初陣の秘密
「真人が言うには、武田殿は初陣を秘しておられるとか」
虎姫は、不思議そうに尋ねた。
「ほう」
この話は興味がある。どうやらこの武田信玄こと晴信の生涯を描いた記録においては、初陣とされる海ノ口城合戦は、記録確かならざる合戦と伝えられているようなのだ。
「話は、あらかた間違いないよ。その、『甲陽軍鑑』なるものを、誰が書いたか私は知らないがね。海ノ口城のいくさも平賀成頼なる守将も、実在するものだ」
私が簡単に口を割ると、虎千代姫はますます美しい眉宇をひそめた。
「では、なぜ人にお話にならぬのですか?」
「もちろん、理由があるよ。一つには、私がこの合戦で父を、殺そうとしていたことをあまり話したくなかったから。そしてもう一つは」
私は言葉を切ると、終局の見える一手を打った。
「話しても余人に、伝わらぬようなことがそこで起きたからさ」
巷間謂う。若干十四歳この私がなんの経験もない初陣で、楽々と一城を落としたと。信虎が兵、八千を率いても落とせなかった海ノ口城を、たったの三百の手勢で落とした、とか。種を明かせば、簡単な話だ。手引きしてくれる存在がいたのである。
「汝が武田の若き貉殿か」
その影はある日、私の臥所に俄かに立った焔火の悪霊である。
「汝、実の親を殺そうとは何たる業が深い」
「私の業が深いのではない。祖父は実の弟と争い、父はその叔父の一族を弑した。上古以来、源氏は一族みな、骨肉相食むが運命。私はその習いに従っているまでさ」
「汝だけは違うと言いたげぞな」
「否定はしないよ。説明はしないがね」
率直に私は、話を進めた。
「お前は父を殺せ、と私を消しかけに現われたのだろう?…何者だ?」
私は密かに、枕元の短刀を引き寄せた。
「鳳凰山の糸取り貉よ」
「違うな。己は、夜通し父と語らいし、悪霊であろう?」
焔は答えに詰まったが、そうだと応えはしなかった。
「我は貉じゃ」
私は苦笑した。
「なるほど、そのようにしておけと言うことだな?見返りはなんだ?」
「なんであろうな」
ぐふふ…と焔は妖しくおぼめいて嗤ったかに見えた。
「…我と同じ貉殿ならば、知らぬか。悪霊疫病は業深き人の肚の内に住みたがるものだと」
「なるほど」
声を立てずに、私は笑った。
「お前は信虎から、子の私に乗り換えようと言うのだな。業の深いことだ、疫病神殿」
言った途端、焔は立ち消え、そこに何も残らなかった。それがこの忍びと私の間で、密約が成った瞬間であった。
『貉』は、優秀な忍びだった。三度も信虎を海ノ口城から撃退した平賀成頼の内情を探り当て、その抜け道を難なく突き止めた。成頼は近くの海尻城に病気の妻を庇っている。近々、信虎が退陣すれば、城代に兵を任せ、この抜け道で千曲川沿いに脱出する予定でいた。
私の真の狙いはこの奇襲を使った暗殺計画であった。父が私に殿軍を命じるように差し向け、私は戦場に留まる。そのまま正月で武装を解除した軍紀のゆるみに乗じ、信虎に刺客を差し向けるのだ。
信虎の死亡を確認後、私たちが凱旋軍として帰投し、返す刀で信虎の仇討を宣言すれば、武田家は一気にこの武田晴信の手に落ちる。ここまでの絵図を描いたのは『貉』であった。
「我にはな、すべてがお見通しじゃ。実はな、武田家の行く末が丸々と分かるのよ」
「武田家に取り憑きし、悪霊だからかね?」
水を向けると、『貉』はしれしれと笑った。
「まあ、そうじゃと言うておこう。お前も我に順うといい。我には、お前の行く末もみな、すべて分かっているのだから」
物の怪は自信に満ちて、笑うのだ。だがその妖怪にも、ままらなぬ事態が果たして起こったのだ。
「信虎め。なぜ退かぬ」
『貉』は歯噛みをするようになった。予定を大幅に越えて、信虎は兵を退かなかったのである。
小雪のちらつく千曲川は、すでに凍りついている。抜け道はもはや、平賀成頼にとっては脱出のための絶好の状態になっていた。
「恐らくは次に、みぞれ雪の降る晩あれば平賀は出掛けような。これでは好機に間に合わぬわ」
『貉』の焦りは手に取るようだった。
私は、その様子をしばらく観察すると、火鉢の炭の燃え続けるのを見ながら、おもむろに帷幄の混乱を判じてみせた。
「辛抱して待つことだ。我が父は、おのれの愉しみを邪魔されるのを最も嫌う」
「どう言う意味だ」
私は肩をすくめた。
「言った通りの意味さ」
「信虎公は、人取り(誘拐)狼藉に専心なさっておられる様子」
落とせなかった城への腹いせではないか、と傅役の板垣信形などは、歯噛みをしていた。嵩んだ戦費を、人市に人質を売って賄うためと言うのが名目だが、その人質の首を信虎は帷幄で刎ねているらしい。
「あの、気狂いめが」
『貉』は嫌な顔をした。
物の怪に罵られる父の所業は、無惨を通り越して滑稽だ。
「問題はない。それは、私が一計を案じておく。七日後に決行だ」
「信じて良いのだろうな」
『貉』は不安そうに、月の凍みついた空を見た。
「私の段取りに間違いはない」
私は杣を集めて来て、すでにこれから七日間の天候を把握している。信虎が八千の兵を畳んでの退陣に三日、敵がそれを信用して動く決意が着くまでに遅くとも三日、そして七日目には地のものなら知らぬものの無い月の見えない悪天候がやってくると、計算が立っていた。
「その年齢で、大人が舌を巻く才よ。末が恐ろしや」
「ああ、さればこそ私は武田晴信でいられる」
私は、うそぶいてみせる。『貉』は不快そうに顔を歪めた。
「これではいずれが貉か分からぬわ」
「それで。奇襲は首尾よう成ったのですか」
虎千代姫は、瞳が輝いて先が待てないと言う風だ。真人くんもそうだが、どうしてこんなに他人の話に肩入れできるのだろうか。
「貴女はどう思われる?」
「わっ、わたしでござるか?」
「然様、いくさ女神の景虎公は」
私は微笑んだ。
「『貉』のごとき男が、突然現われた。ご丁寧にこちらのしたいことにすべてお膳立てをしてくれた。その男に言われるがまま、奇襲はなったと思うかね?」
「それは…」
燭台の炎に照らされる中、虎千代姫はうら若く潤む瞳の色を曇らせた。恐らく答えは、私と同じだろう。
「知りがたきこと陰のごとく」
私は孫子を諳んじた。風林火山だけだと思っている輩が多いようだが、大事なのはその先。隠密から行動に出るときなのだ。
「奇襲、かくあるべし。共に刃を血に染める者たち以外、何人にも、絶対知られてはならない。どんな立場であれ特に部外者にはね」
「『貉』めは、武田殿を謀ったのですか?」
「申すまでもなく。だが、咎めだてすることなどない。あの男は、私を幻戯にかけようと最初から現れた。だから私も心置きなく、『貉』になれた」
貉の肚は読めている。だが暴くよりも、利用する方が有益だ。
「愚かだよ。この私に化かし合いを挑むとは」