伍・愛ゆえの盲目か、盲目ゆえの愛か
水着の上に着てきたシャツワンピースを上着のように羽織っただけの姿だけど、持っているものとポニテという髪形のせいで、俺には侍に見えた。
それは、表情自体はいつもの無表情だけど、たぶんそれなりに付き合いが長くて多い俺だからこそ分かる、羽柴の殺気じみた「怒り」を感じたからもあるだろう。
……この怒りの矛先が、俺でないことを切に願う。
「ソーキさん」と、涼やかな呼びかけた直後、羽柴は木刀を俺に向かって一閃。
俺、「ひっ!」と正直この部屋に入って一番せっぱつまった悲鳴を上げて、頭を限界まで下げるのに精いっぱい。
「蟲が」
一度舌を打って、どう考えても俺に襲い掛かってるものの形状を呟いたんじゃなくて「雑魚が」的なニュアンスで吐き捨ててすぐに上がったのは、また鳥肌が立つほどの金切声と磯臭い腐臭。
同時に体が軽くなったところで、目の前には白くて細い指先。
今さっき木刀をぶん投げたり振り回したなんて信じられないくらい繊細な手を差し出して、羽柴が言う。
「ソーキさん、逃げるよ!」
俺は、その手を掴んで立ち上がった。
「部長も、行きますよ」
言って羽柴はずいっと木刀を、木刀が飛んできてからポカンとしてへたり込んでた部長に突き付ける。
部長は一瞬、「うえっ!?」と言いたげな顔で躊躇したけど、その木刀を掴んで立ち上がる。
ただ単に武器を手放すわけにはいかない、けど一人で自分たちを追いかけろというには酷な状況だから、手の代わりに木刀を羽柴は差し出しただけだろうけど、そりゃ部長も躊躇うよな。
今さっき、虫を一撃で殲滅させた武器ってだけでも何か嫌なのに、その虫の残骸らしき汁が滴ってるもん。
つーか、俺の身体も磯臭い腐臭にまみれて最悪だ。
今更そんな不快感に気付いて顔を歪めながらも、俺たちは出口に向かって走った。窓から出ればよかったのかもしれないけど、案外、羽柴も慌てていたのか、それともガラスが危ないと冷静極まりない判断をしたのか、窓がぶち割れてだいぶ明るくなった雑多な迷路を駆け抜けて、羽柴は両手がふさがっているから、ドアを蹴り開けた。(蹴り破ったと言った方が、正しいのかもしれない)
* * *
外ではオカ研のメンバーが勢ぞろいしてた。
「何やってんだ、バカ姉貴!」と、まずは一番遠くからこちらを窺う紅葉先輩の叱責が飛んできて、それから先生や先輩たちが口々に、「無事か!?」「みんないる!? 大丈夫!?」と声をかける。
俺や部長が何かを言う前に、羽柴は「大丈夫。それより、今すぐ帰ります」と、宣言した。
「帰りましょう」という誘いや頼みではなく、「帰ります」と言い切ったことに不満を漏らす者はいなかった。むしろ、ほぼ全員が顔色を悪くさせて頷いた。
それは、羽柴が好奇心で危ないことに首を突っ込む自業自得は、本気で見捨てるという性格を理解しているからか、それとも霊感がないなりにこの部屋のヤバさに気付いたからか。
幸い、この部屋にいる虫は本気で光に弱いらしく、扉と窓が開かれても外に出ようとする気配はない。
だから、逃げるなら今のうち。日が昇っている間だ。
「そこで何をしている!?」
俺たちが階段から降りたところで、ドタバタと騒がしい音がしてねじり鉢巻きにランニングにステテコという、見事な露店や海の家のおっちゃんという風体の人が駈け込んで、怒鳴りつけた。
たぶんっていうか絶対に、この海の家の主人だろう。
羽柴を除く俺たち、唯一の成人越えしてる雪村先生もビクリと体を飛び上がらせて、言い訳を探すようにあたりを見渡した。
俺らが何かを言う前に、当たり前だけどおっさんの方が2階の割れた窓や蹴破られたドアに気付き、顔色を怒りか暑さからの赤から、真っ青に一瞬で変化した。
「……お前ら、……あそこに入ったのか?」
おっさんが呟いた言葉は、恐怖に染まっていた。
あぁ、やっぱり。
この海の家の主人なら、あの2階と無関係なわけがないよな。
「だ、誰だ!? 中に入ったのは誰だ!?」
おっさんは真っ青な顔色のまま、叫ぶ。
声量こそは怒鳴っているに相応しいけど、その声に怒りの色は薄い。一番濃いのが恐怖なのはもちろんだけど、こちらを心配している様にも見えた。
あの部屋があの虫を封印している部屋なら、おっさんはその封印を解いた俺らに対して、怒り狂いこそして心配はしないだろう。
逆に何らかの目的であの虫を集めてた、閉じ込めてたでも似たような反応のはず。
心配する義理なんて、ないはずだ。
先生や先輩たちもその不自然さに気付いたのか怪訝な顔をするし、羽柴もかなり険しい目つきでおっさんをにらんでいたのが、少し呆気に取られた素の顔になっていた。
