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再生成育(2018o)

作者: 長矢 定

●登場人物

■野波 博幸(33)警察官・地域課、独身

□西内(28)同僚警察官、既婚1子

□久松(50)地域課課長

□山崎(30代)担当医

□小沢(50代)医師、再生成育治療の権威

□上川(30代)医師、再生成育治療の担当医

□酒井(30代)リハビリトレーナー

□稲部(50代)総務部庶務課

◇杉浦(30前後)総務部庶務課

□大沼(50代)総務部庶務課・課長

□黒木 康夫(40代)元内科医、呻き声の男


    プロローグ


「二二世紀の現代において、見かけることも少なくなったのですが……」

 基礎体力を高め、運動能力を鍛える訓練が連日続く中で行われる座学は、辛いものがある。五〇代の講師はその点を理解し、雑学で興味を引く講義を心掛けていた。

「トカゲは、その身に危険が及ぶ時、尻尾を切り離します。切れやすくなっているんですね。天敵がピクピク動く尻尾に気を取られている隙に、その場から逃げ出し命を守ることになります。このことから、組織に危険が及ぶ時に末端の人間を切り捨て組織の中枢を守ることを、トカゲの尻尾切り、などと呼ぶことがあります」

 警察官採用試験を通った若者たちは、その話に多少の関心を持った。この先そうした場面に、関わることになるかもしれない。

「まぁ、トカゲの尻尾は切り離した後に再生しますが、世の中に蔓延る組織もトカゲの尻尾切りをした後で直ぐに組織を立て直し、再び悪事を働くことになります。もちろん組織の中核を叩くことが重要になりますが、それには慎重な捜査が欠かせない、ということになりますね……」

 トカゲの尻尾には命を守る役目がある。人間は、命を守る知恵がついたから尻尾が退化したのか?

 もし、人間に尻尾が残っていたらどうなるのか?

 うん? ズボンはどう穿けばいいんだ。丸めてパンツの中に入れるのも不恰好だ。穴を空けてポロンと出すのか。そうなると、女性のスカートから出る尻尾は、きっとセクシーだ……

「野波くん、今の話、そんなに面白かったですか?」

 そう指摘された若者は、ニヤついた表情を真顔に戻した。身じろぎをする。

「事のついでです。二八ページの頭から読んでくれませんか」

 余計な役目を言いつけられ、野波博幸は顔を顰めて教本の次のページを開く。一つ咳払いをしてから読み始めた。




    一


 野波博幸は警察署の通用口を出て、大きな伸びをする。

 星が見えない暗い空。頬を撫でる風が湿っぽい、雨になる予報だ。

 治安の悪化に歯止めが掛からず、深夜パトロールの要請が絶えなかった。地域課を総動員した夜回りが常態化している。根本的な対応が必要なのだが、難しい。

 深夜勤務はきつい、危険も潜んでいる。しかし、とにかく、夜回りだ。

 野波は制服の乱れを整え、駐車場へと歩き黒白の一台のパトカーを回り込む。運転席には人影があった。

「何か、変わったことがあるのか」

 助手席に乗り込み、若い相棒に声を掛ける。彼はカーナビを扱い、これからパトロールするコースを確認していた。

「変わったこと、ですか……」顔をあげた西内がニヤリと笑う。

「二人目ができたようです」

「二人目? おめでたか」

 笑顔の西内が頷いた。

「簡易式の妊娠検査器で調べてみたら、出ました。陽性です。夜が明けたら病院、ですね」

「そうか、二人目か。おめでとう……。いや、羨ましいね。こっちは三三になっても相手がいない。未だ独身だ。堅実な仕事に就いたのだから、この歳になったら子どもが三人ぐらいいるかと思っていたんだが、現実は厳しい」

「また、そんなことを言う……。大丈夫ですよ、野波さん。今にいい人が現れます」

「妙なことを安請け合いするなよ。まったく、幸せな奴はこれだから嫌だよ」と笑った。

「まぁ、それはこっちに置いて、夜回りに取り掛かろう」

「はい、そうですね」

 西内は小さく肩を竦めた後でパトカーを始動させた。モーターの低い唸りが響き、走り出す。

「雨になりそうですね」

「そうだな。直に降るだろう」

 二人が乗ったパトカーは警察署を出ると赤色回転灯を点け、夜の街へと向かった。


 雨脚が強くなってきた。本降りだ。

「このところ見かけませんね……」

「この雨だ、こんな所には来ないだろう。念のため、橋の向こうまで行ってみよう」

 河川敷の広場、そこにポツンとある街路灯に、なぜか若い不良が集まるようになる。いざこざが殺人事件を引き起こした。先月のことだ。

 パトカーは河川敷の道をゆっくり走り、大きな橋を潜る。

「いませんね。今日は雨ですが、パトロールの効果もあると思います」

「ああ、しかし場所を変えただけだ。根本的な問題解決にはなっていない」

「そうですね……」

 西内はそう言い、その先の堤防道路に上る坂にパトカーを向けた。

 その時、無線が入る。

『至急! 強盗事件発生。現場は、栄本町四丁目のコンビニ。犯人は黒の乗用車で東方に逃走。各移動、注意されたし』

「東……、後ろの道かもしれませんね」

 今潜って来た橋の上は、現場に続く幹線道路だった。真夜中のこの時間、交通量も少ない。安直に逃げようとするなら、この道を走るだろう。

「Uターンして出てみよう」

「了解」

 西内は坂を上りきったところで、パトカーの向きを一八〇度変えて堤防道路を走る。交差点の手前で、幹線道を一台の暴走車が横切った。

「あれでしょうか」

「よし、追え!」

 西内はパトカーを交差点に入れた。通過した暴走車は既に橋を渡り終えている。サイレンを鳴らしスピードを上げた。

 野波が無線を使う。

「こちら二〇六、城東橋を東に向かう暴走車を発見。追跡します」

『二〇六、城東橋東走、了解』

 パトカーの追跡に気付き、逃走車両は更にスピードを上げた。乗っているのは三人。ヘッドライトに照らされて後部座席の男が戯けた顔をする。まだ若い。

 野波が無線で車のナンバーと乗員三名を伝えた。雨の中を追う。

 パトカーを振り切ろうと大きな交差点を左に曲がった。危険な運転だ。雨で路面も濡れている。追跡をやめるべきか、その考えが野波の頭を過ぎった。しかし、事故を未然に防ごうとする判断が、奴らを助長させることになる。

 逃走車両が左車線に移った、次の交差点を右に曲がろうとしてる。スピードを落とすこと無く突っ込み、右に曲がった。

 西内も後を追う。その時、何かが横断歩道を横切った。咄嗟にハンドルを戻す。

 ネコだ!

 次の瞬間、左から激しい衝撃が襲ってきた。頭が大きく強く揺れ、野波は意識をなくした……




    二


 むち打ちのギプスを首にした野波博幸は、目玉だけを動かし窓の外の青い空と白い雲を見た。顔には何枚かの絆創膏が貼ってある。

「すみませんでした」

 ベッドの横に立つ西内は頭を深く下げようとしたが、首のギプスが邪魔をする。彼もケガを負い手当を受けていたが五体満足、歩くこともできた。しかし、ベッドに力なく横たわる野波は、左腕が肩の先からなくなっている。

 コントロールを失ったパトカーが道路設備の支柱に側面から激突した時、助手席のドアが破損した。反動で横転し、ドアが吹き飛ぶ。パトカーは中央分離帯に倒れ込み、左の助手席側を地面に擦って止まった。野波は最初の衝撃で意識を失い、ダラリとした左腕が車両と地面の間に挟まれ引きずられた。大量出血、危険な状態……

 救急病院で意識を取り戻した時、野波の左腕はなくなっていた。

 部下に付き添って来た地域課課長の久松が言葉を探す。

「それでも、命が助かったんだ。養生して早く戻ってこい」

 窓の外を眺めていた野波は、しばらくしてから冷淡に言う。

「片腕で何の仕事をするんですか」

 単に客観的な答えが欲しかっただけだが、久松からの返答はなかった。野波は小さな溜め息をついてから声を絞り出す。

「ネコが悪いわけじゃない。暴走車に驚き、反射的に飛び出したのでしょう。それを避けようとハンドルを戻した西内に責任があるわけでもない。逃走犯を追いかける時に生じるリスクですよ。雨降りで路面が濡れていて、滑りやすかったことが不運の一つだったかもしれません……」

 と弱々しい声で言う。左腕をなくし、気力も失っていた。

「すみませんが、帰ってもらえませんか。少し眠ります」

 そう言って、そのままの姿勢で目を閉じた。

 しばらくして物音を立てないようにして二人が病室を出て行く気配がする。しかし野波が目を開けることはなく、眠りに落ちていった。


 入院して何日が経ったのかもわからなかった。

 腕の痛みは弱まっていたが、何かの切っ掛けで激しく疼くことがあった。痛み止めで誤魔化すことになる。一日をベッドの上で寝て過ごす。食欲もなかった。

 ある日の午後、担当医の山崎が四人の男を連れてきた。二人は白衣、病院長と外科部長。スーツ姿の二人は、外部医療機関の医師だと言う。物々しい。

 山崎は四人を紹介すると病室の隅に下がった。

「今日は野波さんに、新しい治療法の話をするために伺いました」

 と病院長が話し始める。

「新しい治療法?」

 ベッドに座った野波は眉を顰めた。腕を切り落とした今、何を治療すると言うのだろう。大勢が押し掛けてきて、警戒心が働く。

「ええ、一般の医療としては、まだ認められていない治療です。私が話すより、その専門家の先生にお話ししていただいたほうがいいでしょう。お願いできますか」

 スーツ姿の年配の方、五〇代の男性が頷く。身を乗り出すようにして野波の顔を見る。

「小沢と言います。野波さんは、再生医療というのをご存じですか」

「ニュースで耳にする程度です。詳しいことは何も知りません」

 その答えに小沢が頷く。

「主に、万能細胞を用いて体の器官をつくり出し、移植によって治療する方法ですね」

「その治療を受けた人を知っています」

 再生医療は身近な治療となっていた。詳しいことは知らなくても周囲では当たり前のように行われている。

「私の腕を再生して、くっつけてくれるのですか」

 そうした治療法があるとは思っていなかった。再生医療は体の一部の器官に限られている。腕全体を丸ごと再生するような都合の良い話は聞いたことがない。

 その野波の問い掛けに小沢が微笑んだ。自信ありげな笑みだ。

「ちょっと違います。まだ一般には認められていない試験段階なのですが、くっつけるのではなく、生やすことになります」

「生やす……」

 野波は目玉だけをギョロリと動かす。

「ええ、再生医療を一歩進めた再生成育医療です。失った部位を切断面で再生し、徐々に大きく成長させます。胎児の成育を腕の部分で行う、と言えばおわかりになるでしょうか。成育とともに神経細胞も繋がっていき、以前のように感じたり、動かすことができる腕と手が再生されます」

