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終幕・鬼子母神はもういない

「羽柴!!」と俺は叫んだつもりだった。


「お母さん!!」


 俺の口から実際に出てきた言葉は、これ。

 叫ぶ声は、俺の声に似ているけど違う。

 まだ声変わりをしていない、女の子のように高い声が俺の口から飛び出した。




 * * *




 夢を見ているような感覚。

 視界は確かに俺のものなのに、俺の思うようには動かない。

 目にカメラを仕込んで撮影した映画を見ているみたいで、どこか他人事のように感じる。

 実際、今の俺は他人で蚊帳の外。


 この体は確かに俺のもので、絶対に誰かにやるつもりはないけれど、今だけは、今だけは俺のものじゃない。

 この体は、俺は、「カズラ」だ。


「お母さん!!」

 幼い声で叫ぶカズラ。

 その声に肩を震わせて、おばさんはゆっくり振り返った。


「……カズ……ラ?」

 二分された顔の片面が、呆けたような顔になる。会いたくて会いたくて、そのために人であることすらやめた母親が、自分の願いが叶ったことを認識しきれずに呆けている。

 もう片面、「よくないもの」に支配された顔は、忌々しそうに嫉妬で歪む。一時的とはいえ自分たちが望む「蘇生」を果たしたカズラが、憎くて憎くてしかないのだろう。


「!? ソーキさん!?」

 おばさんに馬乗りにされている羽柴が叫んだ。

 白くて細い喉にはくっきりと手のアザがついているのが見えて、今すぐに駆け寄って土下座で謝りたかった。

 ごめん、ごめん。羽柴、本当にごめん。

 俺のわがままに巻き込んで、そんな怪我をさせて、一番危ない目に遭わせて、本当にごめん。


 そして、ごめん。たぶん君が一番してほしくない、危ないやり方を今、俺はしてる。

 同調ではなく完全にカズラに体を貸してる俺を見て、羽柴は無理やり上体を起こして折れた木刀を俺に向かって突き付けた。


「! ごめんさい、おねーさん。おねーさんが怒るのは当然だけど、でも少しだけ待って! 絶対、絶対に返すから! おにーさんにちゃんと返すから! ……だから……お願い。……お母さんと話をさせて」

 突き付けられた木刀と敵意に少し怯えながらも、カズラは懇願する。

 ごめん。本当にごめん。

 だけどお願いだ、羽柴。信じてくれ。少しでいいから、待ってやって。


 俺からの伝言じゃダメなんだ。カズラが直接言わなくちゃ、この人は決してあきらめない。

 だからお願いだ。待ってくれ。


 カズラの懇願が通じたのか、それとも何も言えない、ただ見ることしかできない俺の謝罪を、羽柴のあの深い目が捉えたのか、羽柴はしばらく睨み付けた後、静かに目を伏せて、溜息をつきながら木刀を下ろした。


「仕方のない人」

 ポツリとそんなことを、呟きながら。




 * * *




「……カズラ……」

 おばさんがやっと少し現状を理解したのか、ふらつきながらも立ち上がって、羽柴から離れた。

 そして頼りない足取りで彼女は俺に、カズラに手を伸ばしながら近づく。

 ……なんか両手とも火傷で真っ赤なんですけど、何やったんすか羽柴さん!?


