化かし合いの果ては
「狙いは父、信虎よりも武田晴信、この私の方だろう?」
まさに貉に化かされた顔で、男はこちらを凝視した。背後で驚愕しているのは、信虎である。ここは丑三つ時の信虎の寝所。私は大鎧のまま、戸を押し開けた。
「おっ、おのれはなぜここにおるッ…?」
「簡単なことだ『貉』殿。ただ貴殿には一日遅く、教えただけだよ。奇襲は『七日後』ではない、『六日後』だ。お前が甲府館へ信虎暗殺に発つのに合わせて夜襲をかけ、海ノ口城は一日早く陥落したのだよ。平賀成頼は、昨夜死んだ。そしてお前が意気を通じていたこの男も、我が手に落ちた」
私は板垣信形に、海ノ口城でひっ捕らえた男を引き出させた。
「見覚えあろう。この男は、お前に知恵をつけられたものだ。金で雇った手勢とともに奇襲口で待ち伏せし、私を暗殺して成り替わろうとしていた。この私、のちの武田信玄なる男にね。私の行く末についてはこの男から、聞いたのだろう?にわかには信じがたいが、この男は聞くところによると、五百年ほど未来から来たと主張している」
「たッ、助けて下さい!やらないと殺すって言われて!おれッ!ただの日本史が好きなだけのフリーターですッ!」
私によく似たその男は、涙ながらに叫んだ。フリーター…?とは今でもなんのことかは分からないが、この血なまぐさい戦国の世に飛ばされてくるなど不幸な男だ。
「どう言うわけかは知らないが、この男のような未来から来たと主張する人間が、領内にはたまに紛れ込んでいる。お前はこの男をそそのかし、晴信に成り代わらせ、武田を傀儡当主に支配させようとした。だが今、ここで我が父、武田信虎を殺しても無駄だ」
「おのれッ、晴信!くそッ!最初から我をはめようとッ!」
「これは化かし合いだとお前は、知っていて乗ったはずだ。だまされて怒るのは、お門違いだな。お前は信濃の雇われものだろう。調べはついている。隠し名『貉』、お前は、北信濃の村上義清に寄寓する『自在』と言う忍びの手の者だろう。その男は金次第で他家にも容易に、謀殺を請け負う忍びを派遣するそうだな。金を出したのは、南信濃の小笠原か、それとも駿河の今川か。この上はいちから吐いてもらうぞ」
「おのれッ!そうはッ!そうはさせるかッ!」
『貉』は口角泡を飛ばして叫ぶと、信虎の背後に回った。父は愛刀・左文字を抜く暇もなかった。熟練した忍びは逆にその左文字を腰から奪い取ると、銀色に濡れた刃を信虎の咽喉に突きつけた。波打つ刃紋に脅かされ、老いてたるみかけた咽喉の皮が、ごくん、と動いた。
「晴信ッ、助けい何をしておるずらッ!」
「そッ!そうだッこの場でぬけぬけと信虎を殺されては、元も子もあるまいッ!わしを捕えてみろ、息子のお前に親父を殺せと命じられたと、死ぬまで謳ってやるわいッ!」
「殺すがいい。父を殺すは、紛れもなく我が念願。だが、お前ごときにそれは果たせまい。まずその奪った左文字だが、真作と思うかね?」
『貉』は目を丸くした。
「なっ…なにっ!どう言うことだッ…!?」
私は殺気を込めた目で、眼前の信虎を睨みつけると言ってやった。
「お前は贋者だな。この晴信の眼を誤魔化せると思うか」
言った瞬間、偽信虎の眼が何度も見開いては瞬いた。
「ばっ、ばっ、馬鹿なッ!阿呆なことを申すなッ、こっ、腰抜けごときがッ、たかだか晴信めらッ!この血のつながった父に向かってッ!」
金切声で激昂する信虎を無視して私は、背後に尋ねた。
「貉殿、疑問に思わなかったかね?この男がなぜ、『人取り』をしていて、いつまでも海ノ口城を引き払わなかったのか。そしてこの晴信の策にかかって急きょ、退陣したのか」
『貉』は目を見開いたまま、硬直している。想像もつかなかったと言うことだ。
「私は父を尊敬している。それは、地獄の業火に嬲られるがごとき、武田家当主を務めていたからだ。敵方、親族、あるいは家来。暗殺と謀略の恐怖におびえ、名家の呪縛に心を奪われ。常人の神経では、日一日務めえぬ地獄であったろう。狂わずしては、生きていられない。狂ったこともあっただろう。それでも、父は武田宗家復興を成し遂げた」
私は刃を抜き、その男の瞳に向かって突きつけた。
「『身代わり』を探したな?自分のように、何百年も後の世界から来て、自分の代わりに武田信虎を務めてくれる者を。お前は信虎ではない。操られていたのだろう。この納戸に潜む人物に」
私は納戸の奥を開けさせた。そこからおずおずと出てきた。もう一人の信虎が。
「お前たちは、二人で一役を務めていた。武田信虎は夜陰、独り悪霊と語らっていたのではない、同じ顔の同じ声で『会話』をしていたのだ。一人は納戸に潜み、存在しないふりをしてね。納戸の信虎が、昼間の信虎を操っていたのだ」
「なんだとッ!?と言うことはまさか、あのとき信虎めが急に戻ったのは!?」
「偽情報を流したからさ。甲府で『本物の武田信虎が暗殺された』と。正体がばれるのを恐れた海ノ口城の贋者は、身代わりを探すどころじゃない、泡を喰って戻っていった。この偽情報が本物なら甲府で死んだ方が贋者で、戻ってきた自分が本物だと主張しなくてはならないからね。結果は御の字だ。二人とも、正体を暴くことが出来た」
「おのれッ!ふざけおってッ!」
私はすかさず、手を振った。瞬間、付子を塗った黒い吹き矢が、人質の信虎ごと、『貉』を毒殺した。無駄な抵抗だ。すでに潜ませておいた彼らこそ、私が板垣信形に命じて武田信虎を暗殺するため極秘裏に育てさせた無音の暗殺部隊だった。
「わっ、わあっわああっ!殺さないで!お願いですおれは殺さないで下さいッ!」
「安心したまえ。別に殺しはしないから」
私は顔を引きつらせた私によく似た男に、話しかけた。
「君には、私の『身代わり』を務めてもらおう。ちょうど探していたところだ。つまりはその仕事に就きたかったのだろう?」
「えっ…えっ、いいんすか?」
「いいとも」
これで一件落着だ。思えば長い付き合いだ。ちなみに今、越後に行った私の代わりに甲府にいるのはこのときに雇った影武者なのである。
そして私は、殺さなかった方、納戸の信虎に向き合った。
「さてあなたは、本物の左文字を持っているな?」
「私も、贋者です」
がっくりと項垂れて、信虎と言われた男は、告白を始めた。
「どうしようもなかったんです。身代わりにならないと殺すと脅され、ことあるごとに、虐待されました。…あんな恐ろしい男になるなんて、考えられない。…限界だったんです。それで気が付くと、本物の信虎公を…」
「あなたの気持ちは分かった」
私は頷くだけ、頷いて見せた。
「だが、それでも信虎は私の父です」
「申し訳ありません」
老い疲れ切った男は、途端、声を殺して嗚咽した。
そのあと納戸の下からは、本物の父、信虎の遺骨と血にまみれた寝間着が発見されたのだ。