ……肉体を失くした後、呼び寄せようとする神の声にも、気付けないことが多い。
「未練と呼ばれるもの。それに惹かれれば、一生、この地へ留まることになる」
――そうしてずっと、求め続け、悔やみ続けるのだ。
お前もそうだと、ジルオールは告げた。
「異なる世界の者。その魂もまた、想いによってこの世界に繋ぎ止められる」
もし、後悔するつもりがないならば。未練を断つ覚悟があるならば。留まればいい。
「神が去れば、その恩恵も消え失せる。帰れぬぞ。二度と」
……それでも、この世界で生きるのならば。
完璧であれ。人間とは呼べぬほどに。
ジルオールによって王宮へ戻された十織は、ひどく固い表情で、真っ直ぐに廊下を歩く。進む先にあるのは蔵書室ではない。……王の間だ。
リーレスの下へ行けば、そこには四人の宮廷魔術士が揃っていた。とても珍しいことだ。彼らは一様に険しい視線を十織へと向け、何用でしょうか、とルウロが代表して口をきいた。
「王様」
十織の突然の登場に驚いていたリーレスは、呼ばれて小さく首を傾げる。常のように微笑みを見せようとして、十織が異様に真剣な顔をしているのに気付き、笑みを収める。
「……どうしたんだい?」
問うリーレスに、十織は厳かに告げる。
「王様。私は、帰ります」