 空気を読まずにそんなことを思ってしまったけど、火傷を負っている張本人はそんなことを気にもかけず、っていうか気付いてもいないのか、ただまっすぐに手を伸ばす。

 何もかも捨てても、何を犠牲にしても会いたかった息子に。

 鬼女にして聖母、母であるが故に全てを捨てた鬼子母神が、感涙しながら呼びかける。

「カズラ」


「ごめんなさい。お母さん」


 けれど、カズラはその手を取らない。

 あと一歩でカズラの頬を、頭を撫でることが出来る。そのくらいの位置まで近づいたところで、カズラは一歩後ろに身を引いて、そう伝えた。

 目の前の鬼子母神はもう一度、呆ける。


 数秒、カズラは自分の、俺のつま先をじっと見ていた。出来ればこのまま、顔なんて上げたくなかっただろう。

 でも、こいつはちゃんと顔を上げた。

 まっすぐ目の前に立つ人を見て、言わねばならないことを口にする。


「お母さん、俺は死んだんだ」


 おばさんの顔が歪む。

 母の顔も、「よくないもの」の顔も同時に歪んだ笑みを浮かべる。

「よくないもの」は、他人の不幸が楽しくて嬉しくて仕方がないという、陰湿な歓喜の笑みに。

 母は、ごまかすように、目をそらすように、無理やり引きつった笑みを浮かべて言う。


「何を……言ってるの? ……だって、あなたはここにいるじゃない。

 ちゃんとここにいるじゃない! いなくなったころからちゃんと3年成長して、中学生になって、ここに帰ってきてくれたじゃない!!」

 カズラの言葉を、現実を、3年前の悲劇を否定して、おばさんは目の前のカズラに触れようとする。


「触らないで!」


 その行為を、拒絶される。

「……お母さん。ちゃんと見て。ちゃんと思い出して。本当はわかってるんだろ? 俺が3年前に死んだことを、本当はわかってるだろ?」

 母の願望を、否定する。

 自分自身が切り刻まれるような痛みに耐えるような悲痛な声でカズラは、拒絶と否定を叫んだ。


「カズラ……何を……言って……」

「お母さん、俺の話を聞いて。本当なら、俺はお母さんと何も話せないで消えるしかなかったのに、このおにーさんのおかげで、今、俺はお母さんと話ができるんだ。

 お母さん、俺はもう後悔をしたくない。お母さんもしたくないのなら、お願いだから俺の話をちゃんと聞いてよ!」


 カズラの言葉を否定しようとする母親を、カズラは癇癪を起したように地団駄を踏んで叫んで止めた。

 そして荒い呼吸のまま、涙で滲む視界のまま、言葉を続ける。


「お母さん。もうやめてよ。人を騙して、傷つけて、自分だけ幸せになろうとすることは、この世で一番悪いことだって俺に教えたのは、お母さんじゃん。

 やだよ。俺はこのおにーさんを死なせちゃうのも。お母さんが俺の代わりに死んじゃうのも。


 生き返れるんなら、俺だって生き返りたいよ! でも、たくさんの人に心配かけて、お父さんに怪我させて、全然関係ない人を死なせて、お母さんを殺して生き返るなんか、したくない!!


 3年前に俺が死んだのは、俺が勝手に朝早くから出て行ったことが原因なんだから、俺が馬鹿だったせいだと思って、俺が全部悪かったんだから俺の事なんか忘れたらいいんだ!!」

「馬鹿なことを言わないで!!」


 カズラの叫びを打ち消す叫び。

 母親は唇を噛みしめて、目に涙をため込んで、今にも泣き出しそうになりながらも、叫び、叱った。


「あなたのことを忘れるなんて、出来るわけないじゃない!

あなたは確かに、何回言っても危ないことは痛い目にあうまで懲りなくて、信じられないくらいバカなことばかりしてたけど、人に迷惑をかけるようなことはやっちゃダメって言わなくったってやらなかったじゃない! 誰かに迷惑をかけてしまったら、お母さんが叱る前にいつも自分から謝れる子だったじゃない!


