謀鬼の夜想
武田信玄~本編では第152話『黒姫奪還!真紗さんが連れてきたのは、諜報最強の助っ人!?』より登場。
大永元年(1521年)生まれ。戦国恋うる君の唄(最新話天文19年時点)では28歳。物語上の設定では、真田家の末裔である特殊工作員、瓜生真紗とともに、虎千代を助ける。先の読めない謀略と諜報、そして中国拳法の達人。真紗曰く「結構イケメン」。
処女の雪を見ると、そこに血の飛沫の汚わいを見出さねば心が安寧まらぬ。
燈明皿の焔揺らめく紙屏風に、匕首を孕む不埒な曲者の影が息づかう様子を、うかがわざるを得ぬ。
(世迷言を飽きもせず、よく吐いたものだ)
今も私の脳裏に、ふと油断すると常に思い浮かぶのは、深夜独りになることの恐ろしさを独り言つ初老の父の姿。いつ襲い来るとも知れぬ敵に内心身を細らせつつ、酒よりも強い焼酎を呷る父の昏い影だった。
「我を誰と思うら。我こそは甲斐源氏武田十八代宗家、武田左京大夫信虎ずら」
深夜酒を飲むとき、この倨傲の男は、忍んできた何者かと必ず話している。そう疑わぬ私だった。
我が父・信虎は一族を抜きん出て家督を分捕った、乱世の梟雄である。寝ると宿直に告げた時も寝所では沓を履き、甚だしい場合は胴丸をつける。しかるのち愛用の左文字を掻い抱いて息を潜めているのを、私は知っていた。
陽のあるうちこそ豪快に女色に耽る様を見せつけるが、この男はいざとなると寝所に正室すらも近づけぬ。巷では匹夫すら滅多に口にせぬ、苛烈な焼酎を瓶に詰め、肴も口にせずに、戦場さながらの鯨飲をするのだ。
家臣たちのほとんどは知らぬだろうが真の狂気こそは、真夜中に目覚める。この男は昼間の殺人をもっぱらにし家臣たちに慄かれるが、所詮はそこまでは人智の及ぶうちのこと、深夜こそは悪霊対手に甲斐なき言葉戦を挑むのだ。
始まるのは、昼間の悪口がひとしきり止んだ時だ。身内を罵り、家臣を罵り、いずれ殺されるわが身を呪った後は、嘆きの声はしん、と静まり返る。
草木も眠る丑三つ時、そこから決まって響くのは、地底の彼方から登る蛇の這いずりのような、うめくような、おめくような、とめどない呪詛なのだ。
(この男、いったい誰と話している?)
隠し戸の陰で、私が眉をひそめたのは十になったばかりの頃だった。信虎は真夜中、誰かと話している。その何かを呪い、おめいた挙句にすがり、救いを求め、最後はしきりと頷いているのだ。
(武田信虎は何者かに操られているのか…?)
私の知る限り、父と言われるこの男は、誰の言うことも聞く人間ではない。それがある日、私はこの現場を垣間見る機会を得た。誰にものぞかれることのない納戸の間に籠もり、死の昏い翳に目をぎょろつかせた信虎は、おのれの陰に向かって話しかけた。
(我が家の棟梁は、とっくに狂っている)
即ち甲斐一国は、狂人が取り仕切っている。信虎が往くは修羅道、さながら地獄の理が支配する鬼畜の檻だ。私は愕然とし、その後、決意した。
(我が父に安寧の死を与えん)
それからだ。物心ついたときの夢想が、具体的な陰謀となったのは。
我が父、武田信虎を殺したい。
それがこの武田太郎晴信が、半生を賭して夢想したすべてだった。
「武田殿。我が一手、これにて」
突如、若い娘の声が、私の意識を捉える。長尾虎千代が、私をみて、初々しい唇を綻ばせていた。
「これはしたり」
私は思わず作り笑いを漏らすと、間に合わせの一手を指す。
「お待たせ致した。どうも長考が過ぎるたちにござる」
「ああいや、ご無礼をば。そのようなことは、決して」
つやと濡れた潤いの黒髪に、白魚のような両の手指を振り立てて、この姫は謙遜する。これがまさか長尾景虎の雷名で鳴る常勝将軍にはとても見えまい。
驚くべきことにこの麗しい美姫は、若干十九歳にして越後の太守、守護代長尾家の当主なのである。無論お飾りの傀儡当主などではない。
武略将器ともに抜きん出て、この地位へと推戴された。私も何度か、彼女が剣を取って戦場に立つ姿を見たが、有史にても、これほど美しく清廉な女武者は居るまいと言う美々しさだ。
「それにしても珍しゅうござる。この夜中に、碁のお誘いとは、夢にも思わず」
「ご迷惑かな」
「まさか。いちから丁寧にお教え下さるゆえ、楽しゅうござる。武田殿は何にても、行き届いたお方ゆえ」
だが本人は驚くほどに素直な女性だ。碁は初めてらしかったが、指し方を教えると言うと、気後れする風もなく乗ってきた。
「碁は本性が出る。長尾殿は裏表のなき、素直な手つきだ」
もっと言えば彼女は、造りたての鐘のようだ。一手打つごとに返しが早く、またその一手一手が若く、過敏で鮮やかな反応の速さを感じさせる。いわゆる、打てば響くと言うやつだ。
「無論、詰めの甘さは仕方ないにしてもね」
勢いを止める一手を、私は指した。途端に彼女の顔は、はっきり曇った。
「あっ!むむむむっ…今度は上手くいったと思っていたのに」
「納得ゆくところまで碁石を戻しても、良うござるぞ」
私は適度なところで、助け舟を出してやる。
「どうせ、夜長の酒の肴に過ぎぬゆえ。座興にござる」
そろそろ、燗の良い頃合いだ。少し熱めに立てた酒を、私は杯に注いで味わった。
真冬の夜長の碁は、私の無情の愉しみの一つだ。