捌・吉祥果はどこにある?
あまりに厳しく、残酷な言葉で断言した。
全員が目を見開いて、沈黙が落ちる。
カズラの伯父に当たる人は「何を言いやがる!」と言いたげな顔に一瞬歪んだけど、まっすぐに向けられた羽柴の眼で黙殺された。
最年少の女の子に誰も、言い返せなかった。
それは子供の戯言と言うにはあまりにも羽柴はまっすぐに語り、そしてその声は今までとは違い、深い悲しみが込められたものだったから。
「……羽柴、どういうことなんだ? ……どうしようもないのか?
あの人は……救われないのか? 救えないのか?」
お前でも救えないのかとは、言えない。
それは、羽柴一人に背負わなくていい重荷を押し付ける言葉だから。
そもそも、この質問自体が無責任で羽柴に何もかもを押し付けているってわかってる。
でも、ごめん、羽柴。
これだけは教えてくれ。
可能性が、救いがないのならならせめて、君の口から聞かせてほしい。
「救えない」
羽柴は、俺に目を合わせずに答えた。
「あの人は、救えません。
あの人にとっての救いである『息子』は、あの人が行った『儀式』によって取り返しのつかないものに成り果てた。だから、残酷だけどもうこれはどんな結末でも自業自得としか言えない。
『儀式』を行った時点で彼女は最愛の息子との再会を、死後すらも諦めなければならないものにしてしまったのだから」
まっすぐに、位置的に住職さんを見て羽柴は話すけど、たぶん羽柴は何も見ていない。
何も見ず、見たくないと思いながらも、羽柴は語る。
自分だって助けたいであろう人、自業自得なんて言いたくない人を、救えない理由。
諦める理由を、彼女は静かに語り続けた。
* * *
「ソーキさん。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』って話、知ってる?」
「は?」
いきなり俺の方を向いて、脈絡のないことを尋ねる羽柴。彼女のわけわからなさは、こういう時でも健在のようだ。
「まぁ、一応あらすじくらいは。まだやってないけど、教科書に載ってたし」
いきなり変わった話に他の人たちがポカンとしてる中、まだ羽柴の突拍子のなさに慣れてる俺が答える。
……頼むから羽柴、これマジで特に意味もなければ全く関係のない雑談だとか言わないでくれよ。
「そう。なら、説明はいらないね」
俺の答えに彼女は一人納得して、住職さんたちの方に向き直って、一人勝手に話を始める。
「具体的な内容や方法はさすがに分りませんが、あなた方の話とあの2階の蟲を見て、『あれ』はどういったものかはわかりました。
『あれ』は、母親の『帰ってきてほしい』という願いと、海で亡くなった子供の『帰りたい』という望みを、子供が持っていたへその緒を媒体に繋ぎ、子供の魂をこの世に引き戻す反魂の術。
……ただ、元々からして素人が作り出した術だからか、強力である分、大きな弊害を持っています。
母と子を繋ぎ、この世に引き戻す『へその緒』が『蜘蛛の糸』と同じ役割を果たし、芥川龍之介の物語と同じ状態を引き起こしていると言えばわかるでしょう」
羽柴の唐突な問いは、無意味でも無関係でもなかった。
彼女の言う通り、あらすじしか知らない俺でも、一瞬で理解できた。
芥川龍之介作、「蜘蛛の糸」
死後、地獄に落とされた極悪人は、生前に気まぐれで蜘蛛を助けたことがあった。
たった一回でも善行は善行なので、お釈迦様が極悪人が天国に行けるチャンスとして、その助けた蜘蛛の糸を天からたらし、この糸を登って行けという。
もちろん極悪人はすぐさまその糸を掴んでよじ登ると、同じく地獄に落ちていた他の悪人どももその糸に群がって登ってくる。
何十、何百人も群がってくる悪人たちの重さで糸が切れるのではないかと思った極悪人は、「これは俺の糸だ!」と叫んで群がる悪人を蹴落としたら、何百人ぶら下がってもびくともしなかった糸がぷっつり切れて、結局極悪人は天国に行くことが出来ず、地獄に逆戻り。
俺が知ってるのは、この程度。
この程度でも、羽柴が何を言いたいのかが分かった。
他の人たちも、わかったのだろう。全員の顔色が悪い。
「……昔話の子供が言葉は話せず奇声しか上げないのも、母親の後を追う以外の行動を取らないのも、そのせい。
おそらく、その『儀式』は確かに我が子の魂をあの世から呼び戻すのでしょう。でも、同時に我が子と同じ『海の死者』が『自分も生き返りたい』という一心で子供の魂にしがみつき、この世に呼び戻された時には我が子の魂と入り混じってしまう、そういう出来損ないの術なんだと思います」
蜘蛛の糸と同じ役割で、違うのはおそらくしがみついてきたものを蹴落とせないこと。
「ただでさえ反魂の術は、甦らせたい相手ではなく他人の身体でも、他人を蹴落としても生き返りたいと願う霊を呼び寄せてしまい、失敗したという例ばかりです。
『儀式』を行うと確かに我が子はこの世に引き戻せますが、我が子の魂をベースに何人、何十人もの『海の死者』が自分たちも甦ろうとまとわりつき、混ざり合い、結果として複数の自我が混濁して、人としての理性はもちろん、知性も失い、呼び戻したかった我が子ではなく、もはや誰でもなければ何でもない、『よくないもの』の塊でしかないものに成り果てる。
そして、最終的にはその『よくないもの』に食い殺される。
昔話で母親が食い殺されたら、子供の水死体も姿を現さなくなるでしょう?
