プロローグ
私には望みがある。それは、ごく当り前だけど、実に叶いにくい願い。それを実現する手があるならば、足掻いてだって飛びつくだろう。常々そう思っていた。
誰にも願いはしない。この望みを叶えろなんて。
そもそも、誰にも叶えられやしない。ヒトなど、所詮無力だ。
私の望みは、たったこれだけ。
――生きていたいと、思える場所に、いきたかった。
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私は、家族が大切だ。
真面目な母親。
優しい父親。
明るい兄。
かけがえのない、家族。代えのきかない、たった一つきりのもの。
――それだから私は、家族が大っ嫌いだ。
もし、もしも、私のせいではなく、失うようなことがあったなら。
きっと、とても清々しく思うことだろう。
大学という新天地は、期待していたほど目新しくはなかった。男も女もグループを作る。着飾った奴らと、じめっとした奴ら、二つの集まり。鬱陶しい、嫌いだ、こんなもの。
最終的に群れるしか能のない女ども、どちらにせよ女の尻追って目を動かす男ども、よかったね、色恋事でキャーキャー言ってる余裕があって。そんなもの、馬鹿幸せに生きてるやつしかできやしないんだよ。
恋とか愛とか。友情とか熱血とか。何それ、何でそれが普通なの? 普通目指すなら、四六時中そんなこと考えてなきゃいけないわけ? 馬鹿馬鹿しい、そんなものなくたって、生きていける。
大学出て、就職して、親に仕送りしながら細々と生きて、親が死んだら葬式出して、小さな墓立てて、一周期くらいはやって、それからは時々花を供えに行ってやる。ああ、娘だからね。そういう義務は、果たす。風習と世間の目に刃向うのなんて、面倒。
……大嫌いな家族様方。十織はこの通り、元気でやっております。だから、放っておいてください。あなた方のお手をわずらわせるようなことはしません。かかったお金はこれから稼いで返していきます。あなた方から奪った時間までは返せませんが、それは私が一生、罪として背負っていくので、勘弁してください。
王宮の廊下を女が一人歩く。黒髪黒目という珍しい風貌をした女だ。年は、二十を何歳か越えたくらい。華奢なほど細く、背はあまり高くはない。体の凹凸が同じ年代の女性と比べると控え目で、肌は黄色みが強い。こうした諸々の理由でよく目を引くが、その理由を訊いた者は誰もが、ああそういうことかと納得する。
――この女、名をトールという。正確には、カタクラトオル……片倉十織と書く。ここローザリアとは違う世界で、生まれ育ってきた者だ。
十織は一年ほど前、ここセレィス国に落ちてきた。文字通り、落ちた。空から落ちて、川に突っ込み、気絶して流れているところを保護された。
地球からこの世界ローザリアに人が落ちてくることは、時々あるそうだ。その穴は大抵空に開く。地面に打ち付けられ死ぬ者もいるそうだから、川に落ちた十織は全く幸運だった。しかもローザリアの善良な人間に拾われ、それが魔術師だったのだから、もう運がいいとしか言いようがない。
そう、十織を拾った青年はアルスといい、魔術師だった。アルスが言語媒介の術を使えたお陰で、十織は話し言葉に困ることもなく、ローザリアに溶け込み……溶け込みすぎた。
――帰る方法は、あるのだ。そのために、アルスは十織をセレィスに連れてきた。このセレィスの王は、自身が異世界転移できるほどに強い力を持っている。事情を話せば、快く、実に簡単に、十織は地球に戻れるのだ。実際に、戻るはずだった。
その直前だ。十織はアルスと王を睨み、言った。
“私は帰りません。王様、よければ何か仕事をくれませんか。どんな仕事でもやります。なければ自分で探しますけど。まあとりあえず、私は帰りません”
驚きで声を失くすアルスと、何事かと目を丸くする王。その後二人にどれだけ説得されようと、十織は考えを変えようとしなかった……。
それが八ヶ月ほど前のことだ。
王は寛大で、帰らないという十織に職と寝場所を提供した。王宮の蔵書室司書見習いという役職であり、専門職でしかも力仕事が多いので経験のない者にはきつく、初め異世界人ということも相まっていじめのようなこともあったようだが、今ではしっかり手に職を持った。十織はもはや、立派な司書見習いだ。
今では、十織に“帰れ帰れ”というのは、アルス一人と言っても過言ではない。勿論、誰もが言う、時々は。“どうして帰らないの”“帰らなくてもいいの”。……十織はそのたび、冷たい笑みで問いに答える。
帰らないというのが、十織の選択ならば。そして、それに見合うだけのものがあるならば。誰も強く言えないというのが、実のところである。
そんなわけで、十織は今日も、異世界の王宮で働いている。