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拾壱・愛奴児の遺書

 中に入ってすぐ、虫に襲い掛かられることがなかったことにまずはホッとする。

 っていうか、襲いかかるかからない以前に虫は「どご?」とか言いながら、俺が分からないのか明後日の方向をうろうろしてる。

 たぶん羽柴が貸してくれたヘアゴムのご利益だろうと感謝しながら、目を閉じて聞くことに集中する。


 がさがさと床や壁、天井を這い回っているであろう、生理的に厭な虫の足音。

「ぼじい」

「ぢょうだい」

「じにだくない」

「いぎがえりだい」

 人ではなくなったものの、むき出しの欲望の声。


 不快なそれらの音ばかりが聞こえて、肝心な声が聞こえない。

 ここにいることは確実なのに、あの声が聞こえない。


 うっとうしい音にイライラしながら、無理やり雑音を無視して探す。


 俺にだけ聞こえた、カズラの声を。



 * * *



 しかしまったく、何も聞こえん。

 そもそも羽柴は俺なら同調できる的なことを言ってたし、実際に一回して乗っ取られた状態になったのが事の始まりだけどさ、同調ってどうやってやるもんなの?


 今更なツッコミが頭に浮かぶついでに、声や物音でこの部屋に何匹くらい虫がいるのかもだいたいわかった。

 どうもほとんどの虫はやっぱり外に出たみたいで、部屋にいる虫の数は5匹前後。

 これだけなら、羽柴のご利益が切れてもまた全身を押さえつけられることもないし、頭は昼間のように守護霊が守ってくれるはず。


 あぁもう、どうしたらいいかわからな過ぎて違う考えに思考が飛ぶ。

 落ち着け。落ち着いて考えろ。

 同調……同調……、カズラが思っているであろうことを想像すればいいのか?


 カズラの願いはただ一つ、「お母さんに、会いたい」だ。

 そりゃ会いたいだろう。3年前に死んだという事は10歳だ。

 早ければ反抗期で妙に親を嫌う時期かもしれないけど、まだまだ母親にべったり甘えてる方が自然な歳のはず。

 事故で急に死んでしまったのならもちろん、羽柴の推論が当たっているのなら、なおさらだ。


 怖かったこと、辛かったこと、痛かったこと、それらを泣いて訴えて抱き着いて、母親に慰めて欲しいと願うのは、簡単に想像がつく。

 ……これが、カズラがこの世に残した心、どんなに苦しくてもこちら側に留まって叶えたい願い……か?


 ダメだ。たぶん違う。

 住職さんやカズラの伯父から聞いた話通りなら、カズラと俺は性格も似てる。

 声が聞こえて同調もしたんだから、それは俺の一方的な思い込みじゃない。間違いなく、俺とカズラはある程度は似た思考の持ち主だ。


 だからこそ、違うと思う。

 俺ならそんな理由で留まっているのなら、願いは「会いたい」じゃなくなる。

 この惨状を見て、まだそんな甘えたことはいくら10歳でも言わない。言えなくなるはず。

 俺なら願うのは、「もうやめて」だ。


 クソっ! じゃあ何なんだ!?

 考えろ! 俺なら3年も経って、母親が人間とは言えなくなるようなことをしても、「会いたい」と願うのは何故だ? どうやったら、止めることより会うことを願う?

 どうやったら……どうしたら母親に…………母親……母親?


 ちょっと待て。そういやカズラはどうして、母親だけに会いたがってるんだ?

 父親は自分の死を受け入れているからか?

 ないな。母親の方が色々心配なのは確かだけど、あの世に逝く前に一目会いたいとか、甘えたいとかなら、母親だけじゃなく父親にも会いたいと俺なら思う。


 ……もしかして、これか?

 父親を眼中に入れず、母親にだけ会いたがっている理由こそが、カズラの心残りなのか?


 だとしたら何だ?

 考えろ、思い出せ、カズラがどんな奴なのかを、カズラが死んだ日、何をしていたかを。

 そこに、答えがあるはずだ。


 3年前、カズラは何をした?