「前のように動かすことができる腕が生えてくるのですか」俄には信じられない。

「ええ、もちろんリハビリが必要です。細かな動きができるようになるには時間が掛かるでしょう。それに切断面の結合部分に筋肉の収縮が残りますので見栄えは良くない。ぐるっと火傷をしたような痕が残り、その部分の動きに幾らか支障が出ます。しかし、その先の肘や手の部分は見た目も普通でリハビリによってスムーズに動く可能性が高い……」

「可能性? 失敗もあるのですか」

 小沢が険しい表情で頷く。

「これは一般医療としては認められていない試験段階の医療技術です。問題が起こり、失敗するリスクもあります」

 なくした腕が生えてくる。これ以上、失うものはない。失敗を怖れてどうする。

 野波は目を見開いた。頷こうとして首に痛みが走る。顔を歪めた。

「細かい点で説明が必要でしょう。それは担当医となる上川のほうから話しをさせてもらいます」

 もう一人のスーツを着た男性が頷く。それを視界の端で捉えた。同年代だ。

「大勢で病室にお邪魔していては、野波さんも疲れるでしょう。私たちは一旦部屋を出ますので上川とお話しをしてください」

 そう言い、満足げに微笑む小沢は他の三人を促し病室を出ていった。

 一人残った上川は、手に提げたカバンから資料を取り出す。医師というよりセールスマンだ。

「大雑把な話は、今の説明でおわかりいただいたと思いますが、細かな点をお話ししないといけないでしょう……。これに座っていいですか」

 上川はそう言って壁際の折り畳み椅子に視線を投げた。

「ええ、もちろん。どうぞお座りください」

 上川は椅子をベッドの横に移動させ、そこに座ると、手にした資料を差し出し改めて笑顔をつくった。




    三


 翌週、転院となる。

 首にギプスを嵌め、左腕の無い野波博幸はストレッチャーに寝て移動する。救急仕様の搬送車に乗せられ走り出した。しかしサイレンはない。長時間、長距離の車での移動は健康であっても疲れるものだ。外の景色も見えない。車の揺れに身を任せているうちに眠っていた。

 何度かのトイレ休憩と昼食をとり、暗くなってようやく到着した。大きな病院の個室に運ばれる。

 翌日から注射と飲み薬が始まった。何の薬なのか、と尋ねると、新しい治療に体を慣らすためと言われる。素直に従うしかない。

 何度も検査を受け、血液や腕の切断面の組織を採取する。

 単調な日が続き、首のギプスが外れたその翌日、手術を受けた。

 腕の切断面の固まった肉を削ぎ落とす。血がドバッと出るのではないかと思ったが、出血は大したものではなかった。

 そして唐突に、再生成育治療が始まった。

 切断した腕の周囲に何本かの注射をうつ。麻酔が効いているので痛みはない。

「先生、何をどうしたら腕が生えてくるのか、教えてもらえませんか」

 マスクで口元は見えないが、上川医師の目が笑った。

「再生医療の勉強は進みましたか」

 野波は大げさに顔を顰めた。

「それが、お借りした本は難しく、体中が痒くなってしまうので……」

「それは困りましたね。本当に知りたいのなら、そこから勉強しないといけませんね」

 言葉は穏やかだが、そう言って面倒を避けているような気がした。

「今、何本もうっている注射は、何ですか」

「これですか……」と上川は手にした注射器を上にあげた。

「まぁ、いろいろです。腕を生やそう、というのですからね。込み入った薬剤が幾つか入っています。そうですね、これは成育環境を整える薬、といったらわかるでしょうか。植物の種をまくときに、その土壌に肥料を混ぜたりしますよね。そんな感じですよ」

 そう言ってからその注射器の針を野波の腕の側面に刺した。薬液を注入する。

 土壌に肥料を混ぜる……その表現に野波は納得する一方で、そうした扱いなのかと現実を受け入れた。

「さて、ここからが要です。ちょっと椅子を回して切断面をこちらに向けてください」

 野波は言われたことに従い、椅子を回し肩を上げて腕の切断面を上川に見せた。マスクの上川が何度か頷き、新たな注射器を手にした。薬液の色が違う。

「要って、何ですか」

 注射器ばかりが出てくる。治療を受ける身として、不安というか、疑問が湧いてくる。

「これが、いわゆる“種”ですよ。先日、野波さんから採取した組織を使ってつくった野波さん専用の腕の種です」

 そう言って、その注射器の針を切断面に刺した。麻酔が効いているはずなのに、チクリと痛みが走り、野波は微かに顔を顰める。上川はじんわりと薬液を注入し、これを何度か繰り返して切断面に満遍なく薬液を入れた。

 ようやく注射は終わりのようだ。脇に立った看護師の手には細長いカップ状の器があった。それをもう一人の看護師と協力し、野波の腕に嵌める。そして上川が左右から覗き込み、密着を確かめた。

「これは細胞培養液です……」

 専用の器具で腕に嵌めたカップに空気を抜きながら青みがかった液体を入れる。

「もし、漏れたときは、直ぐにナースコールをしてください」

 とカップの中に液体を充満させ、密着面から漏れがないか確認する。

 それを終えた上川は、肩を揺らし大きく息をしてからマスクを外した。

「さて、ここからが肝心なところです。以前にもお話ししましたが、くれぐれも安静にしてください。腕に刺激を与えたりしないで、極力動かないことです。体の左側を下にして寝たりしないように。移動が必要な場合は車椅子を使ってください。転んだりしたら大変です。それとテレビで興奮するような番組は観ないでください」

 野波はそこで笑みを顔に出した。

「そんな中学生みたいに、隠れてエッチな番組など観ないですよ」

「それもありますが、ドキドキするようなアクション映画やサスペンス、スリラーなども控えてください。とにかく安静に、過度な刺激を与えないことが重要になります。暇で困ると思いますが、腕を正常に生やすための大切な処置になります。この先、半年ほどは耐えてください」

「わかりました。余計なことは考えず、ぼ~っと過ごします」

「ええ、そうしてください」

 と上川が真顔で言った。


 退屈な日々を過ごす。

 ベッドで寝そべる生活。なぜ、動き回ることに神経質なのかわからないが、それが原因で腕の再生成育に支障が出たら、後で悔やむことになる。ここは素直に従い、じっと耐えるしかなかった。

 一週間が経つと培養容器を外し、経過観察。そして何本も注射をうち、また容器を嵌める。これをこの先、繰り返し続けることになる。


 一ヵ月が経つと、腕の切断面には小さな山のような突起ができていた。痛みも違和感もない。これが新しい腕? と疑問に思う。


 二ヵ月、大きくなった小山の先端が伸びていた。腕、というよりは、触覚のように見える。この突起物が成長して腕になるようだ。


 三ヵ月、突起物が細長く育ち、肘、手の平、五本の指も確認できた。小さな胎児の腕のようだ。むず痒いような感覚があったが、動かすことはできなかった。


 四ヵ月、腕の成育が早くなった。小学校に入る頃の大きさだ。ぎこちないが手の平を握ったり開いたりできるようになる。しかし、あまり動かさないようにと注意された。


 五ヵ月、随分としっかりしてきた。いろいろな動作ができ、その動きも幾らかスムーズだ。長くなった培養容器が重い。肩から吊り下げ、邪魔だった。

 それでも、着実に成長する左腕を実感し、嬉しくて笑みが零れた。




    四


 治療を始めて半年が過ぎた。

 再生成育医療の権威とされる小沢医師が、念入りに新しい左腕を診ている。薄い手袋をした手であちこちを触り、摘まみ、撫で回す……

 野波博幸は、必死に堪えた。権威ある先生が若い女性なら良かったのに、と思ってしまう。

「いいですね、上出来です」

 と小沢は、野波の顔を見て微笑む。そして肩の先の接合部分に目をやる。

「ここもきれいな方ですよ」

 ぐるっとあばたが密集しているように荒れていた。接合の痕というより、数えきれないほどうった注射の痕のように思える。それに、この先も注射はずっと続くという。

 小沢は両腕を並べるようにして比べた。左手の方が小さく細い。長さも短かった。それでも小沢は満足げに頷く。

「上手くいきましたね、上川先生」と脇に立つ担当医を見る。

「ええ、野波さんの忍耐の賜物です」と答えた。

「そうですね。よく頑張りました」と笑顔で野波を褒めた。

「もう、カップは必要ないですね。リハビリに移りましょう」

「はい、先生」と上川が言う。

 それを聞き、野波が笑みを見せた。

「治療は終わり、ですか」

 腕をスッポリ入れるため長くなった培養容器は、重く邪魔だった。これから解放されるだけでもスッキリする。

「第一段階の終わり、ですね。治療は続きます。今日からは培養容器ではなく、左腕を保護する装具を付けます。リハビリを行って、左腕がちゃんと動かせるようにしましよう」

「リハビリ……」

「でも、無理はいけませんよ。まだ、弱い。骨も折れやすいですからね。リハビリで徐々に鍛えていきましょう。そうすれば大きさも右と同じぐらいになるはずです」

「はい、先生。ありがとうございます」と野波は頭を下げた。

 小沢が笑顔で頷き、ようやく手を離す。

 野波はホッと息を吐き、右手で左腕を擦った。赤ちゃんのようなスベスベ、モチモチの肌だ。その感触は、三〇過ぎの男の腕とは思えない。

「リハビリ、頑張ってください」

 小沢はそう言ってから立ち上がると、上川と言葉を交わしてから診察室の出口に向かった。その壁際に一人の男性が立っている。体格が良く、身軽な服装だ。小沢に頭を下げてから野波のところに歩み寄ってきた。

