父と武田家
甲斐の国主たる私の身は今、越後の深雪に埋もれ坂戸に在る。
事情を話すと長いが、目の前にいる長尾景虎の越後一統を援けている。隣国長尾家の勢力拡張は、信濃併呑を目指す我が武田家にとって好ましい事態ではないが、これも永い戦略を見据えてのことだ。
「初陣?」
若き軍女神は、瞳を煌めかせた。
「まさかお話し下されるのか?」
「私の話に、興がおありか」
「ぜひ、差支えなくば」
いくさの学に余念のない彼女は、頑是ない女児のように頷いた。
「長尾殿も、若干十四で栃尾城を守られたとか」
「いっ、いや!わたしの話は!…それに話すほどのことも…」
虎千代姫は顔を赤らめて、謙遜する。鬼神のごときいくさ場の働きにひきかえて、彼女はいくら乞われても自惚れや自慢ひとつ口にしない。
「それより武田殿は、十四で城を獲られたそうではないですか」
「ご存知か。…なるほど。黒姫殿は、よく調べておられるな」
「い、いえ今のは…真人から」
「ほう」
成瀬真人は五百年の未来からやってきた、この虎千代姫の伴侶だ。我が武田家で召し抱えている瓜生真紗同様、この戦国と言う時代について、私たちが知らないことまで、知っているらしい。この私が武田晴信ではなく、法名の『信玄』の名で知られていることを教えてくれたのも、彼らだ。まあ精しくは、本編『戦国恋うる君の唄』を参照されたい。
「武田殿の采配は、さすが天下第一等にござる。見ていると黒姫などは武田殿とは大分、仕事がやりやすい様子…わたしなど、出たとこ勝負の行き当たりばったりにて」
「なんの、長尾殿こそ、私などには真似の出来ぬものを持ってござるぞ?」
「い、いや!そんな!わたしなぞ!」
ぶるぶるとかぶりを振りながら、虎千代姫は無心に一手を指した。思わず私は瞠目した。まさに目の覚めるような良手だ。たった一手で見事に、私の目算が覆される。一見、実力が一定しないが、やはりこの女性は天真爛漫と言っていい、生まれつきの神がかった感性を持っている。
「長尾殿は天衣無縫にて、羨ましく存ずる」
皮肉でも何でもなく、私は言った。
「私のような腹に常に一物持つような男は、足取りが重とうござる」
「ふんッ、長子が癖に太郎めは小児の頃より、性根が読めぬわえ」
深酒で白んだ目の父は、憎々しげに顔を歪めるといつも唐突に、吐き捨てたものだ。
「鳳凰山の糸取り貉が如く、正体の知れねえら」
そんな信虎が、幼い私に与えたのは、『腰抜けもの』の侮蔑だった。たぶんこの一見粗暴な男は、私が父の挙動をどこかで白眼視していたことを知っていたのだろう。
だが正直なところ、私は父をある面ではとても尊敬していた。父・信虎が歩んできたのは、混じり気もない下剋上の正道であったからだ。
そもそも我が武田家は、一度滅んでいる。応永二十三年(一四一六年)の上杉禅秀の乱に加担し、いわば外れくじを引いた形で転覆したのだ。その後、祖父、信縄の代になりようやく持ち直したが、再び伊勢盛時(北条早雲のこと)が追放した足利茶々丸に肩入れし、家を割ったのだ。
いわば戦火の収め役として我が父は登場し、武田宗家の鼎を守り抜いたのだ。武田中興の祖とは、間違いなく父・信虎を謂うと私は思う。
だが絶え間ない裏切りとせめぎあいの中で、信虎の精神は煎り続けられる豆のように追い詰められ、常の自分を見失ったのだった。私がまず物心ついて自分について思ったのは、
(父がごとく生きざるべし)
であり、そのようでありながらも、
(父が成さんとすることを成すべし)
であった。そのために自らを殺し、努めて父の父たる有様を、うかがってきた。まるで野の獣の息遣いを、悟らんとするがごとく。その最終目的は、父を殺すことであった。悪霊と狂気に翻弄されたこの男を、私は息子として父を愛するがゆえに、死によって解放してやろうと考えたのだ。
父には私が、悟りの化け物にでも見えたに違いない。
「あやつめ。腰抜け小僧の分際でこの父を、愚弄するか」
今にして思う。これが父の本音であったかも知れぬ。信虎が幼少の私を吼え、怒り、或いは痛罵したのは、息子晴信たる私に、武田当主たる自分の苦しみを分かち合いたく思っていたのかも。だが私の本性は、それを断固として拒否した。恐らく信虎にしてみれば、それが最も私が癇に障るところであったのだろう。
私にとって、父は飢えたる虎であった。だが同時に、檻に飼われし畜獣でもあった。檻、とはこの武田と言う家である。ここに囚われる限り、私は父を恐ろしいと思ったことはなかった。
(哀れな)
生きものを殺そうとする野の獣は、むしろ静かで穏やかなものだ。血を吐くほどに激昂し、威嚇するのは、自由を奪われその身を脅かされんとする畜獣である。