「……あの、すみません。……入ったのは、俺です」
おっさんの反応が予想外すぎて、俺も素直に何故か名乗り上げた。
その瞬間、おっさんの顔がすごい勢いで俺に向き直られて一瞬ビビったけど、俺の顔を注視したまま、おっさんは口を軽く開けて固まった。
顔色は最悪のまま、まさにポカンとした顔になられて、こちらも反応が出来ずに固まる。
十数秒の沈黙を経て、おっさんは呟いた。
「……………………カズラ?」
誰かの名前を、泣きそうな顔と声でつぶやいた。
* * *
「は? 誰?」
反射で俺が聞き返した瞬間、おっさんはいきなりツカツカと俺に近づいてきた。
羽柴が警戒して俺の前に出るけど、俺は情けないことにただ羽柴の後ろでオロオロとキョドる。
おっさんは俺の困惑はもちろん前に出た羽柴さえも無視して、自分の首にかけていたタオルを俺の頭に被せた。
「わっ!? え、何!?」
「今すぐに帰れ! そして、ここに二度と近づくな!!」
おっさんに被せられたタオルをとっさに取ろうとしたら、おっさんはそれを押さえつけて叫んだ。
不愉快だから、怒ってるから「出ていけ!」と言ってるんじゃなくて、それは「逃げろ!」というニュアンスだった。
「すぐに着替えて、帰れ! ……いや、入った奴は寺に行け! あそこの山にあるのが見えるだろ? あの寺に行ってここの2階に入ったと言え!!」
やはり心配と懇願のニュアンスでおっさんは叫び、俺の頭というか顔にタオルを押さえつけ続けた。
さすがにこのセリフと行動で、察しがついたよ。
俺はおっさんが呟いた、「カズラ」って奴に似てるんだ。
それが誰で何者なのかはさっぱりだけど、とにかくあの部屋にそいつは何らかの関係がある。
おっさんが、泣き出しそうな声で俺を逃がそうとする理由にも。
正直、「カズラ」が何者であるのか、似ている俺がここに留まったらどうなるのかは気になったけど、そんな好奇心でまたあんな目に遭う気はゼロだ。
おっさんと俺に挟まれた羽柴も、俺をおっさんから離してはっきりと言った。
「……わかりました。お心遣い、感謝します。ソーキさん、行こう」
羽柴が俺の腕を引き、駆け出した。
先輩たちも状況が理解できてなさそうだけど、みんなついてきた。
おっさんは何も言わずに、俺を見てた。
「カズラ」と呟いた時からずっと変わらない、泣き出しそうな悲痛な顔のまま。
「あなた、どうしたの?」
そう呼びかけられた瞬間、地獄の入り口が現れたかのように顔を歪ませた。
「ゆ……百合子……」
おっさんが、恐怖とも悲しみとも困惑とも焦りともとれる顔で、呟いた。
羽柴と俺が同時に足を止める。
表の海の家からやってきたおばさんが進行方向を塞ぎ、困ったような顔でおっさんに尋ねた。
歳は40ぐらいの、海の家のおばさんと言うよりリゾート地のご婦人の方が似合いそうな、線の細くて上品で優しそうで綺麗な人だった。
こんな人が母親だったら自慢できるよなーと思えるような人だった。
けれど、俺はその人を見た瞬間、息が止まりそうになった。
体の熱が一気に下がり、手足が小刻みに震える。
……音が、した。
あのおばさんの周囲には、何もいない。何も見えない。
あの虫は、光に弱い。だから、2階の窓やドアを壊しても、出てこない。
……なのに、音がしたんだ。
カリカリと、引っ掻く音。
カサカサと、蠢く音。
あの部屋の、あの虫の音が、目の前のおばさんから、おばさんの中から聞こえたようにしか、俺は思えなかった。
* * *
俺は何も言えず、ただ震えたまま視線だけを部長に向けると、部長は青ざめた顔で一度小さくうなずいた。
このおばさんが、部長が見た2階に山盛りの飯を持っていた人だと、肯定した。
おばさんは、周りの学生も自分の夫も何も言わないで固まっていることに、さらに眉を下がらせて、困った様子を見せる。
そしてそのまま視線が海の家の2階に向かって、表情が困惑から軽い驚きに変化する。
「あら」
「!? 百合子、これは……」
おばさんが何に気付いたかを理解したおっさんは、おばさんに駆け寄って何か言い訳をしようとする。
けど、おっさんが何かを言う前におばさんは穏やかに微笑んで言った。
「あらあら。開いちゃったのね。
でも、もういいわよね、あなた。だってカズくんが帰ってきたのだから!」
キラキラと目を輝かせて、嬉しくてたまらないと言わんばかりにその人は言った。
確かにその目は喜びで煌めき、期待で輝いているのに、それ以上に狂気で澱んでいた。
「ほら、あなた、言ったとおりでしょ?