「リハビリトレーナーの酒井さんです」と上川が紹介した。

「こんにちは、野波さん」と同年代の酒井が挨拶をする。

「こんにちは」

「これから一緒にリハビリを行っていきますので、よろしくおねがいします」

「ええ、こちらこそおねがいします」と頭を下げた。

「左腕のリハビリもそうですが、ずっとベッドと車椅子の生活でしたから、体全体が衰えていますね。まずは日常生活が普通にできるよう基礎体力を身に付けましょう」

「はい」と頷く。

「私も、その腕を見たいのですが、よろしいですか」

「ええ、どうぞ……」

 また、男に触られるのかとウンザリしたが、それを顔に出すことなく返事をした。酒井が対面に座り、薄い手袋をして腕を取る。

「なるほど。まだ、か弱い感じですね。やはり、焦らずじっくりいきましょう」

「食事も、今はカロリー控えめですが、リハビリに合わして増やしていきます」と上川が言う。

「量が少なく薄味な食事とも、お別れですね」と笑みを見せる。

「徐々に、ですよ。いきなりバクバク食べてブクブク太られても困ります」と上川も笑った。

「それで、リハビリはいつからですか」

「とりあえず明日一〇時に、リハビリ室へ来てください。現在の基礎体力を調べるところから始めましょう」

 と酒井が立ち上がり、上川の顔を見た。担当医はそれに同意し頷く。

 そこで診察が終わり、真新しい装具を左腕に付けた。

 野波は看護師に車椅子を押され病室に戻る。左腕が軽い。まだ、物を掴むことさえ上手くできないが、リハビリを続ければ以前のように動かすことができるという。

 野波は装具に収まった左腕を見て、ニヤリと笑った。出来たてホヤホヤの新しい左腕、これで元通りだ。嬉しい。目の前の視界がパッと開く、とはこのことだ。

 野波は、緩みきった顔でベッドに寝転んだ。




    五


 ヨチヨチ歩きの赤ちゃん並だな……

 野波博幸は、自分の状況をそう例えた。

 左腕を保護するための装具に入れて胸元で固定し、ハーネスに吊されウォーキングマシンに乗っていた。ハーネスに過度の加重が掛かるとウォーキングマシンが停止するようになっている。そんなバカなことしなくても、と思ったが、一キロほど歩いただけで辛くなってきた。足がもつれる。

「今日は、ここまでにしましょう。無理をすることはない」

 監視するように見ていたリハビリトレーナーの酒井がウォーキングマシンを止めた。何人かに支えられ車椅子に戻る。

「たった一キロで音を上げるなんて、情けない……」

 頭がクラクラする。自分の体力低下の酷さが信じられなかった。

「ずっとベッドで寝てたからですよ」

「しかし、ここまで酷いとは……」

 どこが辛いのか? 体全体だ。マラソンでもしたかのように、足が重く、体が硬直し、息があがる。思うように動かない。どうしてこんな体になってしまったのか?

「焦ることはありません。少しずつ体力をつけましょう」

 と酒井が微笑み、元気付けた。


 一ヵ月が経つと、幾らか体力もついてきた。

 左手も動きに素早さと滑らかさが出てきたが、力強さがない。


 二ヵ月。大分、増しになった。

 腕は、右と左の見た目の違いはわからなくなってきた。単に見慣れたからではなく、がっしりした感じだ。両手で体を支えることができ、ウォーキングマシンのスピードも上がる。そろそろ軽いジョギングに移す頃合いだった。


「いいですね。腕だけでなく、体全体に筋肉がついてきましたね」

 と担当医の上川が言う。

「ウエイトトレーニングの効果でしょう。まだ、軽いものを使っていますが……」と野波が返す。浮かない顔をしていた。

「先生、この注射はいつまで続けるのでしょうか」

 上川の表情が曇る。

「ずっとですよ、野波さん」

「ずっと……」

「どうしました? 何が気になるのですか」

「ええ……。少しずつですが体力も戻ってきました。そうなると退院した後のことが気になってきます。前の仕事に復職したら、週に一度、この病院に来るのも大変になります。距離がありますからね。その注射は、職場の近くの病院でうつことができるのでしょうか」

「警察官を続けたいのですか」

「ええ、左腕が使えるのなら警察の仕事ができますから……」

 上川が難しい顔をする。

「野波さん、腕を再生するという治療は非常に特殊なものになります。それは理解していただいてますよね」

「はい。特別な先進医療だと思っています」

 上川が眉間に皺を寄せて頷く。

「今後も経過を診ないといけませんし、薬も特殊なものですから一般の病院では処方できません」

 野波はそれを予見していた。

「前の職場に戻ることはできない、ということですね」

「この街で、仕事を探していただくほうがいいと思います」

「そうですか……。その、治療費の支払いはどうなっているのでしょうか。これまでそうした心配をしてこなかったことが不思議なんですが……」

 その野波の言葉に、上川は片方の眉をピクリと動かした。目つきが鋭くなる。

「私は医者ですので、そういう話は詳しくないのですが……」と上川は無理して笑った。

「野波さんが治療費の心配をすることはないと思いますよ。そもそも公務中の事故でしたし……」

「そうですか。でも、警察を辞めると、その後の面倒はみてくれないと思いますが……」

「いや、大丈夫だと思いますよ。まぁ、とにかく今は、リハビリに専念しましょう」

 そう言ってから上川は、カルテに向いた。何かを記入する。

 野波は、医者に話すことではなかったと反省した。


「野波なのか……」

 電話の向こうから上司である久松の驚く声が聞こえる。

「ご無沙汰しています」

「どんな調子なんだ? 今、何をしているんだ?」

 病院の総合受付がある広いエントランスには人が溢れ、騒がしかった。公衆電話の声が聞き取りにくい。

「今、リハビリをしています」

「リハビリ? そうか……。で、どうした? 何かあったのか」

「いえ、別に今日でなくても良かったのですが、私の職場復帰についてご相談しようと思って……」

「職場復帰? 何を言っているんだ。お前、退職しただろ」

「退職? 私、警察を辞めたんですか」

「転院する際に、辞職の手続きをしていっただろう。俺も話を聞こうと思ったのだが、病院が規則だからと転院先を教えてくれなかったんだ。お前、気落ちしていたし、それも仕方ないかと諦めたんだが、違うのか」

「そうですか、辞めたんですか……」

「事故の補償や、退職金なんかの対応も済ませたはずだ。おい、野波、大丈夫なのか」

「大丈夫ですよ……」

 辞意を伝えようと電話をしたのだから、その経緯にも支障はないのだが得心がいかない。ベッドの上の生活が長かったため、忘れてしまったのか?

「みんな元気ですか」

「ああ、元気だ。仕事に精を出しているよ。西内も落ち込んでいたんだが、第二子が生まれて気合いを入れ直したよ」

「そうですか、二人目が生まれたんですか」

「女の子だ」

 野波は、それだけの時間が経っていることにようやく気付いた。世の中は動いている、自分一人が取り残されていた気分だ。

「よろしくお伝えください。私も気分を一新して前向きに生きていますから……」

「そうか、それは良かった。頑張ってくれ……」

 電話を切った野波は、手近なベンチに座った。雑踏の中、月日を数えてあの事故から十ヵ月が経とうとしていることに驚く。そんなに時間が過ぎ去っていたという実感がない。

 左腕の再生成育治療に専念していた、といえばそれまでだが、今更ながら何か違和感を覚える。文句を言ったり、反発することなく退屈な治療を従順に受けていたことが信じられなかった。ストレスが溜まり爆発してもおかしくない。

 何か変だ。

 そう感じたが、それ以上追求することはできない。

 野波は頭を振ってから立ち上がり、病室へと歩いていった。




    六


 体力が幾らか回復し体の動きも良くなってきた。食事の量や質も一般的なものに近くなる。以前のように寝てばかりの生活から抜け出た。しかし、そうなると時間をもてあそぶようになる。消灯時間を過ぎても眠れなかったり、夜中に目が覚めたりする。暇に耐えきれなくなった。

 真夜中、野波博幸は病室を出た。

 看護師の目を盗んで病院内を歩き回る。リハビリ室へ行くときに使う一階の連絡通路に中庭へ出るドアがある。外の空気を吸ったり、ぐるぐると散歩をすることもあった。野波は薄暗い中庭に出て端まで歩き、病棟と外壁の間の狭い通路を抜ける。その先に職員用の駐車場があり、病院の敷地から出ることができた。

 初めての街。

 寝静まる住宅街を抜け、幹線道路に出る。コンビニの明かりが見えた。リハビリ用のスエット姿だが、無精な男が我慢できず真夜中にちょっと買い物に来た、と店員は思うだろう。

 野波はコンビニに入った。

 目に付いたのが甘い物、スイーツだ。それまで、特に甘い物が好きというわけではなかったのだが、入院生活が長かったためかスイーツに目がいった。シュークリーム、プリン、ケーキ、甘そうな物を選び飲み物と一緒に購入し、イートインスペースで一気に食べた。

 女性は、溜め込んだストレスをスイーツを食べて発散することがあるようだが、その行動が何となく理解できる。次はアレ、コレと食べたい物が頭に浮かぶ。どれもよく食べていた手軽な食べ物ばかり。高級品がないことに野波は笑った。

 近くに馴染みのチェーン店はないのか? だが、それは次のお楽しみ。今日は、これで満足しようと思う。

 コンビニを出る。が、夜中に甘い物を食べた罪悪感なのか、気持ちが揺れた。多少でもカロリーを消費しようと、ぐるりと散歩をすることにする。

 病院の敷地に沿って真夜中の街を徘徊した。警察官がいたら職務質問を受けるだろう。昔の自分なら、そうするはずだと野波は口元を緩めた。

 随分歩き、敷地の広い大病院だとわかる。少し疲れた、と思った時、その先に車両が出入りする通用口があった。業者が利用するのだろう。薄暗い施設が幾つか見える。おそらく、突っ切って進めば病棟への近道になるはずだ。根拠はないが、そう思い通用口に足を踏み入れた。

 野波は足早に進んだ。しかし、リハビリ中の身だ。真夜中の散歩は予想以上に堪える。

 古びた建物の脇を抜けるとき、ビクリと体を震わせ足を止めた。微かに聞こえる異様な音……呻き声? 苦しみ悶えるような低い唸り声が聞こえる。不気味だ。その建物の二階から聞こえた。

 何だ、この呻きは?