 親が寝てる間に家を抜け出して、釣りに出かけた。

 考えてみたら、この時点でおかしいな。何してんのこいつ? 早朝にしか釣れない魚でも狙ってたのか?

 持ってた釣竿は誕生日に買ってもらったばっかりだったらしいから、それを使いたかったのか? そうだとしても、友達を誘わず一人で釣りするか?


 この辺はさすがに本人じゃないとわからんな。俺も釣りはするけど、誕生日にプレゼントで釣竿ねだるほど好きじゃねーし。

 あと他に何か……何かあったか?

 もっと初めから、整理しなおしてみるか。


 カズラが死んだのは5月の中頃、ゴールデンウィークが終わった後かな。

 …………ゴールデンウィークの後?

 昼飯時には帰るって置手紙を残したんだから、間違いなく平日じゃなくて休日だよな。

 それぐらいの時期って、確か--


「!」


 全てが繋がった。

 カズラが母親のみに会いたがっている理由も、朝っぱらから親に内緒に地理に出かけた理由も、カズラが殺されたであろう浜辺や、自分の家、両親のそばではなく、ここにいる理由も。

 カズラが残した心の正体に、見当がついてとっさに俺は目を開けた。


『渡してくれる?』


 目の前で、3年前の俺がそう尋ねた。



 * * *



 3年前の俺としか言えない子供が、俺の前に立っている。

 あぁ。あのおばさんが執着するわけだ。おっさんが、同じ狂気に呑まれるわけだ。

 自分に似た顔なんて本人にはよくわからないものだけど、同じ顔はわかる。


 それぐらい、カズラと俺は一卵性の双子じゃないことが不思議なくらいに同じ顔だ。


 カズラは俺より若干小さい両手を握りしめ、痛みに耐えるような顔をして言う。


『もうやめてほしいんだ。

 お母さんがこんなところであんなものを呼び寄せるのも、本当はわかっているのに、俺が生きてるって信じようとして、お父さんを悲しませるのも』


 俺と同じ顔をした子供は、やっぱり俺と同じ願いを懐いていた。


『お母さんは何も悪くないのに、ずっと自分を責め続けるんだ。そんなことをするくらいなら、俺のことなんか忘れても嫌ってもいいのに、お母さんはずっと俺に謝るんだ。

 お母さんがやってることは無意味なのに、お母さんはそれに気付けないし、俺も気付いてほしくない。気づく前にやめてほしいんだ。

 ……今更、あの気持ち悪いおばさんに殺されたなんて知っても、お母さんもお父さんもまた泣くだけで俺は何もできないんだから、いっそ知らないままでいてほしいんだ』


 俺よりもずっと大人びた顔で、カズラは言う。

 羽柴の推測を肯定し、けれどそれを知られることを嫌がった。

 犯人を告発することは、自分の死は事故ではなく事件だったことを知らせるのは、もはや無意味どころか両親の傷をさらにえぐることを理解して、だからこそ望まない。

 犯人を罰することより、両親の安寧を願った。


『おにーさん、お願いします。俺の代わりに、渡して。

 お母さんは本当はわかってる。俺が死んだってことも、自分がやってることはお父さんや他の人たちも悲しませて傷つけるだけだってことも。

 わかってるけど、『もしかして』に期待してしまって、その期待を呼び出したあいつらに付け入られてる。


 お母さんは自分が呼び出したものに、体を乗っ取られかけてる。

 お母さんは俺に会いたい、帰ってきてほしいって願いだけで何とか自分をギリギリのところで保ってるけど、お母さんの願いはあいつらが付け入って離れない、取り憑かれてる原因でもあるんだ。


