その3
5
降り積もる雪を横目に、商店街に男は訪れていた。
あの現場での仕事は3日まで何もしない。年末年始に特に用事はないので派遣会社に頼み込み、ある会社の夜間警備をすることになった。元旦の深夜からだ。先ほど貰った清酒を見つめていると、大晦日ぐらいは人並みに浮かれてもいいのではないかと思う。そういえば、今年の元旦も働いていた。
今年もどれだけ働いていたのだろう。一日ぐらい、骨休めをしてもいいのかもしれない。
男はアーケードをゆっくりと歩きながら周囲を見渡した。明日の飾り付けで賑やかしく、もう辺りは正月だ。天井からも七福神や来年の干支の絵が吊るしてある。「賀正」「謹賀新年」などの文字も華やかだ。店と店の間から見せている雪がはらりはらりと落ちて、道を白く塗っている。アーケード街の中にあるスーパーマーケットに入った。無造作に買い物かごを取り、狭い店内を直進する。惣菜コーナーに行き三食弁当と年越しそば用にカップ麺も一緒に入れた。
大晦日。
そう今日を呼ぶ。
皆、忙しそうにレジへ殺到している。男はレジを待つ間震えた。自動扉が開閉する度に、冷風が舞い込んでいるからだ。外はかなり冷え、雪はしんしんと降り積もっている。レジを済ませ外に出ると、吐く息が白く立ち昇っていく。時刻は6時を回った。男は家路をゆっくりと歩いていく。閑静な町並みがこの雪で、より一層感じられた。
途中の電気店の陳列にある液晶テレビに、年末の恒例行事の歌番組が放映されている。最近は色々な歌があるもんだと感心してしまう。
通りを抜け、いつもの銭湯に立ち寄る。番台の白髪の眼鏡を掛けたおやじは、70歳を越えた人だ。
「今日はさすがに、入りがないねえ」
そうにこやかに老人はぼやいた。無口な男の性格は知っているのだが、今日に限っては声を掛けずにはいられないのだろう。いつもだったら、確かに威勢のいい、黒い日焼けした若い男がその声に反応するのだが、今日はいない。
「こうも人が居ないんじゃ、これで店じまいだな」
番台に置いてある小さいテレビを見ながら、老人は言った。テレビにタバコの白煙を吹きかける。何も言わず男は、脱衣所から浴室へのすりガラスを開けた。ガタピシな戸の向こう側には、湯煙で曇っていた。人はいない。
今日は貸し切りだ。ひとりで入っているのが、とても申し訳なく思う。主人にしてみれば、何も自分の為に湯を沸かしたわけではもちろんないが、ちょっとだけ今日は特別な気がした。
湯船から上がると、洗体場で頭を洗う。石鹸だ。一年の汚れを洗い流す。そんな意味を考えながら、男は体をゴシゴシと洗う。
ひとり風呂を、いささか恐縮しながら楽しんだ男が脱衣場に戻ると、ひと声掛かった。
「一本どうだい。ちょっと早いがお得意さんへの年玉だ」
老人は飲料水販売機から瓶のコーヒー牛乳を取り出すと、不慣れな手つきで差し出しす。男は手を振ったが、ついには掴むことになった。
頭を下げながら、瓶の蓋を開ける。腰に手を当て、ゴクゴクと喉奥に流し込む。
うまかった。冷えた甘味が体に染み渡って行くようだ。
「来年もな」
男の肩を老人は、ポンと叩いた。
6
外に出ると雪は止んでいた。辺り一面の雪化粧に男は驚いた。しかも誰の足跡もないのだ。見事な程に白い絨毯になっていたのだった。靴跡を付けるのがもったいないと思いながらも、男は踏み出した。静かだった。人の声も車の音も何音も聞こえなかった。聞こえるとすれば、電線に積んだ雪が重さに耐えかねて落ちてくる音だけだった。
アパートに着くと大家の明かりは点いているが、残り全部の5世帯は点いていなかった。みな帰ってしまったんだろう。男が玄関で靴を脱ぎ、2階への階段に足を掛けようとしたとき、大家の部屋扉が開いた。
「今かい?」
大家はもう85歳を過ぎようとしている女性だ。眼鏡越しに男を見る。
「大変だねえ」
大家はそう言うと一旦扉を閉めた。男が階段を上ろうとしたとき、再び扉が開いた。
「これ、送ってきたんだけど、わたしだけじゃ無理だから」
手渡されたのはリンゴだった。綺麗な赤みがあり、甘そうだった。今日は色々とものを頂くことが多い。男はひとりごちし、大家に深く頭を下げた。
「今日はゆっくり休みな」
大家はそう言うとゆっくり扉を閉めた。
部屋に戻り、照明を付ける。荷物をテーブルに置き、ジャンバーをハンガーに掛けた。ここで男は大きく息を吐いた。白煙が立ち昇る。狭い台所へ行き、湯を沸かす。いつも通り手際よく、事を済ませていく。
炬燵とテレビに電源を入れた。賑やかな歌声が聞こえてくる。仕事着からラフなジャージに着替えて、沸いたお湯を急須とカップ麺に注いだ。そして十分に暖められた炬燵に足を入れる。悴んだ足先が緩んだ。男はじっとCMを見つめる。
出し忘れた年賀状はないですかと問いかける。男は年賀状など出さない。出す当てもない。無論、年賀状も来ない。
人とのつながりは希薄だ。仕事場では日雇いのために、それほど親しくなる者はいない。黙々と仕事をする男には、談笑も気難しい。
今日声を掛けてくれた人たちが唯一だ。だから男は年始の挨拶などした覚えがない。大家だけには一言挨拶する。
わぁっと、テレビから笑い声が聞こえる。我に返り弁当の蓋を開ける。カップ麺の蓋を開け、かき揚げをつゆに浸す。そばの匂いがした。男はそれをかき込んだ。
雪は未だしんしんと降っている。
夕食を済ませた後、男は寝転がって一息入れた。今日までの疲れが一気に出てきたようだった。テレビからの歌声が聞こえてくる。まるで眠りを誘うかのように、静かなやさしい声に聞こえた。うとうとし、男は寝入った。
7
どれくらいの時間が経ったか、男は最初わからなかった。
時計を見ると11時半を回っていた。紅白歌合戦も最後の辺りの歌手が歌っていた。起き上がり、いそいそとちゃぶ台の上を片づけた。うっかり寝てしまった自分に苦笑しながらも、年齢を考えてしまうのだった。
自分これから、どんな人生を送るのか?
