あなたの腕の中で
私は彼の腕の中で眠るのが好きだ。途切れ途切れに聞こえる静かな息遣い、少しゴツゴツとした、確かに安心感を与える体つき、彼が布団で寝ているとついついもぐりこんでしまう。もちろん彼は私を咎めるが、いつも最後には「仕方ないなあ」と。そんな優しさが私は、好きだ。
それは、とある初夏の一日だった。地球温暖化が進みゆく中で初夏と言えども近年は真夏を思わせるものだが、その日は過ぎ去った春を思わせる風心地よい一日であった。河川敷に生えた1本の木、何の木かは分からない。その木陰。私はいつも決まってその場所に行っていた。昼の一刻をそこで独り眠って過ごすのが、私の趣味とも呼べるものであったのだ。
その日はいつもと違っていた。その場所に彼がいた。彼は座りながら木にもたれかかり文庫本を読んでいた。何という題名かは分からなかった。対抗心と好奇心とで私は彼と向かい合った。「おや」敵意を持っているわけでは無かったけれど表情に出ていたらしい、「君もここが好きなのかい?」私は答えなかった。「いつもは午前中に来るのだけど、」彼は気にせず続けた。「そうか。午後からは君の場所だったか」これは困ったというような彼の様子は何故か対抗心など忘れ、惹かれるものがあって「……ん?」私は彼の横に腰を下ろした。彼は驚いた様子だったが、うとうとし始めた私を見ると「…おやすみ」と優しく微笑んだ。
目を覚ますと彼は居なかった。私は沈黙と一抹の寂しさとを噛みしめて重い腰を上げた。
あくる日も彼はそこに居た。私は昨日と同じように彼の隣に腰を下ろした。「やあ。昨日はとても気持ちよさそうに寝ていたね。」今日も本を読んでいるようだった。昨日より少しだけ右手に持つページが厚くなっているようだった。私が本を見つめているのに気づいた彼は「この本がきになるのかい?特に面白いものでもないのだけど……」と少し困った様子であった。「……困ったね」実際に困っていた。まあ別に彼を邪魔するためにここに来たわけでは無い。私はいつも通りに眠った。いや、いつもとは少し違った。何故だか安心感があったことを記憶している。
目を覚ますと彼は居なかった。日も暮れかかり、川に朱が差し込み始めている頃だった。
それから1週間が経った。彼は毎日そこに居た。彼は本を読み、私はその横で眠る。それだけの関係だったが、それで充分だった。
その日も私はいつものようにその木へ向かった。そういえば彼が何の木かを言っていた気がするが……忘れた。私は勉強は苦手だ。いつものように彼は居た。私に気づいたのか、こちらを向いて微笑んだ。左手のページは、もうほとんど残っていなかった。
その日は珍しいことに、目を覚ましても彼が居た。本を腿の上に置き、上を向いて何かを噛みしめるように目を瞑っていた。彼は思い出したように立ち上がり私の方を向いた。目を覚ましているのに一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの柔和な表情に戻り「やあ、おはよう」と言った。「僕はそろそろ帰るとするよ。本も読み終わったしね」じゃあ、と言って手を振り立ち去ろうとする彼の背中を、百パーセントの好奇心で追ってしまっている私がいた。ああ、これは目で追うだとか言う慣用表現でなく、実際について行ったのだ。
十分ほど歩いただろうか、彼の住むマンションがそこにあった。エレベーターに乗り込む彼の姿が見えたので私は慌てて駆け出した。エレベーターに飛び乗った私を見て彼はまたも驚きすぐに今度は「……そうか。着いてきたんだね。」困ったように笑った。チーンと高い音が鳴り、階数を伝えるアナウンス。エレベーターを降りた私達はそこから真逆の角部屋に向かった。
彼の部屋はまさに大学生を思わせた。どうやら一人暮らしのようなのだが、驚くほどに片付いていた。「せっかく来てくれたんだ。飲み物くらい出すよ」カチャカチャと台所で準備をした後、彼は私に1杯の水を出した。「すまないね。ちょうど切らしていた」何を切らしていたのかは分からないが、私はこれで充分だ。
ひとしきり水を飲み終わったあとだった。「うーん、こんな夜道に君ひとり帰れというのも薄情だよね」またも彼は困った様子だった。まったく私は彼に迷惑ばかりかけているようだ。そして苦し紛れに彼は言った。「どうする?ここに住むかい?」
そうして月日が経った。私は彼の家に住むことにした。私はいつものように布団で眠る彼の腕の辺りに潜り込む。「……まったく」私を咎めようとする彼に、私は「……にゃあ」と一つ欠伸混じりの返事を返した。彼は呆れたように「仕方ないなあ」と、目を瞑った。
初投稿です。思いつきで書いてみた作品。ありきたりとか言われると泣きます。