あれは多分、母親を殺してしまったことでこの世に繋ぎとめていた母の願いがなくなってしまうと同時に、母を喪うことで子の『帰りたい』という願いも無意味になるから。
この二つの願いが、へその緒をベースにしたかりそめの身体に、『よくないもの』と化した魂を定着させる糊の役割も果たしていたのでしょう。
だから、最終的には母を殺すと同時に水死体はへその緒に戻り、消える。
これが、あの『儀式』の結末です」
「待ってくれ! 食い殺されるのは何でだ!? それは、絶対に避けられないことなのか!? 普段はおとなしいんだから、ずっとそのままにしておくことはできないのか!?」
羽柴の語る結末に、カズラの伯父が縋るように尋ねる。
羽柴の語った「儀式」が生み出す者の正体を、疑う様子はない。
あまりにも淡々と冷静に説明を続けた羽柴に、疑う余地を感じられないのだろう。
「無理だと思います。
昔話とあの人の語ったことからして、『儀式』で生み出されたものは、まず芋虫のように手足もない形から生まれて、そこから手足が生えて蜘蛛っぽくなり、それが四足歩行の動物っぽくなり、二足歩行になり、人間の姿になるのでしょう?」
あぁ、そういえばあのおばさんはあの虫がカズラになるって、主張してたんだっけ。
確かに、そういう進化を遂げるのなら、あのわけのわからん主張は納得だ。
「本来なら、人間の姿になった段階で我が子の人格や記憶を取り戻すことを想定していたのでしょうが、複数の魂が入り混じって、取り戻すはずの人格も記憶も失われた。
その状態の動く水死体にあるのはおそらく、あの世からこの世に引き戻した『へその緒』に託された願い。
『帰ってきてほしい』という母の想いと、『帰りたい』という子の願い。
……母親を食い殺すという結末は、両者の狂おしいまでの願いが人としての理性も知性も失われたことによって暴走した結果。
子は母親を殺したかったわけでも、食べたかったわけでもないんです。ただ、帰りたかった、帰ってきてほしかったんです。
子は、最も安全な場所に。母は、ずっと守ってあげられる場所に。
――母の胎内に、帰りたかっただけなんですよ」
* * *
その場にいる全員が絶句してる中、羽柴の言葉が締めくくりに入る。
「同時に、この『儀式』はこの結末を初めから覚悟していないと成功しないものなんだと思います。
子供に殺されてもいい、子供が生き返るのなら自分の命を捨てる覚悟で子供の魂をこの世に引き戻す術だからこそ、途中で『よくないもの』と化した水死体を祓うという事は、母親の生きる気力、目的、全てである『帰ってきてほしい』という願いも奪うという事。
……だから、その『儀式』を行った時点で、もう何もかも手遅れです」
最後に目を伏せて、静かに羽柴は言う。
愛しているから、だからこそどんなにおぞましくても縋った方法こそが、何の救いもないことだと、言い切った。
「待って、羽柴! 母親を食い殺す前に、その混ぜ合わさった奴らを分けることはできないのか!?」
本当は羽柴だってこんな説明したくなかっただろうに、それをさせたのは俺なのに、それでも俺は無様に足掻く。
可能性を、捨てられずに叫ぶ。
羽柴の顔が、俺の方に向く。
その顔は、いつも通りの無表情ではなかった。
「……ソーキさん。複数の霊が混ざって融合するってことはね、絵の具を混ぜ合わせることと同じなの」
もう二度と見たくなかった、そのくせ何度も俺が馬鹿なせいで羽柴にさせてきた顔。
俺の悪あがきを、彼女は悲しげで、苦しげな顔で否定する。
「絵の具を混ぜて新しい色を作れても、その混ぜた色から元の色だけ取り出すなんてこと、できないでしょう?」
聞き分けのないわがままな小さい子供言い聞かすように、言う。
それは俺に言ってるのか、それとも彼女自身に言っているのかは、わからない。
「同じような思考や性格の人たちが融合したのならまだ人に近いかもしれないけど、それでも複数人が混ざり合っているんだから、それは誰にでも似てて誰にも似てない、個人の人格なんてない、『ある一定方向の思想を持つもの』でしかないの。
