謀鬼の盤上
「でっ、では今川にお父上を追放されたと言うのは実は…?」
「然様。このときの贋者にござる」
私があっさりと言うと、虎千代姫は目を丸くした。
「それが史実通り、と言うことなのでしょう。なれば私もその通りにするまでのこと」
天文十年(一五四一年)、私は父・信虎を駿河に追放したことになっている。私はそのようにした。この男を合法的に追放する段取りを組むことで、その身の安全を保障してあげたのだ。駿河の今川義元は快くこれを承けてくれたが、まさか、武田信虎が真っ赤な贋者で、何百年も後の世界から来たなどとは夢にも思うまい。
「これが武田家の秘中の秘。知るのは私と生きている信虎と、貴殿くらいだ。だが、この話を同じ、戦国を生くる何者に話したとて、通用しますまい?」
「それが初陣のことをお話にならない理由だったのでござるな…」
私は無言で頷いて見せた。確かにこんな座興でもなければ余人に話すことでもない。
「武田殿のお話、なんと言ったらよいか。ただただ驚き入りました…」
虎千代姫は、驚愕覚めやらぬ様子だ。
「蓋を開けてみれば、武田家累代の悪霊も、暴君信虎も夢幻と言ったところでござるな」
私は声もなく笑った。
「ははは、長尾殿。そう本気になされるな。今、私が口にしたのは、あくまで今のは海のものとも山のものともつかぬ眉唾話。ただの座興でござる。何しろ私は、鳳凰山の糸取り貉ゆえ」
やがて、真夜中になった。あれから虎千代姫も床に入り、私は隠密たちと残務処理をし、再び碁盤の前へ戻った。
「武田さま、今宵は、まだお休みになられませぬですか?わたくしお夜食に何か、お支度致しますですよう!」
虎千代姫に仕える黒姫殿は、甲斐甲斐しく私にも世話を焼いてくれる。誰に嫁ぐかは知らないが、この子はきっといい嫁になるだろう。だが私はやんわりとそれを断った。
「かたじけない。十分だ、もうお休みになられよ」
さて、誰もいなくなった。私は、碁石を並べると、白石をとって向き合う。対手は、木戸に移る私の影である。
「どうかね。そろそろ出て来ても良い頃だろう?」
私が呼びかけると、影はむくりむくりと姿を変え、やがて鍬形甲の鎧武者になった。この影の姿は毎回、一定しない。宙を浮く生首のこともあれば、馬や刀の姿をしていることもある。これこそ信虎の死後、私の影に取り憑くようになった、武田家累代の悪霊と言うものだ。
「今宵はその姿か」
残った燗冷ましをすすりながら、私は苦笑した。
この悪霊、武田家に限らず、戦国乱世を生き抜く武家の屋形にならば必ず居るだろう。
(長尾殿には言えなかったな)
遅かれ早かれ違う形で彼女も、これを背負うことになろう。向き合い方は人、それぞれだ。だが私のように、悪霊と棋譜戦を繰り広げようと言う酔狂な男も稀だろう。
(父上、私も狂うているのかも知れませんな)
この戦国乱世と言う、妄執が生み出した魔物に。ときに今なら、風雲児たる亡父の気持ちが分かる気がする。
目の見えぬ悪霊は黒石だけを、ずず、と動かした。私も白石を打ち返す。この白を取るのにこの私でも数年かかった。これから一度たりとも、悪霊に上手を取られるわけにはいかない。何しろ、この白石は信虎の遺骨から造ったものなのだから。
いずれはこの遺骨も私とともに諏訪湖に葬り、龍神に捧げるつもりだ。それが我が武田の一族を命を懸けて守り、この私に継いでくれた父へのせめてもの弔いだ。
(それまでこの武田晴信、何があろうと負けませぬ)
私は父と戦う。
今なら天魔鬼神さえも、我が手の内だ。
「この私に棋譜戦を挑む愚、後悔させてやる」