今朝、カズくんが帰ってきたって言ったでしょ? 嘘じゃなかったでしょ?
あぁ、早くあなたにも会わせてあげたいわ。とっても大きくなっていたのよ。そうよね、もう中学生だもんね」
おばさんは夫に向かって実にうれしそうに語り続け、おっさんは妻の言葉を青ざめて引きつった顔のまま、曖昧な相槌でお茶を濁しながら俺たちに視線を向けた。
今のうちに逃げろ、という意味だと俺たちは受け取る。
もう俺たちなんか眼中にないおばさんに、俺たちは気付かれないよう、特に俺はタオルですっぽり顔を隠して、息をひそめて、ゆっくりとおばさんの横を羽柴と通る。
間違いなく、あの2階の部屋を作りあげたのは、あの虫を集めたのは、このおばさんだ。
だからこそ、俺は気付かれたらいけない。
絶対におばさんは理解しないだろうし、仮にしてもそれは救いにならない。
だから、気付かれてはいけない。
俺が、このおばさんにとっての「カズラ」だと、気付かれてはいけない。
ゆっくり、ゆっくりと一方的に語り続けるおばさんの横を、俺たちは通り過ぎる。
おばさんに背を向けて、背中合わせになって、二歩、三歩目を踏み出して、それでもおっさんに「カズくんが、カズくんが」と語り続けていることに俺が安堵の息を吐いた瞬間。
「どこいくの、カズくん?」
ゴポリと、泡のはじける音と穏やかで優しい問いかけが聞こえた。
* * *
俺よりも早く反応したのは、言うまでもなく羽柴だった。
まだ持ったままの木刀を、一片の躊躇なく振り上げて突き付けた。
狂気に染まって、沈んで、恐ろしい「何か」をあの2階とその身の内に飼う人の喉笛に、木刀を突き付けて対峙する。
「………………何の、つもり?」
おばさんは初めて、自分の旦那と「カズラ」以外の人間を認識した。
その声は数秒前の異様なハイテンションとは打って変わって、冷静で冷徹なもの。
だけど決して、理性的ではない。
喜びや期待という方向性はともかくとして正の感情からの輝きが瞳から消え失せて、おばさんの狂気が前面に押し出されていた。
「……盲目ならせめて、聞き逃さないように耳を澄ましておけ」
おばさんの問いに羽柴は、木刀を喉笛から引かないで睨み付け、答えになっていない言葉で返す。
もはやすでに人ではない可能性が高いことくらい、羽柴は気付いてるはずだ。
いや、もしくは確信しているのかもしれない。
それでも、羽柴は引かない。
木刀も、おばさんを見据える目も、俺を守ろうとする意志も。
その背中は、怪物と戦う覚悟をとっくの昔に決めていた。
「………………ちが、……う」
そんな尊い、そして強い彼女の後ろで、俺は言う。
あまりに情けない立ち位置で、そしてこの言葉はおばさんの狂気を加速こそしても、決して正気に戻すものじゃない。
俺の言葉は、起爆剤にしかならないとはわかってた。
「……俺は、『カズラ』じゃない!!」
それでも、俺は言わなければならないと思った。
言わない方がいい。勘違いさせておいた方が、少なくとも俺は安全な可能性が高かった。
それでも、俺は否定しなければいけない。
否定しなければ、それこそ俺は羽柴に守ってもらう権利も価値もない。
……だって俺は、「カズラ」ではなく、「ソーキさん」だから。
羽柴が守るのは、「ソーキさん」だから。
自分の安全のために俺は、俺であることの否定なんかしたくなかったんだ。
「俺の名前は、『カズラ』でも『カズ君』でもない!! 俺の名前は日生そう……」
「あああああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
鳥の啼き声を思わせる、甲高くて尾を引く絶叫が俺の言葉を掻き消した。
おばさんは、喉を引き裂く勢いと声量で叫び、のけぞった。
オカ研のみんなは羽柴が木刀を突き付けたあたりから顔面蒼白で硬直してたけど、おばさんの絶叫で何人かは腰を抜かしてその場に座りこむ。
羽柴は、喉笛に突き付けていた木刀を引いた。
怯えたのではなく、戦うために居合抜きのような構えに持ち直した。
俺はただ、固まった。
のけぞり、自分の頭を掻き毟り、それでも血走った眼で、狂気に淀んだ眼で、誰かしか見えていない、誰も見えていない目で俺を見続けるおばさんの狂気に飲まれ、言葉を失った。
「違う違う違う違う違うぅぅぅっっ!!」
「百合子! 違わない! その子は、『カズラ」じゃないんだ!!」
甲高い絶叫が、意味はあるがおばさんが望む意味はない言葉の繰り返しになった時、おっさんは自分の妻にしがみつき、羽交い絞めて言い聞かす。
……自分自身も信じたくない、いっそ妻と同じ狂気に呑まれてしまいたいと言いたげな、あまりに悲痛な目と声音で、それでもあの人は現実を言葉にする。
「百合子……違うんだ。……あの子は似てるだけで、『カズラ』じゃないんだ。
……あの子はもう……3年前に死んだんだ! 受け入れろ! 百合子!!」
「違う! カズくんは死んでなんかいない!!
