(二)
おれは、佐藤の迷いがまったく理解できない訳ではなかった。技
術革新の著しいIT業界に身を置いて齢40を過ぎるとさすがにそ
の変化に着いて行けなかった。若い頃なら第一線に立って寝る間も
惜しんで知識の習得に励んだりもしたが、若い者に仕事を譲った今
では、体力の衰えだけでなく、学習意欲さえも湧いてこなくなって
いた。さらに、多分どこの職場でも同じことだとは思うが、煩わし
い人間関係に悩まされいっそ辞めてしまおうかと思ったことは一度
や二度ではなかったが、しかし妻や子のいる家庭に帰るとそんな思
いはすぐに翻った。
ある時怖ろしい夢を見た。「一炊の夢」ではないけれど、山の中
で迷ってしまい、生まれ育ったのは田舎だったので山には馴染みが
あったからだと思うが、行きつ戻りつを繰り返していると、どうい
うわけかイケ好かない同僚が、彼は猜疑心の強い男で詮索好きで、
他人の噂話を吹聴しては人に取り入ろうとしていた。その彼がひょ
いと現れて、
「こんなところで何をしているんだ?」
と言った。おれは、
「山を降りようとしているんだが、どうしても道がわからない」
と言うと、彼は、
「何を言ってるんだ、この道をまっすぐ行けばいいんだよ。途中に
トンネルがあってだんだん狭くなっていくけど、そこを抜ければす
ぐだよ」
おれは彼に礼を言ってその道を進んだ。すぐにトンネルがあって迷
わずに入って行った。始めのうちは充分立って歩けたが、彼の言う
ように徐々に天井が迫ってきて腰を屈めないと前には進めなくなっ
た。さらに進むとやがてその先は真っ暗で四つん這いにならなけれ
ば前に進めなくなったが、おれは疑心を振り払いながら前に進んだ
。そして遂には体が漸う通るくらいの狭い穴の中を腹這いになって
進んだが、しかしそれでも出口はいっこうに見えてこなかった。も
しもこんな時に地震でも起これば間違いなく生き埋めになってしま
うと考えると恐怖が芽生え、もはや疑いが振り払えなくなって引き
返そうと思ったが、狭い穴の中で向きを替えることさえ出来ず、し
かも腹這いのままでは後ろに戻ることも出来ず、ただ前に進むこと
しか出来なかったが、いつになったら抜け出せるのかさえ判らなか
った。恐怖を感じたおれは、
「くそっ!あいつにダマされた」
と叫んだところで眼が覚めた。全身からは脂汗が噴き出していた。
また、殊に若い社員との考え方の違いに愕然とした。彼らはさす
がに言われたことの呑み込みは早かったが、ところが何故そうしな
ければならいかといった連想はほとんど働かせようとはしなかった
。だから教えられたこと以外のイレギュラーな事態が起こると信じ
られない仕方によってその場凌ぎの処理をして繕った。後になって
修復のために作業が滞ることが何度も起こった。つまり、彼らは目
の前の効率ばかりを意識して先の非効率を考えようとはしなかった
。ある日、使った後の会議室の掃除を新人の女子社員に頼むと、1
0分も経たないうちに「終わりました」というので驚いて見に行く
と、イスは放置されたままでゴミ箱にはゴミが溢れて、「一体どこ
を掃除したのか?」と訊くと、「机の上を拭きました」と言ったが
、絞り切れていない雑巾で拭いた後の滴が其処彼処に見られた。
「ダメじゃないか、きちんと絞らなきゃ」と言うと、
「大丈夫ですって、すぐに乾きますから」と言い返した。
さらに、どうでもいいことかもしれないが、字がヘタで読めなか
ったし、メールのような短文しか書けなかった。一言で言ってしま
うと何もかもが「がさつ」だった。おれは彼らをちょうど三人いた
ので「がさつ三兄弟」と呼んでいたが、始めの頃は何度か注意もし
たが次第に諦めざるを得なくなった。と言うのも、彼らはあのイケ
好かない同僚から可愛がられていたからで、更に、そもそもIT技
術とは情報手段である一方で、これまでの煩雑な作業を効率化する
ことによって進化してきたからである。やがて我々はペンを持って
字を書くことすら面倒臭くなってしまうに違いない。もちろん字が
書ければの話だが。技術をすべて機械に委ねて、果たして我々の生
命体としての能力そのものは退化していないだろうか?
(つづく)