『あれ』を渡しても、無意味かもしれない。もうお母さんは、自分が何を信じて願っていたかも忘れて、あいつらと同化しちゃってるかもしれない。

 でも、そうじゃないのなら、まだお母さんがお母さんのままなら、そして、おにーさんならお母さんに声が届くかもしれない。


 だから、お願い。

 俺の代わりに『あれ』を渡して、そしてお母さんに伝えて。

 もうやめてって、もう自分ばっかり責めないで、お父さんを悲しませないで、俺なんか忘れて、生きてってお母さんに言ってほしいんだ』


 最後の方は堪えていた涙を零して、俯いてしゃくりあげながら懇願した。

 本当は母親と同じように生き返りたい、帰りたいと思ってるはずだ。

 でも、そんな甘えなんかじゃない当たり前の願いすら口に出せないほど、この3年間で見てきたんだろう。


 母親が母親のまま、母親だからこそ人間を辞めていく様を。


 俺は手を上げる。手を伸ばす。

 カズラに向けて、俺は手を伸ばして言った。


「自分で渡せ」


 俯いていた顔をカズラは上げる。

 涙でぬれた顔をポカンとさせながら、俺を見返す。

 俺の言葉を理解できていないカズラに俺は手を差し出したまま、また言った。


「俺の体を貸してやる。だから、自分で渡して、自分で言え」


 羽柴が聞いたら、絶対に怒ることを言った。

 俺は相変わらず、危機感がないバカだ。

 想像できてないわけじゃない。始めはそんなつもりがなくても、一度体を手に入れたら欲が出て、出ていきたくなる、自分のものにしたがる可能性くらい想像がついてる。


 それでも、俺は提案した。

 体を奪われるのはもちろんごめんだけど、貸してやりたいと思って、信じたいと思った。

 何より、こうしないとだめだと思ったんだ。


 カズラの言う通り、俺が代役で渡して言うだけでもいいかもしれない。

 でも、カズラも母親も会うことを望んでいる。

 一目だけ、一言だけを望んで望んで望んだ結果が、今なんだ。


 だから、カズラの提案通りでも物語は終わるかもしれない。

 でもそれは、結局のところバッドエンドだ。

 俺が何かしたってハッピーにもグッドにもならないけど、バッドエンドにはさせたくない。

 そんなのいらない。


 その為には、俺が一時的にでも本当に「カズラ」になるべきだと思ったんだ。


 カズラは俺の2度目の提案に、さっきよりも大きく目を見開かせ、一瞬の間の後に聞き返す。

『……いいの?』

「いいから言ってんだよ。そりゃ、俺は死にたくないし自分の体をお前にやるつもりもないから、あくまで貸すだけだけど、それでお前がいいなら、いいさ」


 俺の返答に、カズラは少しだけおかしげに笑った。

『変なおにーさん』

 何か失礼な感想を言われたけど、そんなの気にならないくらいに10歳らしい笑顔だった。


『……うん、大丈夫。おにーさんの体、横取りなんかしないよ。怖いおねーさんがいるし。

 だから、絶対にちゃんと返すから、貸してください。俺、ちゃんと自分の口でお母さんに言いたい』

 昼間にここに特攻してきた羽柴が予想外に良い働きをして、カズラは俺の体を必ず返すと約束し、俺の差し出した手に自分の手を重ねようとした。


「ずるい」



 * * *



 大きな泡がはじけるような音の直後、濁った声音が言う。

 いつしかあたりを這い回らなくなっていたせいで忘れかけていた存在を、思い出す。


 虫たちが俺たちを囲んでた。

 羽柴のご利益で目くらましできてたのが、カズラと会話したことでどうも認識されてしまったようだ。


 発音は不明瞭なくせに、やたらと低く響く声にカズラは怯えた顔をして伸ばした手をひっこめた。

 そんなカズラを、虫たちは睨み付ける。

 カズラの母親が呼び出した、希望のふりをした絶望。欲望の塊。生きていた頃は人であったとしか言えない、何か。「よくないもの」が、水死体の顔をした虫どもが、カズラを睨み付けて、呪詛を吐き出す。