 野波は眉を顰めつつ足を進めた。

 少し歩くと出入り口がある。ドアノブに手を掛けると耳障りな音とともに開いた。

 苦しそうな呻き声に、警察官として身につけた正義感や義務感が目を覚ました。昔のように警戒しながら建物の中に入る。年代物のエレベーターと薄暗い階段。野波は階段を上った。広い通路、男の呻きが響く。それに引きつけられるように進んだ。

 頑丈なドアが並ぶ、呻きが聞こえるのはその一つだ。手を掛けたが、開かない。中を覗く窓も無い。造りからして、危険人物の収容施設にように思えた。その中の一人が悪夢にうなされているのか……

 野波は、先に進んだ。

 一般的なドア。はめ込まれたガラスの向こうに、ぼんやりとした明かり。ドアは開いた。そっと覗く……

 薄暗い広い部屋。

 中央部をどっしりとした物が占領している。机ほどの大きさの箱が、何かを載せて連なっていた。その先の壁際にはディスプレーが並んでいる。

 野波は足を踏み入れた。中央部の大きな物に歩み寄る。淡いランプの光が並ぶ何かの装置のようだ。

 水槽?

 その上に載っているのは、円柱形の水槽のようだ。水が満たされているのがわかる。中に何かがあるが、よく見えない。少なくとも魚ではなさそうだ。丸く大きく、じっとしている。

 野波はゆっくりと顔を近付ける。薄暗い部屋の中で、目を凝らす……

 これは!

 思わず仰け反り、ガタンと音がする。

 これまでに、その実物を見たことはないが、その異様な形に一致するものは一つしかなかった。

 脳。人間の頭脳がスッポリと入っている。どの水槽にも……

 ホルマリン漬けなのか?

 病院には、手術で取り除いた部位が研究用に幾つも保存されている、と聞いたことがある。だったら、脳のホルマリン漬けがあってもおかしくはないのか。しかし、この光景は異様だ。

 野波は顔を歪めながら壁に並ぶディスプレーに顔を向けた。どれも微かに揺れ動く水平線が何本か表示されている。それぞれに番号が書かれたプレートが付けられ、その番号が水槽にもあることから、脳の状態をモニターしているようだ。だとしたら、水槽の中の脳は生きていることになる。机のような装置が何らかの働きをしているのだろう。ディスプレーの水平線に大きな動きがないのなら、それは眠っているのか……

 通路に人の気配! 懐中電灯の明かりが動く。

 野波は咄嗟に身を屈め、物陰に隠れた。

 ドアが開き、明かりが部屋の中を照らす。

 部屋の中に入ってきた。野波は見つからないよう回り込み、ドア側に移動する。元警察官の心が警鐘を鳴らすが、体が勝手に動いてしまった。

「だれだ!」

 野波はドアを擦り抜け、通路を走った。だが、真夜中に歩き回ったリハビリ中の体だ。足がもつれて転倒し、敢え無く警備員に取り押さえられてしまった。警備員が無線を使い応援を呼ぶ。

 野波は観念した。

 事務室に連れていかれ、あれこれ質問される。情けない、警察官だったのに取り調べを受ける側になるとは……

 しかし、入院患者であるとわかり病棟に連絡すると、騒ぎの方向が変わった。

 野波は診察室に運ばれ、左腕の検査が始まる。少なくとも医療関係者は古い建物に忍び込んだことより、転倒し取り押さえられたことのほうを問題にしているようだった。




    七


「気分転換に病院を抜け出た、ということですか……」

 翌日、病室に来た再生成育医療の権威、小沢が困り顔で言う。

 野波博幸は、悔恨の表情で頭を下げた。

「すみませんでした……」

「ここまで自重してきたのに……」と残念がる。

「すみません……」

 野波はもう一度、頭を下げた。小沢が大きな息をする。

「でも、まあ、幸いなことに、左腕にケガはないようです。ここにきて骨を折ったりしたら水の泡、ですからね」

 野波は恐縮する。転倒した時、反射的に右手で体重を支えたようだ。右腕に打ち身はあったが、左腕は大丈夫だった。何ともない。ただ、小沢が口にした水の泡、という表現が気になった。

「リハビリが終わるまで、もう少しです。気を緩めないでください。おねがいしますよ、野波さん」

「はい、自重します……」

 と野波は身を小さくする。ちょっと転んだだけなのにこの騒ぎようは何だ、大げさだ、と思う。

 小沢は椅子を立ち、一緒に病室に来た担当医の上川に目配せした。野波を一瞥してから部屋を出る。上川は出て行く小沢に頭を下げ、その場に残った。

「すみません、迷惑を掛けました……」

 と野波は、上川にも謝る。

 上川は幾らか表情を和ませ、小沢が座っていた折り畳み椅子に腰を下ろした。

「長い入院ですから、気を紛らわせたいという気持ちはわかりますが、真夜中に抜け出すなんて驚きましたよ」と皮肉な笑いをする。

 野波は小さな息を吐き、反省した。

「少し体が動くようになって、調子に乗ったんです。すみません……」

「もう、謝らなくていいですよ。ただ、リハビリが終わるまでそれに集中し、また調子に乗ったりしないでください」

「ええ、約束します」

 野波は小さく頭を下げてから、担当医の顔を見た。

「その……、先ほど小沢先生は、水の泡だと仰っていましたが、骨を折ることがそんなに大ごとなんですか」

 上川は大げさに顔を歪めた。

「野波さんは、非常に良い事例なんですよ。順調なんです。試験のデータとして申し分ない。それなのに最後の段階で骨折などすると、せっかくの試験データの体裁が悪くなってしまう。小沢先生は、それを気にしたのでしょう……」

「せっかく、ですか……」

「再生成育医療が一般的な治療ではなく、試験的な特別なものであることは最初にお話ししましたよね」

「ええ、覚えています。私は一つの試験体ですから……」

 上川が目を細める。

「試験データの体裁はともかく、骨折したら少々厄介なことになるのは事実なんですよ」

「厄介なこと、ですか」

 上川が険しい表情で頷く。

「野波さんの左腕は、今も再生成育治療の影響が残っています。事故で腕をなくしたのは、一年ほど前です。その切断面に腕の種を植え、急激な速度で成長させました。そこに骨折などの強い刺激が加わると、再生成育の方向性が変わる可能性があります」

「方向性?」

「再生成育の過程では、その部位の正しい形態になるよう気を配ります。当然ですよね。左腕なら左手が正しい形で正しい向き、正しい位置に生えて欲しいわけです。これは簡単なことではありません。非常にデリケートなんですよ。そのデリケートな部分に、外的な刺激などが加わると正常な成育が乱れ、誤った方向に流れてしまう。端的に言うと、奇形です」

「奇形……」野波は顔を顰めた。

「ええ、再生成育治療では外的刺激を排除することが重要になります。難しいことの一つは、正常な成育を続けるために患者さんが長期間、安静を保たないといけないということなんです。安易に動き回ってどこかにぶつけたりすると、そこで成育が乱れてしまう。正常な成育に戻すのが難しい」

 安静を強要されたのはそういう理由なのかと野波は頷いた。

「この腕も、まだ外部からの刺激で奇形になってしまうのですか」

「骨を折るような大きな刺激は問題です。それにより異常成育が起きる可能性があります。野波さんの左腕を安定期へと進めるためには、慎重にリハビリを行わなくてはなりません」

「安定期に入れば大丈夫なんですか」

「まあ、一安心、というところでしょうか」

「リハビリをすれば、安定期に入るのですね」

「できたばかりの腕は不安定です。リハビリは、あらゆる意味で安定した腕にするために欠かすことができません」

 野波は遠回しな言い方だなと思うが、そこは素直に頷いた。

「わかりました。今後は、気を引き締めてリハビリに取り組みます」

 野波のその言葉を聞き、上川が微笑む。

「よかった。おねがいします」

 上川が椅子を立とうとした。それを野波が止める。

「あの……、もう一つ伺ってよいでしょうか」

 上川は椅子に座り直し、ごく普通にそれに応じた。

「何です?」

「私が見た、あの古い建物の部屋にあった物のことです」

 それを問われ、上川の顔が曇った。

「あれは、人間の脳ですよね……」

 その情景が野波の脳裏に焼き付いていた。気になる。その野波の表情を見て上川は、違うとは言えなかった。

「何かの装置の上にありました。幾つも……。単なる標本ではありませんよね」

 と追い打ちをかけられ、上川は苦慮する。

「それと、辛そうな呻き声も聞こえました。あれは何です?」

「それは……」表情をなくした上川が答える。

「それは、野波さんには関わりのないことです。忘れてください」

 そう言うと上川はスッと立ち上がり、野波を見ることなく足早に病室を出ていった。




    八


「杉浦です」と三〇前後の女性が挨拶した。

「よろしくおねがいします……」

 野波博幸は頭を下げる。

「じゃあ、後はおねがいしますよ」

 と総務部庶務課の大沼課長が言う。杉浦が小さく頷いた。

「では野波さん、来週から八時半には来てください」

「はい、わかりました。よろしくおねがいします」

 と今度は上司になる大沼に頭を下げた。

「では、お部屋の方に案内します」

 と杉浦が言い、野波は彼女の後を追った。庶務課を出て通路を進み、通用口から事務棟の外に出る。

「大変でしたね、入院が長くて……」

 歩きながら後ろをチラリと見て、杉浦が言う。

「ええ、まあ……」

「これからも通院が続くそうですね」

「はい、週に一度、診察を受けることになります」

「よかったですね。この病院で仕事が決まって」

「そうですね。同じ敷地ですし、診察の融通もつけてもらえます。ありがたいと思っています」

「入院する前は、どういった仕事をされていたのですか」

「警察官です」

「警察官……」

 何を納得したのかわからないが、杉浦は大きく頷いた。その動きを後ろから見た野波は、彼女は何をどの程度知っているのか、と疑問を持つ。

 腕をなくし、この病院で先進治療を受け新しく生やした……。それを知っていたら彼女の視線が自分の腕にいくはずだ。しかし、そういう素振りは無かった。大沼課長もだ。この病院には一般的な診療科目もあるが、他の病院では治療できない様々な病気を抱えた人たちも来る。そうした厄介な病気を患った人、という説明があっただけかもしれない。