 あなたは悪くない。……何も……悪くなんかない。……悪いのは、あなたが出て行ったことにも気づかない、すぐに探しにもいかなかったお母さんよ……」


 言いながら、おばさんはその場に座り込み、俯いてただただ涙を流す。

 顔の半面は相変わらず、ニヤニヤと蔑み、嘲り、嗤っているのに、母親の顔は絶望のあまり感情を失い、涙だけ流す能面のような無表情で、ただただ繰り返す。


「私が……悪いの。私が……私の所為で……私の……」

 子を一切責めず、自分だけを責め抜いて、後悔し続けた。


 おばさんの言葉に、関係ない俺の胸まで抉られるような痛みが走る。きっとカズラの痛みは、こんなものじゃない。

 でも、言えない。カズラは「お母さんの所為じゃない」と言えない。自分の所為だという事を否定されたら、もう何も言えない。

 本当の事は、絶対に言えない。すぐに探しに行ってもおそらく無駄だったことは、救いではなくとどめの一撃にしかならないのだから。


 カズラは、人でも母でもない、女でしかない鬼に殺されたなんて言えない。


 あの日の終わりは、悲劇の結末でしかない。だから、語らない。

 語るのは、あの日の始まり。

 それこそ、カズラがこの世に遺した吉祥果。


「--お母さん」


 カズラは一歩あゆみ寄って、持っていたものを差し出す。

 それは、小学4年生の算数のノート。計算プリントをいくつも張り付けてあるせいで、普通のノートよりやたらと分厚くて、ごわごわした手触り。

 ……だから、気付かなかった。ここに挟まっているものに。


 ゆっくりと顔を上げた母親に、カズラはそのページを開く。

 偶然、そのページに貼ったプリントのノリが少なかったのか、それともわざとそうしていたのか、プリントの一部が剥がれてポケット状になった部分。その中に、隠していた。

 算数のノートのページを乱暴に破って作った、実に小学生男子らしいもの。

 俺もつい最近まで作って渡していたものを、ようやく渡せた。


『お手伝い券 来年まで有効』


 渡された紙、5枚つづりになったその券をしばらく凝視してから、母親は呟いた。

「…………え?」

 わずかだけど、ほんのわずかだけど、母親の顔がもう片面にも及ぶ。

「よくないもの」に支配され、まったく違う表情をしていた片面が、同じように目を見開き、呆けたような声を発する。


「お母さん、ごめんなさい。

 俺、あの日朝から釣りに出かけたのは、お母さんにご馳走を食べさせたかったんだ。大物を釣って、これと一緒にプレゼントしたかったんだ」


 ――そう。

 カズラがあの日、早朝から一人で釣りに出かけたのは、母親の為。母親を驚かせたくて、喜ばせたくて、そのために出かけたのが始まり。

 カズラが死んだのは、ゴールデンウィーク明けの日曜日。5月の第2日曜日。


 母の日、だ。




 * * *




 カズラは、父親も大好きな普通の子だ。なのに、母親にだけ会いたがった、母親にだけ執着していたのは、これが原因。

 母を一番喜ばせたかった日に、母を一番悲しませてしまった罪悪感。渡したかったものを何一つ、感謝さえも渡せないまま死んだ後悔。

 それがこの子供にとって、自分の死よりも、陸上で溺れるような苦痛よりも勝る痛みだった。


 カズラの言葉に、母親は顔を歪ませる。

 母の片面だけではなく、もう片面も心臓を抉られた方がマシと言わんばかりの、悲しみと絶望の顔に、じわり、じわりと滲むように変わっていって、「よくないもの」はそのことに焦るような、理不尽な怒りを懐いているような、何とも言い難い奇妙な表情を見せるけど、それはもはや片目ぐらいでしか表せていない。


「……こんなこと言ったら、お母さんは余計に悲しむよね。……ごめん。

 でも、お母さん。こんなもの渡してももう手伝いなんて何も俺はできないけど、もらってほしいんだ。


 俺のわがままだけど、どうしようもない俺のわがままだけど、だけど聞いてほしいんだ。

 ……お母さん。俺が死んじゃったことを受け入れて、でも、それでも、幸せになって」


 俺の視界が、カズラの視界が滲む。涙がついに我慢できずにあふれ出た。

 それでも、この強い子供は言う。

 あの日の始まりを、母親に伝える。


「俺はあの日、お母さんを喜ばせたくって、お母さんに笑ってほしくて、釣りに出かけたんだ! お母さんとお父さんを悲しませて、たくさんの人に迷惑をかけて、お母さんを……お母さんをこんなお化けに取り憑かれて、化け物を作る為に出かけたんじゃない!!

 ……俺は……死んじゃったけど……でも……でも……こんな……ことの為に……死んだんじゃない……俺は……お母さんの為に……お母さんを……喜ばせたくて……お母さんに……笑ってほしくて……お母さんに……お母さんに…………」


