参・そこは鬼女の御厨にして、聖母の産屋
「あ、日生くん日生くん! ちょうどいいところに来た!」
トイレで用を足して出てきた直後、俺は腕を引かれて無理やりある方向に向かって連れ出された。
俺の腕を掴んだのは、派手なトップスにホワイトデニムのサロペットというちょっと露出が高いけど私服に見える水着を着た、紅葉先輩と同じ日本人にしては明るいショートヘアの活発そうな美人さん。
オカ研随一のオカルトマニアな銀杏部長だった。
「部長! どこで何やってたんですか!? 紅葉先輩が探してましたよ!」
「どうせ途中で『どうでもいいか』って諦めたんでしょ! それよりも、来て! そんで見て欲しいのがあるのよ!」
俺が気を遣って言わなかったことも、実の姉ならお見通しかつ気にしていないようで、部長は俺を腕を掴んで連れてきた。
浜辺にいくつか並ぶ海の家。そのうち一つの裏手に。
その海の家は2階建てという、ちょっと変わった作りだった。
一戸建ての家で1階に当たる部分がガレージや倉庫になってて、2階3階部分が居住空間になってる家みたいに、1階部分はおしゃれに言えばオープンテラスな普通の海の家。かき氷やら焼きそばやら浮き輪やらを売ってて、その場で食べれるように10席も見たないけどテーブルや椅子が置かれている。
んで、2階部分は裏手に階段があり、アパートのように渡り廊下があるけれど、扉は一つで、窓はすべて内側から新聞紙で塞がれて中が見れない。
何ここ怪しいと思っていたら、階段のわきには張り紙二つが目に入る。
一つは、「2Fにもお席がございます」で、もう一つは「只今、2Fは開放していません」と書かれていた。
2階にも飲食するための席があると伝える張り紙はかなり古いものなのか、色あせて破れて文字もにじんでいる。
そしてもう一つの方も前者よりはマシ程度で、やはり貼り付けてから結構年月が経ってそうだ。
まぁ、とりあえずその張り紙で2階スペースの謎は解けた。
雨漏りとか何かで使えなくなった2階をそのまま放置しているだけかと納得したのはいいが、まだ謎が残っている。
解けていない謎は、どうして部長が俺をここに連れてきたかだ。
「日生くん、ここの2階を見て何か感じない?」
風守先輩とは違って自重する気なく、目はキラキラと輝かせてワクワクしながら尋ねる部長。
「は? いや別に何も。つか、この張り紙見てくださいよ。確かにパッと見怪しいけど、ただ単に使ってないだけでしょ」
「違う違う! その張り紙なら私も気づいてる! でもここ使ってるわよ! それも超怪しい方向で!」
俺が張り紙を指さすと、部長は腕を振り回してようやく俺をここに連れてきた理由は語りだす。
先生と同じくこのあたりが最近心霊スポット化していることを知っていた部長は、水着に着替えてすぐにそのあたりの写真を撮りまくっていたそうだ。心霊写真目当てで。
で、写真を撮りまくってる時にこの海の家で従業員っぽい女の人が、盆に飯を乗っけて裏手に行くのを目撃する。
その飯がおにぎりを2、3個とかなら何も気にしなかっただろうけど、盆に乗った飯は大きめの茶碗に言葉通り山盛りの飯、いわゆるマンガ盛りだったので思わず二度見して、そのまま「どこの誰に食わすんだ、あれ」と気になって後を追ってしまったらしい。
まぁ、正直気持ちはわかる。間違いなく、俺も二度見する。
で、もう長い間使っていないであろう2階にその飯を持ったまま上がって入っていく時点で怪しさはMaxなのに、その人は5分も経たずに出てきたそうだ。
……空っぽの茶碗を、盆に乗せて。
* * *
「……それは確かに」
後半の言葉は言うまでもないので省略する。
この2階に誰かがいるとしても、マンガ盛りされたご飯を5分以下で完食は異常だし、以前に持ってきて完食したご飯の茶碗と交換したんだとしても、やっぱりそもそもあそこに何がいるんだ? という疑問にぶち当たる。
張り紙からして、2階は1階で買ったものを食べるためだけのスペースだ。生活できるような場所じゃないだろう。
どこをどうとっても好意的、常識的な考えが浮かばない海の家の従業員が行った行動と、2階の謎。
それを場違いなまでにハイテンションで、部長が俺に解明の手伝いをしろと言ってくる。
「でしょでしょ! だからお願い、日生くん。ちょっとよく見て、何かいないか、いるんならどんなんかだけでも教えてよ」
「嫌です」
部長の頼みごとを即答で断って羽柴達の元に戻ろうとするけど、部長は俺の腕を掴んでその場にしゃがみ込んで動かない。
「そんなこと言わないで、お願い! あの2階に入れとか言わないし、私だって入らないから!