 二人は一旦病院の敷地を出て、一般道を歩く。

「独身寮は、端っこの方にありますので、ちょっと不便ですね。少し離れたところにコンビニがありますが、案内しましょうか」

 おそらく、真夜中に買い食いをした店だろう、と野波は思った。

「いえ、大丈夫ですよ。後でブラブラしますから」

 仕事も住む場所も都合してくれた。ちょっとした厚遇だ。来週から一緒に働くことになる庶務課の女性が、あれこれ詮索するのもわからないではない。

 敷地をぐるりと回り、四階建ての独身寮に着いた。

「お部屋は三〇七号室です。階段しかありませんので……。ああ、これ部屋のカギです」

 階段で三階へと向かう。独身寮と呼んでいるが、街で見かける一般的なワンルームマンションの造りだった。

 階段を上りながら、杉浦が思い出す。

「一階にコインランドリーがあります。最初にそこを見たほうが良かったですね」

「別にいいですよ。後で覗いてみますから」

「そうですか。それと、部屋には家具が一式用意してあります。使える状態になっていますから……」

「ありがとうございます」

 三階まで上り、通路を歩き、三〇七号室のドアの前に立つ。手渡されたカギを使った。

 小さなキッチンに小型の冷蔵庫と電子レンジ。反対側はトイレとシャワールームだ。靴を脱ぎ中に入る。奥に一部屋、テレビにベッド、小さなテーブル、それで一杯だった。杉浦が窓のカーテンを開ける。西向きで、日差しはなかった。

「カーテンの色、これで良かったかしら……」

 濃い青色をベースに波打つ模様がある。

「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

「電気も点くはずですが……」

 と壁を指さす。野波がそのスイッチを押し部屋の照明を点け、消した。

「あと、お湯も出ますから。今日、越して来ますか」

「いえ、明日が退院ですから、今日は病室に戻ります。でも、話が急だったのに、よく準備ができましたね」

「こうした急ぎの仕事は、庶務課の得意技なんです」と笑う。

「そうですか、お手数をお掛けしました」

「いえ、仕事ですから……。テーブルの上の書類に住むうえでの注意点が書いてありますので読んでおいてください。ゴミの出し方なども、そこに書いてありますので……」

「わかりました。読みます」

「じゃあ、特に用がなければ、私は戻りますが……」

「ええ、ありがとうございました。来週から、よろしくおねがいします」

 杉浦はそれに頷き、部屋を出ていった。一人残った野波は、テーブルの書類を手に取り、ベッドに腰を下ろしてパラパラと捲った。が、直ぐに書類をテーブルの上に放り、ベッドに寝転んだ。仰向けになる。

 病院に縛り付けようとしているのか? なぜ??

 野波は無意識に左腕を擦っていた。

 肘から先を見る限り、新しく生えた腕、などとは誰も思わないだろう。三〇歳を過ぎた男の腕。逞しさと力強さを感じる。右腕とのバランスも良い。リハビリを真剣に取り組んだ結果、左手でも文字が書けるようになった。左の方が丁寧だ。利き腕が二本となった点は、以前より優れている。仕事をするうえで、便利かもしれない。

 しかし週に一度、診察を受け、必ず注射をうち、飲み薬をもらう。

 以前と比べると量も種類も減ったが、この先も注射をうち、薬を飲み続けなくてはならない。強引に腕を生やし、急速に成育させた左腕は、それがピタリとは止まらないそうだ。それを放置し過剰成育となると、極端に老化が進行したりするらしい。従って、成育をある程度抑制することになる。思い通りの再生成育を行うには、それなりの努力が必要だ。週一度の診察には、そうした経年変化を観察する目的もあるのだろう。

 腕を丸ごと一本、再生するという大仕事をしたのだから厄介事の一つや二つ、付いてくるのは仕方ない。受け入れなくてはならなかった。

 ただ、リハビリを終えたら病院とはある程度の距離ができると思っていた。左腕は普通に動く、不自由などない。しかし、大きなケガには注意が必要だ。骨折などしたら大ごと……。もっとも、どこの骨であっても折ったりしたら大ごとなのだが、左腕の場合は骨折などの大きな衝撃で、落ち着いていた成育が暴走する可能性がある、という。ある意味、爆弾を抱えた状況であり、激しいスポーツやケガが付きまとうような仕事は避けるようにと言われた。

 その結果、病院内で仕事を宛がわれ、住む場所まで提供された。ありがたいことではあるが素直に喜べない、何か引っ掛かる。

 高額であろう治療費は、どこが捻出しているのか? 自分は、それほど貴重な試験体なのだろうか……




    九


 総務部庶務課の稲部は、寡黙な男だった。

 朝、挨拶をしても頷くだけ、誰かと雑談をする様子もない。一人だけポツンと離れている。野波博幸は、そんな稲部の大きな背中を追って病院の広い敷地の中を歩いていた。

 それまでは、事務処理や軽微な作業を中心に庶務課の仕事に取り組んでいた。大病院の各部署では、イレギュラーな事柄が起きると庶務課に連絡し対応を求めるという手順が既成事実化している。庶務課では、日々舞い込む様々な要求を課員に割り振り対応していた。それぞれに得意な分野があり、担当が決められている。

 こうした裏方的な仕事に慣れていない野波は、戸惑うことが多かった。先日も、故障した設備に張り紙をすることになったが、広い敷地に立ち並ぶ建物の中で目的地がわからなくなり、張り紙を手に右往左往することになってしまった。ちょっとした油断のために、著しく手間取ってしまう。今日は、稲武の仕事を手伝うようにと大沼課長に言われたが、他の人たちの驚いた様子に野波は不安を覚えた。朝礼を終えるとどこかに消えていた稲部。彼の担当はちょっと特殊で厄介な仕事のようだ。

「課長が何を考えているかわからないが、元警察官なら肝が据わっているのだろう。ただ、今日行くところで見た物、聞いた事を誰かに話したりしないほうがいい。その方が無難だ」

 と歩きながら稲部が言う。特別に寡黙というわけではなく距離を置いて話さないようにしていた、ということなのか。

「わかりました。そうします」と答え、気になることを尋ねる。

「どこに行くんですか」

「第二研究病棟……」とチラリと後ろを見て言う。

 もちろん初めて行く場所だ。聞いたこともない。しかし稲部の歩く方向から、一つの予感があった。

 やはり……

 その古びた建物には見覚えがあった。

「少し前までドアは開放されていたんだが……」

 そう言いながら稲部はIDカードを壁の真新しい読み取り装置に当てた。ガチャリとドアのロックが外れる。

「入院患者の一人が真夜中に忍び込み騒ぎになって、建物の出入り口の全てに電子ロックが付けられ面倒になった。古くて薄気味悪い建物だから、中に入ろうとは思わないものだが、何を考えていたのか知らないが迷惑な話だ。外から入る時はカードを使ってカギを開けないといけないが、あんたは未登録だから、いくらやっても開かない」

 稲部は建物の中に入り、一階の通路を歩いた。

「古い施設で大して使っていないから、設備を新しくする必要はないんだが……。ここだ」

 と稲部は備品倉庫と書かれた部屋に入った。野波も後に続く。

 中央に大きな机と幾つかの折り畳み椅子があり、その周囲の壁際に箱や道具類が乱雑に置かれていた。

「課長も人が悪いというか、入って間もない人にこの仕事を割り振るとは……。あんたは運が悪いよ。いや、ぐるっと回って運が良いのかもしれないな」と稲部が笑う。

 野波はどう応じればいいのかわからず、その場に突っ立っていた。

「今日は特別な仕事が入っているんだ。あんたにも手伝ってもらうよ。まずは、こいつに着替えてくれないか」

 稲部は部屋の片隅に掛けてあった作業用の雨ガッパを中央の机の上に置いた。ただ、雨など降っていない。更に稲部は、長靴や水仕事用の手袋も取り出した。

「蒸れるからな、作業服は脱いだほうがいい」

「何をするんです?」

「廃棄処分だ。最終的に焼却するが、少しばかり臭う……」

 そう言って稲部は、防毒にも使えそうなマスクとバイザー付きヘルメットも机の上に並べた。大掛かりな水を使う作業なのか?