 しゃくりあげ、何とか言葉を紡ぎだそうとするけれど、うまく出てこない。

 同じような言葉の繰り返しになってきた辺りで、俺の頬にそっと指先が触れた。

 火傷で爛れた指で、涙を拭う。

 それはどれほど、激痛が伴う行為なのかはわからない。

 そんなことを感じさせないくらい優しく、涙で不鮮明な視界でもはっきりと見えるくらい鮮明で、そしてこの世で何よりも美しい笑顔が、そこにあった。


「―-もういいの。カズラ、もうわかったからいいの」


 鬼女の狂気はそこにはなく、けれど聖母と言えるほど清廉ではない。

 本当はまだ現実なんか見たくない、息子の死なんか否定したい、我が子が生き返るのなら、自分はもちろん、この世全ての生き物を犠牲にしてもいいと思ってる。

 でも、それを息子は望んでいない。それは我が子に更なる傷を与えるだけとわかっているから、だから、息子の傷が少しでも浅くなるように、笑って耐えた。


「ありがとう。カズラ」


 痛みに耐えて、カズラが望んだ笑顔を、母親は与えた。

 それは、鬼子母神ではなくただの人でしかない母親の笑顔だった。




 * * *




「おかあ……」

 カズラが呼びかけようとした瞬間


「!? きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

柔らかな笑みは、限界まで目を見開き、喉が裂けそうな絶叫を響き渡らせる苦痛の顔に豹変した。


「お母さん!?」

「カズラ! にげっ……にがざないにがざないにがざないおまえばいらないぞのかだらだげよごぜいぎがえりだいじねおまえばじねわだじのだめにじね!!」


 母親の豹変と絶叫を案じるカズラを庇って、逃げろと訴える母親。

 その母親の言葉を奪って、別のものがひたすらに呪詛を唱え続ける。

 ただ一つの目的に向かって突き進む、人だった名残はもう悪意しかない「よくないもの」

 目的を果たしてもきっとそのことに気付けないくせに、奴らはようやく正気を取り戻した母親を、今度は同化ではなく無理やり体を乗っ取ろうとしている。


 乗っ取りながら、その手を伸ばす。

 白目をむき、口の端から泡を漏らしながら、憤怒にも喜悦にも見える、悪意だけの顔をした「よくないもの」が。

 カズラに。

 俺に、手を――


「渡さない」


 凛と、涼やかな声が響く。

 グイッと、「よくないもの」の首が後ろにのけぞったのは一瞬。

 ずるりとそれは、カズラの母親から抜け出て、高々と掲げ上げられた。


 同時にカズラの母親も、力が抜けたようにぐらりとバランスを崩して倒れかける。

「お母さん!」

 カズラがその身体を支えて、気を失っている母親の顔を見る。

 顔色は悪いけど、そこには悪意はもちろん苦痛の面影もない。


「やっと同化が解けて、今度は無理やり乗っ取るために精神の表層に現れたチャンスを、逃すと思った?」

 棒読みで羽柴は、自分がおばさんから引っこ抜いて掲げ上げたものに尋ねる。

 羽柴が掴みだしたもの、「よくないもの」は、あの虫が可愛いと思えるぐらいにおぞましかった。


 形そのものは人型だ。形だけは。

 それは人の部品と海の生き物を粘土のように混ぜ合わせて、人の形にしたようなもの。

 魚はもちろん、カニやエビといった甲殻類、ナマコやフナムシのようなやたらとグロテスクなものが、原型を残して溶け合い、人間の髪や目玉、内臓などと混ざって、人の形にこね合わせた出来損ない。


 もはや何と表現したらいいかわからない、「よくないもの」としか言いようがない「それ」が、声にならない耳障りな音を立てると同時に、羽柴が掴んでいる、頭に当たる部分から煙が上がる。

 よく見ると、羽柴の掴む手の付近が、ゴポリと泡立っている。

 あの煙は焼けて出る煙ではなく、たぶん蒸発して出る水蒸気だ。


 羽柴は、「よくないもの」を焼き尽くし、蒸発させながら、その深い眼に怒りの明かりを灯させて言う。


「鬼女も、聖母も、もういない。お前らが付け入る隙間はもうない。

 鬼子母神はもういない。

 犠牲以外の何も生み出さないお前らは、地獄に堕ちろ!!」


 そう叫ぶと同時に、羽柴は「よくないもの」を思いっきり地面に叩き付けた。

 白い煙が、水蒸気らしきものがあたりを覆って、数秒だけど周囲の視界を完全に真っ白に染め上げた。

 その一瞬前に俺が見たものは、確かかどうか自信はない。


 俺には、羽柴が「よくないもの」を叩き付けた地面に亀裂が入り、それが口のように開いてその中から黒い影のような手がいくつも伸び、「よくないもの」を引きちぎりながら飲み込んでいったように見えた。