「どおじでおまえが」

「わだじもぼじい」

「がらだがぼじい」

「ぼじい」「ぼじい」「ぼじい」「ぼじい」「ぼじい」


 身勝手な欲望を繰り返す虫たちが、唐突に結論を見つけた。

 水死体の顔が醜く笑う。


「あれどいっじょになれば、ぞのがらだ、ぐれる?」


 混ざった絵の具から元の色だけを取り出すことはできない。たとえ善人同士でも、まったくの別人の魂が複数混ざったら、それは害悪にしかならない、「よくないもの」

 羽柴が言っていたことが、脳裏に駆け巡る。


 虫が、カズラに向かって襲い掛かった。

 同時に、叫んでた。


「××!! 俺じゃなくて、カズラを守って!!」

 自分の守護霊に、俺じゃなくてカズラを守れと叫んだ。

 誰かの名前を叫んだ気がしたけど、とっさだったから思い出せない。もしかしたら、名前を叫んだことすら気のせいかもしれない。


 俺から近かった2匹は、カズラに体に飛びかかる前にとっさに踏みつぶしたけれど、3匹がカズラの体にしがみついた。

 けど、それら俺やカズラが何かする前に全部、バシッといい音がして床に落ちる。

 1匹、何で自分が落ちたのかわからない顔をしている虫をまた、俺は踏みつぶしたけど、残った2匹には逃げられた。暗くて雑多なこの部屋では、もう見つけることは不可能だ。


 カズラは展開の速さについて行けないで、何が起こったかわからないという顔で固まっている。

 そんなカズラに、本来なら同い年だけど今は年上だから、俺が指示を飛ばす。


「カズラ! お前は渡したいものを持ってこい! 虫は俺が引き付ける!

 聞いたかクソ虫! 今なら俺の方がノーガードだ!! 生き返りたいのなら、俺の体が欲しいのなら、俺の方に来い!!」


 さっきので、守護霊が俺の馬鹿な頼み事は聞いてくれたこと、そんでこの虫には羽柴じゃなくても物理攻撃が有効なことはわかった。

 なら、カズラに渡したいものを持ってきてもらう間に、俺が囮になる!


 カズラは少し迷った様子を見せたけど、俺が「早くしろ!」とせかしたら、走ってその辺の家具をすり抜けて行った。

 かすかに聞こえるカリカリガサガサと虫の蠢く音はカズラを追っていないことに安堵して、俺は床や家具の合間に目をやる。


 口の中に入ろうとしてるから、口を押えてたら少しはマシかとも思ったけど、それやってターゲットをまたカズラに変更させられたら困るから、歯を食いしばるだけにとどめる。

 守護霊が今もカズラを守ってるのか、それともあの瞬間だけでもうすでに俺に戻ってるのかすら俺にはわかんねーから、余計なまねはしない方がいいだろう。


 それにしても、同じ幽霊のカズラも俺の守護霊に守られたってことに気付いてなかったみたいだな。本当に俺には何が憑いてるんだよ。

 俺にも羽柴にも、同じ幽霊にも見えないって、マジで何なの、俺の守護霊。


 そんな緊張感ないこと考えてた隙に、背中に虫が1匹ぴょんと飛びかかってきた。

「うわっ!」

 さほど重さはないので、転んだりはしなかったけど、虫の這いまわる感触の気色悪さに思わず悲鳴が上がるし、寒気も走る。


 お寺で借りたTシャツを這って、首筋まで登ってきた時に叩き落としたのは、口に入られたらやばいという理由は頭から吹っ飛んでて、完全に反射だった。

 叩き落としたそれを、また思いっきり踏み潰す。もう羽柴の除霊に文句言えなくなってることをやらかしてるなとか思いながら、最後に残った1匹を探していたら、「ぢょうだい」と声がした。