そしてここの『儀式』の場合はたぶん、『海で死んだ者』以外の共通点なく、無差別に取り込んで混ぜ合わせてる。だから、もうそれは元が人だったものではあっても、もう人にはなれないもの。
たとえ混ざり合った人たちが全員善人でも、まったく違う人格、思考、性質なら、それはめちゃくちゃに色を混ぜた絵の具と同じ。元がどんな綺麗な色でも、黒に近い汚い色にしか……『よくないもの』でしかない」
残酷な説明は続く。
俺が何かを尋ねる前に、羽柴が先回りしてその希望を否定していく。
もうすでに限界まで寄り道をした結果が今だから、羽柴はただひたすらに「結末」に向かって一直線に進んでいく。
そんな羽柴の邪魔をする。
諦めきれないんだ。
諦められないんだ。
「でも、羽柴! あの2階にいた奴らは、昔話のとはだいぶ違ったじゃん!
まだ虫の段階で、それに意味のない奇声じゃなくて一応ちゃんと話せてた! あれは、あのおばさんのやり方が間違っていたから、魂が混ぜこぜになってないんじゃないかもしれない!
あの中に、誰とも混ざっていない『カズラ』がいるかもしれないじゃん!!」
「あの蟲を見たからこそ、私は複数の霊の融合体という結論を出したのよ、ソーキさん」
俺の素人考えは、名刀を使われたかのごとく一刀両断された。
「複数いるのは、本来の『儀式』の条件であるへその緒をカズラが持ってなかったから、たぶん下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる戦法で死者を呼び戻してるんだと思う。
とりあえず確実なのは、あの蟲たちは特に生への執着が強い奴らの集合体であること。さっき言った、『ある一定方向の思想を持つもの』よ。
だから、『生きたい』とか『死にたくない』くらいは言えるけど、逆に言えば自分たちが生き返りたいという願望から外れる言葉は何一つ発しない。会話なんか成立しない。
自分というものを忘れても生き返ることだけに執着している、『よくないもの』の中で最悪の部類。意思はあるのに、知性も自我もない天災のようなもの」
羽柴の言葉が正しいのはわかってる。疑ったことなんてない。
でも、諦められない。
諦めたらいけない。
だって、俺は聞いたから。
遠く、近く
浅く、深い
あの声を聴いたから。
「それだ! 羽柴!!」
* * *
思わず手を打って、片膝ついた姿勢になって、羽柴に指をさす俺。
そんな俺を、羽柴はポカンとした顔で見上げた。
珍しい部類の表情を出させたことがちょっと嬉しいけど、よく見たら住職さんや他のお坊さん、カズラの伯父さんもポカンとした顔……というか、「いきなり何やってんだこいつ?」と言わんばかりに引いてることに気付いた。
……うん。何してんでしょうね、俺。
「何が、『それ』なの? ソーキさん」
羽柴、他意はないんだろうけど、いつもの無表情に戻して淡々と話も戻さないで。ツッコミがないと、何か余計に辛い。
まぁ、そんな弱音吐ける空気じゃないから、俺はその場に座りなおして語る。
思い出したこと。
気付いたこと。
あの『声』のことを、話す。
「羽柴、もしかしてあの2階にまず先に入ってのは部長で、俺は部長の巻き添えだと思ってる?」
まずは、確認。
そういやする暇がなかったとはいえ、明らかヤバいあの2階には行ったことに対する説教がなかったことに気付いて、羽柴は勘違いしてるんじゃないかと思ったから。
「! 違ったの?」
案の定、羽柴は軽く目を見開いて尋ね返す。
うん、そうだ。羽柴は俺が、明らか怪しいところに、自分から好奇心で踏み込むことはしないって信頼してくれてる。……実際はその信頼を1回裏切ってるんだけど、それは心底反省してるからどうか気付かれませんように。いや、マジでもう二度としないからどうか羽柴に失望されませんように。
話がそれたけど、とにかく俺と部長なら部長が何かやらかして俺は巻き添えが、たぶん羽柴じゃなくても自然な考えなんだ。
けど、今回は違う。
「うん。何か今まですっかり忘れてたけど、思い出した。
俺、あの2階を見て何かすげーヤバいのがいるから逃げようとしたところで、声が聞こえたんだ。その声が聞こえてからあの2階に入るまでの記憶がないんだけど、部長が言うにはいきなり無表情になって、部長が止めても勝手にあそこに入って行ったらしい」