 稲部が、庶務課の制服と化している作業服を脱ぎ始めた。野波は、戸惑いつつもそれに倣う。長靴は雨ガッパの裾の中へ、手袋は袖の中へと入れる。蒸し暑いだろうが、水しぶきが掛かっても体が濡れることはないはずだ。ヘルメットとマスクを持ち、二人は備品倉庫を出てその先のガランとした事務室に入った。一人だけ机の向きが違う管理責任者の前に並ぶ。

「総務部庶務課稲部、他一名。第三研究室五番槽内被験体の廃棄焼却処分に取り掛かります」

「おねがいします」

 野波も、稲部を真似て頭を下げた。五番槽という言葉が引っ掛かる。まさか……

 事務室を出た稲部は、もう一度備品倉庫に入る。何本かのブラシを大きなバケツに入れ、それを台車の上に載せた。野波が申し出て、それを押す。

 稲部は黒いビニール袋を手にして通路に出ると、今度はエレベーターに向かった。しかしそれは、昇降室の壁が金網の荷物運搬用リフトだった。振動・騒音とともに二階へ。頑丈なドアが並ぶ通路を進み、その先のガラスがはめ込まれたドアに手を掛けた。

 やはり、ここだ。

 ドアを開け中に入った稲部は照明を点け、野波の様子を窺う。

「警察官というのは、やっぱり度胸があるんだな。これを見て驚かなかった奴は初めてだよ」

「脳ですね、人の……」

 稲部が頷く。何かの装置の上に載った円柱形の水槽に人の脳が剥き出しで入っている。

「こんなに並べて何をしてるのでしょうか」

「さあ、難しいことは知らない。だが、これからの作業手順は把握している」

「何度もやってきた、ということですか」

「ああ、何度もな。マスクとヘルメットを付けよう。五番槽だ」

 見ると、⑤のプレートのある水槽だけ、中の脳が白濁していた。活動が停止したということか? 壁に並ぶディスプレーを見ると、五番モニターは電源が切れていた。

「ちょっと待て、一応、合掌しよう」

 五番槽の前に立った稲部は、厚手のビニール手袋の手を合わせた。その横で野波も真似る。誰かが死んだことになるのか?

 稲部は慣れた手つきで台座の装置を扱った。水槽に満たされていた溶液が排出される。白濁した脳がダラリとした。更に装置を操作するとガチャリと大きな音がして、白濁した脳がプルンと揺れる。不気味だ。

 稲部は、台座装置の一段高くなった場所に足を乗せて体を上げると、円柱水槽の上部の蓋を取り外す。

「そのビニール袋を広げて水槽の横で持っていてくれないか。こいつを持ち上げて入れるから……」

 野波はその指示に従い、黒い厚手のビニール袋を広げた。

 脳は底面の円形プレートの上にある。稲部は水槽の上から両手を伸ばし、プレートの端に指先を掛けた。

 ゆっくりと持ち上げる。

 脳はプレートの下にも張り出していた。生体組織が長く延び、その先端は円形の複雑な構造物に繋がっていた。神経信号を接続するコネクタ? 先ほどのガチャリという金属音は、これを外した時の音だったのか?

 脳の下側からは水滴が垂れている。だが、赤い血ではない。脳内を循環する体液は、血液ではないようだ。そんな気がした。

 稲部は慎重に持ち上げ、野波が広げるビニール袋の上に移動させ、静かに下ろしていく。姿勢が苦しいのか唸り声をあげた。

「よし」と稲部が言う。

 野波は、ビニール袋に入れた脳をマジマジと見た。右手をそっと伸ばし、手袋の指先で触れてみる。見た目通りのブヨブヨだ。脳というのはこういうものなのだろうか? それとも死を迎えたことからこうなったのか……

「いつまで見てるんだ? 台車に載せてくれないか」

 台座を下りた稲部に言われ、ビニール袋を持ち上げて台車の上へ移した。

 稲部がビニール袋の口をクルリと結ぶ。

「そんなに珍しいか」

「もちろんですよ。頭の中にあることは知っていますが、間近で見る機会なんてないですからね」

「確かにそうだが、肝が据わっているな。大したもんだ」

「そうですか……。次はどうするのですか、これをどこで燃やすのですか」

「燃やせるゴミとして出すわけにもいかないからな。専用の焼却炉がある」

「そこまで運ぶんですね」

「ああ、でもその前に空になった水槽を水洗いする。あそこの流し台にホースがあるから、繋いでここまで引っ張ってきてくれないか」

「わかりました」

 野波はその指示に従い、二人は備品倉庫から持ってきたブラシを使って水槽の底の方まで洗った。その後で台車を押し、第二研究病棟を出た。施設内の人通りが少ない道を選んで歩き、焼却炉へ向かう。驚いたことに、そこは塀を挟んで独身寮の裏手になる場所だった。狭いベランダから身を乗り出せば、煙突が見えるはずだ。

 専用焼却炉は小型のもので、主に手術で取り除いた部位を処分するために使われているという。係の人が取り扱い、厳重管理されていた。予約リストの内容とビニール袋の中身を確認し、焦げたレンガ製の台に載せて焼却炉の中に滑り込ませる。

 係員がスイッチを入れると、空気を送るブロアーの騒音が響いた。焼却が始まる。

「こぢんまりとした火葬ですね」

 その野波の言葉に、稲部は焼却炉を見据えたまま頷いた。

「さあ、戻ろう。後は、ここの係の人の仕事だ」

 第二研究病棟に戻り、外にある洗い場でホースとブラシを使って雨ガッパの汚れと臭いを落とす。

「朝、課長がこの仕事をあんたに割り振ったとき、他の連中が驚いていただろう。あれは、嫌な仕事が他にいった安堵も混じっていたんだよ。不気味だからな」

「確かに不気味ですね。でも稲部さんは、みんなが嫌がる仕事を受け持っている。他の仕事に変えてくれと頼んだりしないのですか」

「これも庶務課の仕事だよ。誰かがやらないといけない……」

 その稲部の答えに野波は眉を顰めた。何か他にわけがあるような気がする。それが顔に出た。

 稲部はそれに気付き、大きく息をする。

「私には娘がいたんだ。しかし、生まれたときから体が弱く入退院を繰り返していたが、この病院で特別な治療を受けることになった。説明を聞いても理解できないような治療だよ。何度か手術をして投薬を続ける。しかし、結局は助からなかった。亡くなってしまったよ。その後、何の因果かこの病院で働くことになり、あの部屋の中を初めて見たとき、なぜかはわからないが娘の脳だと思った……」

「娘さんの脳……」

「いや、そんなことはないと思う。有り得ないことだ。しかし、それを確かめることはできない。モヤモヤした気持ちでいると、不思議と親近感が湧いてきた。私の娘も同じだよ、病気の治療法を探るための半分以上実験的な処置だったんだ。それを知りながら、特別な治療に縋ってしまった。もしかすると娘は、それを望んでいなかったのかもしれない。もう苦しむことなく、楽に逝きたかったのかもしれない。その気持ちを無視し、親の勝手な判断で僅かな可能性に懸けたのなら、これほど罪深いことはない……」

 稲部は顔を歪めて長い息を吐く。野波は身動きすらできなかった。妙なことを尋ねてしまったと悔やむ。

「罪滅ぼしだよ。どこの誰かは知らないが最後のお世話をすることは、娘に対する罪滅ぼしになるような気がしてならない……」

 野波は無意識のうちに左腕を擦っていた。

 医療は格段に進歩した。一昔前ならとっくに命を落としていた人も、助かるようになる。しかしそれでも、治療できない病気やケガがある。それを克服しようと医療の現場では研究を重ね、新しい試みに挑み続けている。稲部の娘も水槽の中の脳も、そうした試みの一つなのだろう。

 自分もその一人だ。

 事故で命を落とすようなケガを負ったが、何とか取り止めた。なくした腕を先進医療の試みで取り戻すことができた。これは一つの幸運だ。感謝しかない。だったら、全てを受け入れて不平不満を言うことなく、社会の片隅で生きていく。そうすることが自分の運命なのだろう……

 稲部は使用したホースを黙々と片付けていた。野波はそれに気付き手伝う。

「よし、戻ろう」

 吐露した気持ちを振り払うように雨ガッパの水滴を払い、稲部は建物の中に入ろうと歩み出す。しかし、ドアがロックされ開かない。稲部のIDカードは備品倉庫で脱いだ作業着に付いたままだった。彼は舌打ちをし、壁のインターフォンを押す。

「庶務課の稲部です。廃棄焼却処分を終えました。すみませんが、ドアを開けてもらえませんか」と言い、上部に設置されたカメラを見る。

 それに対する応えはなかったが、ガチャリとドアのロックが外れた。

「な、面倒だろ」

「そうですね、すみません……」

「うん? あんたが謝ることはないだろう」

 稲部はそう言い、ドアを開けて中に入っていった。




    十


 野波博幸にも、次第に雑多な仕事が回ってくるようになる。

 これといった得意分野はないが、廃棄焼却処分での度胸の良さを買われたのか第二研究病棟の仕事も回ってくる。入場申請をして、自分のIDカードでドアの解錠ができるようになった。

 庶務課の仕事は波がある。暇な時間も多かったが、事務棟で待機するのは辛かった。息が詰まる。そこで野波は、カギを開けられることから第二研究病棟の備品倉庫に行き時間を潰した。他に出入りするのは稲部ぐらいだ。彼もそこで時間を潰すことが多かった。稲部はその部屋だと気さくに話す。

 ある日、暇潰しに第二研究病棟へ行くと、白衣の医師と看護師が建物の中に入っていくところだった。階段を上がり二階に向かう。野波は気になって後をつけた。やはり“呻き声の部屋”へ入っていく。時折、苦しそうな男の呻き声が聞こえる部屋だ。