夢ってなんだったのだろうか?
自問自答する男は、最終的にはいつもここにたどり着く。
独身のまま終わるのも良いが、生涯の伴侶とともに人生を歩いてみたい。自分の子供と遊んでみたい。家族を持ってみたいと考える。もしここに家族が居たら、賑やかであろう。これほど静まり返っている事はないはずだ。暮らしのレベルなど取るに足らないが、家族だけは望んでもすぐにどうこうなるわけでもない。決して寂しいわけではないが、死に際に誰もいないというのが不安である。いずれ死ぬ運命だ。変えられない自体をどう過ごすのか?
結局ここに戻る。
男はじっと紅白歌合戦の行く末を見つめていた。いよいよ定番の「とり」が登場する。冷めたお茶をひと口飲んだ。意外にも冷えたものが気持ち良い。
ふと、外の雪を見るために立ち上がった。結露の窓を開けると、冷気が部屋にどっと入り込んできた。雪は止んでいる。真下の小道は、すっかり広い雪で覆われていた。足跡も何もない。白い絨毯だ。男は夜空を見上げた。テレビから大きな声が聞こえてきた。
ー今年は白組の優勝です! おめでとうございます!ー
わぁっと拍手が広がる。大会長から渡された優勝旗を、白組キャプテンが高く振り挙げる。
ひとしきり優勝の気分に浸った後、恒例の「蛍の光」が鳴り始めた。今年もあと15分程度である。男はぶるっと体を震えさせた後、窓を閉めた。いそいそと炬燵に入る。ポットから急須に、もう一度お湯を注ぐ。ふわりと湯気が立ち上った。
ー来年がみなさんとって、良い年になることを祈りますー
総合司会がそう言うと、カメラが会場全体を映した。拍手が沸く。大きなクラッカーが鳴り響き、花吹雪が舞った。男はひと口お茶を飲んだその刹那。
鐘の音が一つ響く。除夜の鐘。もう一つ鳴る。
寺が映り、参道に行列をなす人々が映る。これも恒例の「ゆく年くる年」だ。静かな番組だ。最近民放では、やたらと賑やかなものが多い。ここだけはずっとこれだ。男はぼんやり見つめていた。
行列は境内に続いている。初詣待ちの行列だ。中継されている各地の場面が映り過ぎていく。人が多いところや少ないところ、それぞれに年末と新春を迎えようとしている。時間だけは人に平等に来るのだ。
今年も終わりだ。
男は背筋を伸ばした。除夜の鐘が響く。画面左上の時刻を見つめた。
11時48分。アナウンサーが今年の締めくくりの言葉を言っている。
今年も色々あった。その日暮らしでも、今の生活が普段と変わりなく過ごすことが出来るならばいい。別に特別な変化を求めているわけではない。時代の流れがそうであれば、逆らうことはしない。ただ気持ちに正直でありたい。所詮ものの善し悪しを決めるのは、己である。この先どんな生活が待っているのかは誰にもわからない。決して後ろ向きではない。前を向いてしっかりと、この世の行く末を見ていきたい。生きている限り。
男は再び窓を開けた。雪は止んでいる。テレビでは静かに今年の終わりの模様を映している。時刻はあと2分。男は空を見つめた。白い息が夜空に舞い上がる。
いよいよカウントダウンだ。
そう、時間だけは皆を裏切らない。刻々と進んでいる。後戻りなどしない。するはずもない。前を進み続け、この一瞬一瞬の出来事は過去になっていく。
前を向いて歩いていくしかない。
画面が時計になった。秒針が新年に向かって進む。
5、4、3、2、1……
「新年あけまして、おめでとうございます!」
つい数秒前の物静かな声と違って華やかさが弾む。一年の節目というのはこうも気分を変えさせるのか。
机上の清酒パックが目に入った。
正月が無事迎えられたことをお祝いするか。
男はもう一度空を見上げ、吐く息の白さを確認した後、窓を閉めた。
おわり