ちょっとよく見てみるだけでいいから! ほら、私が側にいるんなら日生くんも私の守護霊さまが守ってくれるから無問題!」
そんな無茶苦茶を部長は言い出したけど、それに「もう、しょーがねーな」と思って部長の頼みを聞き入れてしまった俺は馬鹿だ。
俺はあまりにも危機感がなかった。平和ボケした、学習能力のないバカだった。
部長の言う通り、部長の守護霊は強力だから、部長が何かやらかしてる時はいっそ部長のすぐ近くにいる方が安全だと思ってたし、そもそもその2階はこの段階では別に何も感じてなかったし、何も見えてなかった。
いたとしても、俺は羽柴と違って霊感のコントロールができない。
あいつは霊感をON/OFFで切り替えるだけじゃなく、特定の見たくない奴だけをシャットアウトできるし、逆に見たい奴だけを見るってこともできる。
けど俺は自分と波長の合うやつか、俺に関わろうとしてくる奴しか見えない。
だからこそ、関わろうともしないくせに俺には見える波長の合う水死の霊が多すぎることを、異常に思ったわけだ。
だから、今更目を凝らしたところで何かが見えたり感じたりするわけないと、思ってたんだ。
少しよく見て、「別に何もいませんよ」と言って、部長を引っ張って帰る。
そうするつもりだった。
それ以外が起こるなんて、予想していなかった。
俺は、馬鹿だ。
それは気付かれていないだけだけだったんだ。
見逃されていただけだったことに、気付かなかった。
* * *
俺が少しだけ、「何か怪しいものはないか」と2階の扉を注視した瞬間、俺の呼吸が止まった。
息ができないほどの圧迫感。
扉どころか海の家自体から距離は相当あるはずなのに、目の前で破裂寸前の風船があるような緊張感。
カリカリと音が聞こえる。扉の向こうで、何かが引っ掻いてる。それも一つじゃない。
途切れることなく、幾重に、何重に、無数に、それらはカリカリと扉を、壁を、床を、天井を引っ掻いている。
「ここから出して」と訴えるように。
嫌な臭いが鼻に届く。磯の香りに何かが腐ったような甘みと酸味が混じった不快な匂い。
空気が澱んで、濁って、重くその場に溜まっている。
どうして気づかなかったと、自分で自分を罵倒する。
それぐらいに、異質で、異常で、そしておぞましいものがそこにあることが分かった。
何も見えていないけど、俺の霊感が、本能が訴える。
あの中にあるものが、この町の異常の元凶であり、そして俺が触れてはいけないもの。
「ひ、日生くん? 日生くん!?」
部長の声に、忘れていた呼吸の仕方を思い出す。
「ちょっ、大丈夫!? 顔色すごいよ!」
オカルトマニアのこの人が明らか様子のおかしい俺に喜ばず、本気で心配しているということは、それだけ俺はヤバそうなのだろう。
実際に、俺は今ものすごくヤバい。部長を見捨てて今すぐこの場から逃げ出したいくらいだ。
でもダメだ。それはダメだと、かすかに残った冷静な部分が俺を叱責する。
見捨てるな。
伸ばして掴める位置にいる人を、手放すな。
もう誰も、手放すな。
そう訴える俺がいた。
「……部長。帰りましょう。みんなの元に帰って、この町から離れましょう!」
「え? そんなレベル!?」
驚きつつも俺の様子からして誇張ではないことを察したのか、部長の腕を掴んで走り出した俺に今度は一切の抵抗をせずに素直についてきた。
大丈夫。俺らの存在に気付かれはしたようだけど、どうやらあの中にいるものはあそこからは出れない。
俺に姿は全く見えていないのがいい証拠だ。
だから、離れたら、ここから、この海から、この町から離れたらもう大丈夫。
なのに、俺は足を止める。
「お母さん」
遠く、近く
浅く、深く
そんな、声がした。
* * *
「お母さん」
それはか細い、囁きとも呟きとも言えない声だった。
なのに、はっきりと、鼓膜の内側から生じるように聞こえた。
「お母さん」
その呼びかけは、もはや諦観そのものだった。
でも、諦めたのに、諦めたいのに、諦められない懇願だった。
「お母さん」
それは、遠く、近い声。
「お母さん」
それは、浅く、深い思い。
「お母さんに、会いたい」
――あぁ
この声は、無視できない。
* * *
磯の匂いに混じる、すえた甘くて酸っぱい腐臭。
窓からわずかに漏れる光以外の光源がない部屋。
ガサガサと小さく、けれど確かに何かが四方八方で這いずりまわるような音。
「ひ、日生……くん?」
そして泣き出しそうな顔と声の部長が、俺を現実に引き戻す。
……いや、違う。
ここは、現実じゃない。
ここは、この世じゃない。
ここは異界。
鬼子母神の聖域だ。
鬼子母神
仏教を守護するとされる夜叉。訶梨帝母とも言う。
500人(もしくは千人、または1万人との説もある)の子の母であったが、それらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食い殺すため、多くの人間から恐れ憎まれていた。
その行いを見かねた釈迦に、最も愛していた末子を隠され、彼女は半狂乱となって世界を7日間探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋る。
我が子の無事と帰還を願う母に釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。なら、数人しか持たぬ子を失う親の苦しみはいかほどであろうか」と語り、鬼子母神は自分の罪深さを知る。
自分の過ちを悟った彼女に、「子を想う気持ちには人間と鬼神に違いは無い」と諭し、隠していた子を返し、仏法に帰依させたことで、彼女は鬼女から仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神、聖母となった。