あれはカズくんじゃない! あんなの違う! 絶対に違うぅぅぅっ!!」
真っ黒に焼けた体はがっしりとしてて、海の家のおっさんというより漁師さんにも見えるほど筋肉質な旦那に後ろから羽交い絞めされているというのに、おばさんの身体は激しく前後に揺れる。
柳のようにほっそりとした体で、おっさんが歯を食いしばって力を籠めなければ振り払われそうなほどに暴れ、身もだえし、その人は現実を、過去を、否定する。
それでも、振り乱された髪の隙間から見える血走った眼は、俺から離れない。
誰かの面影から、目を離さない。
そこに人としての理性や知性は、どこにも見当たらない。
なのに彼女を動かすものは、人が人として生きるに一番大切なもの。
それが何なのか、俺や羽柴はもちろん、他のみんなだってすでに察しがついてるのだろう。
だからこそ、この狂乱から金縛りにあったように目が離せない。
これが恐ろしくもあると同時に、あまりに哀れであるからだ。
人として生きるに一番大切なものが、もはや人とは呼べない狂気に成り果てる皮肉が、あまりにも悲痛で、目が離せなかった。
* * *
「……今の、……うちに逃げろ! ……寺に……隣の海の家の奴に頼んで寺に連れて行ってもらえ!!」
歯を食いしばって、滝のような汗を流しながら、おっさんは俺に向かって叫んだ。
その声に応えず、けれど真っ先に行動に移すのは羽柴だ。
無言で彼女は俺の手を掴んで走り出した。
「先生や先輩たちはこのまま帰って! 狙われてるのも、敵認定されてるのも、ソーキさんと私だけですから、他の人はこのまま帰っても問題はないです! むしろこれ以上、特に暗くなってから関わるのは危ない!!」
一度、振り返って早口で飛ばした羽柴の指示に、不平を漏らす者はさすがにいなかった。
ほとんどの人が真っ青な顔でガクガクと縦に首を振り、腰を抜かしたままの人は這いずってその場から離れようとする。
「おい! お前らは大丈夫なのか!?」
さすがに雪村先生は、腰が抜けた生徒に肩を貸しながら心配の声をあげるけど、その声に羽柴は振り返りもせずに即答する。
「無問題です」
そのいつもなら安堵を覚える即答すらも掻き消して、叫んだ。
「違う違う違う違う違う違う違う違うぅぅぅっっ!!
だって、首がなかったじゃない! 頭がなかったじゃない!! あれはあの子じゃない!! あの子じゃないの!!
あの子は生きてる! あの子は生きて絶対に帰ってくるのよぉぉぉっ!!」
その絶叫に、羽柴の顔がわずかに歪むのを見た。
悪霊やその悪霊を利用する人間に同情しない羽柴が、この人にだけは同情をしてしまいそうになっているのが分かる。
……俺にはなんとなくの想像でしかわからないけど、羽柴ならそれこそ痛いほど理解しているはずだ。
母親を亡くした彼女だからこそ
「息子」を喪ったあの人の気持ちを、知っている。
……知っているのに、彼女は同じ痛みを持つ人ではなく、その痛みを悼みではなく、狂気にしてしまった人から俺を守ることを選んだ。
あぁ。
俺は死ねないなぁと、どこか呑気に、けれど絶対の覚悟を決めて思った。
怪物と戦う覚悟はなくても、その覚悟だけは決めなくちゃいけないって思ったんだ。