「あの部屋に入ったことはありますか」

「ああ、何度か、ある。一通りの設備があるから、時々壊れたりする」と稲部が答えた。

「患者さんがいるんですね」

「そうだ。随分長く、あの部屋にいる」

「隔離、してるんですか」

「まあ、そうなるかな。だが、伝染病などではない。人目を避けているんだ」

「人目を避ける?」

「一種の奇形だな。見た目が酷い」

 奇形という言葉が気になる。担当医の上川も同じ言葉を口にしていた。

「頑丈そうなドアが幾つかありますが、他の部屋にも入院患者がいるのですか」

「いや、今は、あのひと部屋だけだ」

「他にも、ここに入院していた患者さんがいた、ということですね」

「ああ、以前はな」

「同じような症状だった?」

「そうだ」

「その人たちはどうなったのですか。亡くなった……」

 その問いに稲部は眉を顰めた。口を真一文字にして閉じている。野波は視線を向けたまま、答えを待った。

「どうなったかは知らない。噂があるだけだ」

「もしかして、第三研究室の水槽の中身ですか……」

 稲部は視線を外す。顔を大きく歪めた後で、それに答えた。

「入院患者がいなくなり、しばらくしてから新しい脳が運ばれてきたのは事実だ。それ以上のことはわからない」

「どういうことでしょう?」

 稲部は目を閉じ、首を横に振った。

「わからないな。ただ、あんたもここの担当として認められたようだ。そのうちあの部屋へ入ることになるだろう……」

 その稲部の言葉は翌週、現実となる。


 ドアをノックすると金属音が響いた。

「総務部庶務課の野波です。乾電池を持ってきました……」

 耳を澄ましたが何も聞こえない。ドアノブに手を掛けると、すんなりと回る。

「失礼します……」と頑丈なドアを開けた。

「庶務課の野波です。時計の乾電池を持ってきました。入ります……」

 応えがない。呻き声もなかった。一歩、足を踏み入れる。

 予想に反して部屋の中は明るかった。対面の壁全体が大きな磨りガラスになっており、日の光を受けて白く輝いている。その窓際に大きめのベッドがあり、掛け布団が盛り上がっていた。顔は見えない。眠っているのか?

 部屋を見回す。病室というよりはアパートの一室だ。キッチン、トイレ、バスルーム。大型のテレビの前には、ゆったりとした一人掛けのソファーがある。設備としては野波が住んでいる独身寮と同じだが、部屋は比べものにならないほど広かった。

 壁に時計があり、秒針が動いていない。電池切れだ。野波は足音を立てないように気をつけて壁に近付き、手を伸ばして時計を取り外した。持ってきた乾電池と交換し、時刻を合わせる。元の場所に戻そうとしたが、壁の釘と時計の背面にある穴の位置が合わず、手間取った。

「あんたなのか? 真夜中に忍び込んだのは……」

 野波はギクリとし動きを止めた。ベッドからガサガサと音がする。体を起こしたようだ。時計を持った手を上に伸ばしたまま、首を回した。

 顔は至って普通だ。四〇代の男性。だが、肩が大きく盛り上がり背中が膨れているように見える。

「すみません、すぐに取り付けますから……」

 時計を小刻みに上下左右へ動かす。手を伸ばしてギリギリ届く高さのため、釘の頭が時計の穴に上手く入らない。何度か試み、ようやく入った。時計が壁に掛かる。

「すみませんでした」ともう一度謝る。

「いや、急ぐことはなかったんだ。たいていは枕元の目覚ましを見るからね」

 柔らかな物腰……。辛そうな呻き声をあげる人物とは思えなかった。

「それで、あんたなのか。真夜中にここへ忍び込んだのは?」

 野波の頬がピクリと揺れる。確かに、ちょっとした騒ぎだった。ドアから覗いたのだろう。

「見ていたんですか」

 と尋ねたが、そうであっても電池を交換に来た男が侵入者だとわかるはずはない。

「ここにいると、いろいろな話が聞けるからね……。まあ、そこに座って、少し話し相手になってくれませんか」

 その男は、大きな体の割に細い腕を折り畳み椅子に向けた。しかし、野波の足は動かない。

 その男は、仕方ないなと諦め顔を見せた。

「私は、この病院の医者だったんですよ。随分と前になりますが、一般外来の内科医です……」

 野波は驚く。男は身の上を話し始めた。

「ある年の冬、スキーに出掛けたんです。スキーは子どもの頃からやっていて、少々自信があったのですが、仕事に就いてからは行くことができず、久しぶりだったんです。天気も良く、最高でした。昔の感覚を取り戻し、調子が出てきた。それでコースの外へ出たんです。規制されているのですが、誰も踏み入ってない新雪の上を滑るのは実に気持ちが良い。気分爽快、ストレスの発散になる……」

 そう言った後で、男の顔から笑みが消えた。

「自分の実力を過信したのでしょう。運動不足もあったと思います。調子に乗ってバランスを崩し、立木に激突した。脊髄損傷、下半身が動かなくなりました……」

 野波は身動き一つせず、その話を聞いていた。対応に苦慮する。

「動けなくなった私に、この病院の研究施設の医師が脊髄を治療する方法があるという話をします。再生成育治療です……」

 その言葉に、野波の片方の眉がピクリと動く。ベッドの男は、それを見逃さなかった。

「ご存じですよね。その左腕と同じです」

 野波は左腕を胸の位置まで上げ、見詰めた。複数の疑問が同時に浮かぶが、結局、幾つかを飛び越してその一つを口にした。

「では、なぜ、ここに入院しているのですか……」

 と尋ねたが、治療に失敗したのですか、という言葉は呑み込む。

「そこが、私の愚かなところです。先進医療の治療は順調で、下半身は少しずつ動くようになります。私は嬉しくなり、病室を抜け出すようになりました。また、調子に乗ったんです。で、階段から転げ落ちた……」

 男は悲しげな顔をする。

「あなたも聞いているでしょう。再生成育は外的な刺激に弱い。それにより異常成育に陥りコントロールできなくなる。その実例がここにあります。見せてあげましょう。ここへ来て、背中を捲り上げてください……」

 野波は躊躇した。しかし、それを見ないで済ますということは出来なかった。足を進め、ベッドに座る男の背後に回り、着ている服を捲り上げた。

 酷い……

 赤黒い大きな盛り上がりがボコボコと幾つもある。それが重なっているところもあった。肩や脇まで背中全体に広がっていた。

「これが異常成育ですか……」

 盛り上がった肩の向こうで小振りな頭が頷く。

「薬で異常成育を抑えているのですが、進行は止まらない。今も徐々に広がっています」

「痛みは無いのですか」

 それを尋ね、野波は男の服を元に戻した。

「ありますが、その痛みが異常成育からくるものなのか、それを抑える薬の副作用なのかはわかりませんね。いずれにせよ、鎮痛剤を使います。薬漬けですよ」

 と弱々しい笑いを見せた。野波はベッドを離れ、男が示した折り畳み椅子に座った。

「失礼しました。野波博幸と言います」

 男が頷く。

「黒木康夫です。野波さんは順調のようですね」

「ええ、何とか。でも、そうしたことをよくご存じですね」

「同じ医者だからと気を遣って、診察に来る先生が再生成育医療の現状を話してくれます。そこで野波さんの話も出てきました」

「再生成育治療についても詳しいわけですね」

「そうですね。一応、医者の端くれですし、自分の体のことですからね。それなりに調べ、勉強しました。でも、先進医療です、研究現場の医師には遠く及びません」

 そうであっても、自分より遙かに豊富な知識であることは確かだ。野波はそう思い、これまでに溜まった疑問を尋ねてみようとしたが、頭の中がグルグル回り、何から聞けばいいのか選択できなかった。結局、思いとは違う話を口にする。

「真夜中にここへ入ったのは、苦しそうな呻き声を聞いたからです。でも、そのドアはカギが掛かっていて開きませんでした」

 黒木が笑う。

「そうでしたか。痛みもあるのですが、異常成育した部位が喉を圧迫するので寝ていると唸ることが多いようです」

 野波は頷く。しかし、病室にカギが掛かるというのも妙な話だ。一般的な病室とは扱いが違うのだろう。特殊性を感じる。そこでハッとした。

「すみません、戻らないといけません」と立ち上がる。

 黒木が残念そうな顔をする。

「そうですか、引き留めてすみませんでした」

「また、お邪魔してもいいですか。幾つか聞きたいこともあります」

 黒木が頷く。

「ええ、いつでもどうぞ。私は暇にしていますので……」

「ありがとうございます。では、失礼します」

 礼を言い、頭を下げてから野波はその部屋を出ていく。こちらも暇な仕事だ、話しをする機会は幾らでもある、そう思った。




    十一


「シュークリーム?」

 黒木は、その手土産に首を傾げた。

「お嫌いですか」

 と野波博幸が尋ねる。手ぶらで病室を訪ねるのは気が引けて、コンビニで買ってきたものだった。

「いや、嫌いということではないが、随分と食べていないな」

「甘い物を食べてはダメ、ということはありませんよね」

「食べ物については特にありませんが……。コレ、妙なものを連想します」

「もしかして、脳ですか」と野波が言う。

 黒木は小さな溜め息をつき、手にしたシュークリームを眺めた。その様子を見て、野波が話を続ける。

「実は、真夜中に病院を抜け出した時、コンビニでコレを買い食いしたんです。そしてその後で、向こうの部屋の水槽を見てしまいました。だから見た目が何となく似てるなと思っていたんです。黒木さんも同じように脳を連想するなら、アレをご存じなんですね」