 地獄に堕ちていったと、思った。




 * * *




「……うぅ……? ここは……? 俺は……何を……」


 羽柴が「よくないもの」を始末した数秒後、タイミングよく目覚めたのは、おばさんではなくおっさんだった。

 ……ごめん、おっさん。存在忘れてた。


 カズラはおっさんに気付き、「お父さん」と言いかける。

 けれどその前に、おっさんが叫ぶ。

「百合子!!」と。


 息子ではなく妻の名を叫んで、気を失っているおばさんに駆け寄った。

 抱きかかえているのは、今は正真正銘の息子であることを気付かずに。

「百合子! な、何があったんだ!? 百合子は、百合子は大丈夫なのか!?」

 そう俺に尋ねるおっさんに、カズラは無言で頷く。

 声を聞いたらさすがに気付かれるだろうから、カズラは何も言わないまま、母親を父親に渡した。


 俺はカズラに訊いた。「辛くないか?」と。

 カズラは、声にせずに答えた。

「少し。でも、これでいいんだ。

 お父さんは俺が死んだ時、お母さんを慰めながら一人でいっぱい泣いたことを知ってるから。ちゃんと愛してくれたことを知ってるから。だから、大丈夫」


 おっさんは妻を呼びかけながら揺さぶっていると、おばさんの方もかすかにうめいて、瞼が震えた。

 そして、ゆっくりと目を開ける。


 眼を開けた先には、俺が、カズラがいる。

 けれどおばさんは何も言わない。

 まだどこか夢でも見ているような、うつろな目でただ俺たちを眺めている。


 そんな母親に、カズラは無言で差し出した。

 ノートの切れっ端で作った、母の日のプレゼント。

 あの日の始まり。カズラのこの世に遺した心の一番大切な部分を差し出す。


「これは……」

「カズラが、3年前のあの日に渡したかったものです」

 父親が呆けた顔をしてそれを見て、最後まで言い切る前に俺の後ろに立った羽柴が答える。


「受け取ってあげてください。カズラが望んだもの、全てを」


 母親は、羽柴の言葉に応えるように、手を伸ばし、愛しげに、大切そうに、けれど力いっぱい抱きしめて、泣いた。


 ……俺ではなく、俺の体に宿ったカズラではなく、カズラの作った「お手伝い券」を受け取って、その胸に抱いた。

 あぁ。もう、大丈夫だ。

 もうこの人は幻想に捕らわれていない。

 きっと完全に立ち直るには、まだまだ時間がかかる。立ち直ったって、傷が完全に癒えるわけじゃない。その傷は、永遠に痛み続ける。


 でも、その痛みの意味を知った。最悪の傷になってしまったけど、そのきっかけは自分の幸せを、笑顔を望んでのものだったことを知った。

 何を望んでいたかを知ったから、何を悲しむかを知ったから、だから、もう大丈夫。

 もう、バッドエンドにはなりはしない。


「ありがとう。おにーさん」

 心の中でカズラがそう言った直後、ぐらりと視界が揺れた。

 急に体のコントロール権を戻されて、自分の体なのに上手く扱えず俺はバランスを崩して後ろに倒れかかる。


「大丈夫?」

 そんな俺を、羽柴が支える。


「羽柴……」

 俺がまず、羽柴に言わなくちゃいけないことは謝罪。

 俺のわがままで迷惑をかけて、こんな首にアザができるような目に遭わせて、羽柴の忠告を全部無視して、危ないことをやらかして。

 謝らなくちゃいけないことしかやっていないのに、真っ先に出てきた言葉は違う事だった。


「もう……いないのか?」

 カズラがもうどこにも、羽柴にも見えない、行き来は簡単にできるのに留まることは困難な、薄皮一枚で区切られた向こう側に、逝ってしまったのかを尋ねた。


 羽柴は静かに、いつものように淡々と答えた。

「えぇ。もういない。必要ないのは、わかるでしょう」


 あぁ。羽柴の言う通りだ。

 おばさんは正気を取り戻し、現実を受けれた。

 おっさんは泣きじゃくるおばさんを抱きしめながら、約束している。

「絶対に俺は、お前より先に死なない」と。


 だから、大丈夫。

 大丈夫なんだ。


 体の使い方をようやく思い出し、羽柴の支えなしで立ちながらそう思うと、今度は羽柴が俺にもたれるように体を預け、心臓が高鳴る。

 俺の背中に額をくっつけて、羽柴はやっぱりローテンションないつもの棒読みで言う。


「お疲れさま、ソーキさん」


 この時、羽柴が笑っていたことを俺は知らない。

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