俺の言葉で、羽柴の眉がきゅうっと逆ハの字を描いた。もっと早くに言え、思い出せ、また取り憑かれてたのとか言いたいんだろうな。
うん、ごめん羽柴。でも、お説教は後にしてくれ。
今は、このことを伝えさせて。
「で、その時に聞こえた声が、『お母さんに、会いたい』だったんだ」
もう一回、羽柴がポカンとした顔になる。
さっきの俺の奇行をみて驚いてた顔と同じ。
けれど、さっき以上に嬉しい。
羽柴はその顔で、「……嘘」と呟いた。
俺の悪あがきを、俺の考えなしで勝手に懐いた希望を、自分だってそうであればいいのにと思いながら打ち砕いてた羽柴も、信じられない事実。
羽柴の仮定の一つを、否定する言葉。
羽柴は言った。
「『生きたい』とか『死にたくない』くらいは言えるけど、逆に言えば自分たちが生き返りたいという願望から外れる言葉は何一つ発しない」
そうだ。
あの虫たちは、生きたいとか助けてとか代わってとか、とにかく自分が生き返りたいからお前が犠牲になれ的なことばっかり言って、会話は成立してなかった。そもそも、会話なんてしようと思わなかったけど。
でも、俺が初めに聞いた声は違う。
生き返りたいとも、助けてとも、死にたくないとも言わなかった。
あの声が願ったことは、たったの一つ。
母親に会いたい、だ。
「あれ、カズラの声だよ! カズラは誰にも混ざらず、カズラのままあそこにいるんだ!」
それはどうしてか、どういう理屈でそうなったのかなんて俺にはわからない。
でも、思い出したからにはそうとしか思えない。
だから、諦められない。
諦めたら、ダメだ。
この物語の結末は、まだ決まっていないのだから。
「本当か!? 本当にカズラの声を聞いたのか!?」
羽柴に対して熱弁してたら、カズラの伯父さんに肩を掴まれ、そのまま前後に揺さぶられながら訊かれた。
ちょっ、やめて! 酔う! 酔うからやめて!
他のお坊さんたちが「そんなことされたら答えたくても答えられませんよ!」言って止めようとしてくれるけど、伯父さんにも希望を与えちゃったことで興奮して止まらない。
「あ、え、ちょっ、か、確信はないけど、たぶん、そうっす。カズラの声、なんて、知らないけど、声変わりしてなさそうな、男の子っぽい、声でしたから」
「ソーキさん」
揺さぶられながら何とか俺が答えると、カズラの伯父ではなく羽柴が尋ねた。
「その声、どんな声だった?」
またしても唐突な質問に、興奮していた伯父さんも俺を揺さぶるのをやめて、またみんなして羽柴を見る。
「どんなって、さっき言ったみたいにまだ声変わりしてなさそうな……」
「違う。駅で絡まれた霊やあの蟲みたいに、水の中でしゃべってるみたいな声だったの?」
羽柴の補足を加えられて、さっきの質問の意味を理解する。
あぁ、そういえばあの声はあの虫や最初に絡まれた霊みたいに、全部に濁音がついたような不明瞭な発音じゃなかったな。
そのことを伝えると、今度はまだ俺の肩を掴んでる伯父の方に羽柴は質問をぶつけた。
「カズラの釣り道具が落ちてた浜辺って、どのあたりですか?」
今度の質問は正真正銘、訳の分からないものだった。
全員が「は?」と言いたげな顔をして、もちろん聞かれた本人もまず初めに「は?」と言ってから、ほとんどとっさの条件反射みたいに答えを返した。
「確か……君らも海水浴に来てたあたりの浜辺だったって聞いたけど」
「そうですか、ありがとうございます。
住職! パソコン貸してください!」
質問の答えに羽柴は丁寧に頭を下げたかと思ったら、勢いよく立ち上がって言い出した。
「羽柴、何がしたいの、お前?」
俺も奇行をやらかした自覚はあるが、やっぱりお前ほどじゃないわ。悪いけど、何がしたいのかが、さっぱりわからん。
俺が頭上に?マークを大量に飛ばしながら訊いてみたけど、羽柴は俺の質問には答えなかった。
代わりに、彼女は言った。
「ソーキさん。お手柄」
いつもと1ミリも変わらない無表情だけど、確かに声を弾ませて。
「吉祥果はまだある。あの2階に、鬼子母神の聖域に」