「聞きたいというのは、アレのことですか」

「他にもいろいろあります。とにかく疑問が多くて整理できません」

「なるほど……」と呟き、手にしたシュークリームを弄ぶ。

 野波は手に持つビニール袋の中に片手を入れ、ガサガサと音をたてた。

「プリンはどうです? それは私が食べます」

「あなたは平気なのですか」

「まだ、印象の度合いが低いのでしょう。何となく思い浮かべる程度ですから」

 と言い、プリンを手渡しシュークリームを受け取った。袋を開け、ガブリと食いつく。

 それを見た黒木は、プリンの蓋を開けてスプーンを使って食べ始める。異様に盛り上がった肩、猫背のように丸まってプリンを食べる黒木は滑稽だ、と野波が笑みを浮かべる。

「そんなに可笑しいですか」

 野波の笑みに気付き、黒木が言う。

「ええ、大のおとなが二人してコソコソと甘い物を食べているんです。やっぱり可笑しいでしょう」と誤魔化した。

「それはそうですね。プリンも久しぶりだな。これは、そんなに甘くない」

「そうですか……」

「いや、私の味覚が狂っているのだろう。体の機能が順番に壊れていますから……」

「調子が悪いのですか」

 一気にシュークリームを平らげた野波が尋ねる。

「良くはない。異常成育が原因か、それを抑える薬の副作用かは、わからないが……」

 野波の表情が曇る。

「私も、それに怯えて生きていくことになるのでしょうか」

「安定期に入れば、それほど気にすることはないようです」

「でも、いつかは安定期が終わる、ということでしょう」

「そう考えることもできますが、サンプルが少ないからハッキリしない」

「私も一つのサンプルなんですね。毎週、診察を受けていますし、この先もずっと続けるそうです」

「先進医療の試みだからね、データはキッチリ収集するでしょう」

「羽目を外して、思いっきりエンジョイしたほうがいいのでしょうか」

「どうかな、羽目を外すとしっぺ返しがある。私がその実例だよ。まあ、どう生きるかなんて人それぞれだが……」

 野波は少しの間、思案し尋ねた。

「異常成育は、元には戻らないのですか」

 その問い掛けに黒木はしばらく沈黙した。ゆっくりと口を開く。

「そうですね。いろいろと手は尽くしてくれますが、まだ、その段階ではないのでしょう。そうした研究にまで手が回っていないのが現状です。ただ、異常であっても成育には違いない。元に戻すと言ってもそれをどう扱うか、厄介な問題が多いのでしょうね」

「難しい、ということですか」

 結局、その一言で片付けることになる、と野波は顔を顰める。

「簡単にはいかない……」

「その……。現状、異常成育の進行を止めることができないとなると、その先、どうなるのでしょうか」

 と言いながら、それを黒木に尋ねるのは酷なのか、と思う。しかし、元医師がそれとどう向き合っているのか聞いてみたかった。

 黒木は深刻な顔で口を閉じていた。そして顔を顰め、話し出す。

「体全体に広がる。部位によっては本来の機能が阻害されることになり、結果、命を落とすことになるでしょう。まあ、いずれにせよ人は死にます。大きな問題ではありませんね……」

 そうして強がってみても、納得できるものではない。

「諦めるしかない、ということですか」

「諦めるか……。誰かが言ってたな、人生、諦めが肝心だ」と気の抜けた笑いをして話しを続ける。

「諦めかどうか、わかりませんが、医学の進歩に協力することはできます。一つ、秘密を教えましょう……」と幾らか笑みを強める。

「あの水槽の中の一つは、私の脳です」

 野波は混乱する。それが顔に出た。それを目にして黒木は、クックッと笑った。

「黒木さんの脳? どういうことです?」

「再生成育の応用ですよ。私の細胞から試験管の中で育てた脳です。それほど難しい話ではないのでしょう。ただ、機能的には申し分ないようですが、記憶などの中身が入っていない。空っぽだ」

「空っぽ……」

「私の細胞から作った私の脳ですが、中身がない。空っぽの入れ物ですね。中身を詰めることは再生成育とは関係のない別の分野になるようです」

「別の分野……」

 黒木はしばらく思案顔を見せた。そして何かを決意したように話し出す。

「医療の究極の目的、目標が何か、わかりますか」

「究極、ですか……。何でしょう?」野波は考えることをあっさりと諦めた。

「不老不死、ですよ」

「不老不死……」

 黒木は一つ頷いてから、話しを続ける。

「人は健康で長生きしたいと願い、医療に頼ることになります。そうなると、医療の方もそれに応えようと努力をする。再生成育治療もその典型でしょう。失った部分を再生し、人生を謳歌したい。誰もが健康で長生きしたいと思う。違いますか」

「そうですね」

 と野波は頷く。この先も楽しく人生を送りたいと再生成育治療に飛び付いた。健康で長生きしたいと願ったのだ。

「それを突き詰めていくと、不老不死になる。年老いて病気やケガをしたりしないで、ずっと生き続けたい。その願いを受けて医学界も新しい医療に取り組む、挑戦することになります」

 そうした流れは、事実としてあるのだろう。人々の強い後押しを得て、革新的な試みが進められる。

「医学の暴走を防ぐための倫理的な取り組みも、実は医療の発展を願っています。それを阻害しないよう気を配る。常に変化する社会の常識やモラルとの折り合いを探り、人目につかないよう抜け道を用意する。そうやって先進医療は進められてきたんです」

 世の中の良識人が口にしない真実だ。黒木のように先進医療の弊害に直面した医師だからこそ、漏れ出た言葉に違いない。

「野波さん、あなたの左腕は上手く再生した。それはそれで素晴らしいことです。しかし、不老不死を追い求める究極の医療からすれば、腕は末端の部位に過ぎません。その意味で取り替えは容易です。しかし脳は、人間の中枢機能です。本質に関わります。再生の難しさは、レベルの違うものになります」

 野波はゆっくりと頷いた。確かに、脳は格段に難しいだろう。

 黒木が話しを続ける。

「今、先進医療は、再生成育した脳に、記憶や個性などの個人の脳情報を移す試みをしています。新しい脳に情報を移すことができれば、不老不死に一歩近付きます。それが、あの部屋にある脳を使った実験です」

「脳情報を移す……。そんなことができるのですか」

「まだ、模索の段階ですよ。幾つかの手法を繰り返し試すことになりますが、気軽に行える試験ではありません」

「そうですね。再生した脳に個人の脳情報が移ったりしたら厄介なことも起こるでしょう。人権や生命の尊厳なども絡みます」

 その野波の言葉に、黒木が笑う。

「少し勘違いしているかもしれませんね、野波さん」

「勘違い?」

「その分野の研究をしている人たちは、そうした倫理の問題には蓋をしていますよ」

「蓋?」

「ええ、私が気軽にできないと言ったのは、別な問題があるからです」

「別な問題……」

「生きてる人間の脳情報を詳細に、正しく読み取ろうとすると、結果的に致命的なダメージを与えてしまいます」

「致命的なダメージ?」

「つまり、脳情報を読み取る処置をすると、その人物は死んでしまう」

「死ぬ……」

「それでも、再生した脳にその脳情報が移れば、救いがあります。しかし、読み取り処置か書き込みか、もしくはその両方に問題があり、望ましい結果にはなっていません。繰り返して試験を行いたいところですが、人の命を奪ってしまうため思うように試すことができません」

 野波は、その話を反芻した。一つ気になることがある。

「黒木さんの再生した空っぽの脳がある、ということは……」

 黒木は、野波の質問を察した。深刻にならないよう笑みを見せる。

「ええ、異常成育が脳に達する前に、読み取りの処置を受けることになります。先進医療発展のための、微々たる貢献ですね」

「そんな……。人の命を奪う行為です。殺人になる」

 黒木は声を出して笑った。

「元警察官として許せませんか」

「医療行為として度が過ぎています。無謀な人体実験、殺人ですよ。違いますか」

 野波は険しい顔をする。黒木の顔から笑みは消えたが、表情は穏やかだった。

「異常成育が脳に達すると確実に、死に至ります。それより前に、臓器不全で死ぬこともあります。そうなる前に脳情報を読み取ることになりますが、それを殺人や自殺と決めつけるのは違うでしょう。そう思いたいですね」

 そう言う黒木を、野波はじっと見詰めた。少しして黒木が口を開く。

「一分、一秒でも長く生きることが必ずしも正しいとは言えない。異常成育の末期なんです。他の道を選択する自由があるはずです」

 医師としての英断なのか、と野波は思う。しかし、それは違った。

「ただこれは、再生成育治療を受ける際の契約でもあります」

「契約?」

「異常成育の末期において、他の先進医療の研究に協力する……。野波さん、あなたもそれにサインしたはずです」

「サイン? 確かに治療を行う前に、幾つかの書類にサインをした覚えはありますが、細かな内容は覚えていません。腕が元に戻ると喜んで飛び付きましたからね」

「まあ、それもあるでしょうが、私のような失敗を繰り返さないために、薬を使ったことが影響していると思いますよ」

「薬、ですか」

「ええ、鎮静剤や従順になる薬です。その副作用で、記憶を喪失したり混乱したりします」

「従順になる薬……。それを使っていたのですか」

「おそらく」

 長期間にわたり病室の中でおとなしくしていたのは、そうした薬が効いていたからだ。野波はそれがわかり、大きな息を吐いた。

「私たちは死ぬまで、いえ、死んだ後まで試験体なんです。野波さん、今ここの施設のどこかで、あなたの脳が再生成育しているのは、間違いないと思いますね」

「私の脳!」

「異常成育に至る可能性は常にあります。そのとき、脳情報を移す試験に取りかかれるよう準備をしている、ということです」

「私の脳……」

「再生成育治療の確立に尽力を注ぐ一方で、その失敗を待ち望んでいる部署がある。ここはそういう場所なんです」

 その黒木の話に、野波はショックを受けた。




    エピローグ


 唐突だった。

 ある日、黒木の姿が病室から消えていた。

 異常成育が進行し、脳情報の読み取り処置を受けたのだろうか。だとしたら、黒木は死んだことになる。

 野波博幸は、第三研究室三番槽の脳をじっと見た。それが自分の脳だと黒木が言っていた。壁の三番モニターの水平線は、他のモニターと同じく微かに揺れる程度だ。眠っているのか、そもそも活動していないのか。黒木の脳情報が、まだ書き込まれていないのだろう。

 本人には、その予感があったのか? わかっていたからこそ、あのような話をしたように思う。それとも、自分に真実を伝えることが最後の役目だったのか……

 まだ、聞きたいことがあった。話しをしたかった。

 せめて、最後のお別れぐらいはさせて欲しかった……

 野波は大きく息をし、三番槽の脳に一瞥をくれてから部屋を出た。

 近いうちに、新しい脳が……、自分の再生成育脳が運ばれてくるような予感がした。


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