 声がしたから、叩き落とした時と同じく完全に反射で見上げてしまった。

 声がした方向は、天井だった。


 俺が見上げた瞬間、ブクブクと浮腫んだ水死体の顔をした虫が天井から俺の顔めがけて、降ってきた。

 悲鳴は出なかった。とっさに開いた口に、その虫は足を顔を体をねじ込んだから。


 口にそう簡単に入るような大きさじゃなかったのに、それはするりと、液状化でもしたように俺の口に潜り込み、喉を、そして喉から逆流して鼻を、気管全体を塞ぐ。


 塩っ辛い味が口全体に広がり、喉を焼く。鼻から脳天にかけて鋭い痛みが走る。

 陸上で海に溺れながら、俺は意識を手放した。



 * * *



 ちゃぷり、ちゃぷりと、水音が心地よいリズムを刻んで聞こえる。

 ユラユラと揺れて、揺蕩う感覚が懐かしくて気持ちいい。


 周りの水は熱くも冷たくもない。

 俺の体温と同じか少しだけ高いくらい、一番気持ち良い温度の水の中で俺は体の力を抜き、波に身を任せる。

 水の中だというのに、息苦しいなんてことはない。


 何もかもが心地よくて、安心する。

 ずっとここにいたいと思う。そんな場所だ。


 ずっとここにいてしまえばいいと、誰かが言う。

 男にも女にも老人にも子供にも聞こえる、雑多で曖昧で濁った不明瞭な声が言う。


 その声の通りにしたいと思ったのは、本当。

 でも、それっはダメだと俺自身が叫んだ。

 何故、ダメなのかは思い出せない。でも、ダメなんだ。どうしてもダメなんだ。


 ここにいちゃいけない、しなくちゃいけないことがある、それはわかってるのに、いちゃいけない理由が、しなくちゃいけないことが分からない。思い出せない。


 重い体を動かす。手を伸ばす。

 この水の中は、この海は懐かしくて心地よくて安心できてずっとここにいたいところだけど、それでも俺はこの海から上がらなくちゃいけない。

 だから、体以上に重い瞼をこじ開けて、固まった関節を軋ませながらも手を伸ばす。


 その手を、誰かが取った。


「何してんのよ! この大バカ!!」


 初めて聞くはずなのに良く知ってる声が、叱責する。

 あぁ、この声を俺は知っている。

 思い出せないけどずっと忘れられずに覚えてた。


「あんたの世界はこっち側じゃないって、何度も何度も何度もれんげちゃんに言われてたでしょうが!!

 お人好しなのも学習しないのも、本当にいい加減にしろ!! この底抜けお人好しの大マヌケ!!」


 姿は良く見えない。

 俺と同い年くらいの女の子であることしかわからない。


 でも、知ってる。見えなくたって、知ってる。

 だって、ずっと一緒にいたから。

 ずっと一緒が当たり前で、離れることがないと信じて疑わなかった。


 手を伸ばせばすぐに届いた、欠けることのない片割れ。


「あんたの頼み事の通り、守ってやったんだから、あんたはさっさとあっち側に戻って、自分の言ったことの責任を取りなさい!!

 お母さんとお父さんに、カズラの両親みたいな想いをさせるなんて、絶対絶対ぜぇぇーっったい、許さないんだからね!!」


 そう怒鳴り散らして、俺の両手を掴んで「彼女」は俺を引き上げる。


「××!!」


 水から上がる前、確かに俺は名前を呼んだ。

 カズラを守ってと頼んだ時と、同じ名前を。


 目覚めた時には思い出せないことを知っていたからこそ、叫んだ。


 最後に見た彼女は、笑っていた。

 困ったように眉をハの字にして、けれど確かに嬉しそうに。


 そのことすら、俺はもう思い出せない。



 * * *



「げほっ!! おえっ!! うえっほ!!」


 磯臭い腐臭をまき散らす液体を吐き出す。その匂いでさらに吐き気がひどくなるけど、もう出てくるものは胃液しかなかった。


 目の前にはカズラが泣きそうな顔をして、俺の背中をさすっていた。

「……あー、大丈夫。もー大丈夫だから、心配すんな」

 本当は色々と大丈夫じゃねーけど、とりあえず口に入ったあれはどうやら吐き出して何とかなったらしい。

 カズラがいるってことは、守護霊が戻ってきて俺を助けてくれたのかな?


 カズラはまだ俺を心配してたけど、俺が大丈夫だからと言い張って、そして持ってきたものを確認する。

 カズラが大事そうに抱えていたのは、算数のノート。小テストかなんかをノートに張り付けてあるのか、妙にページがくしゃくしゃで分厚い。


「それか?」

 少し意外そうに俺が尋ねたら、カズラは少しだけ笑ってノートを開く。

 そして、ノートの間から出てきたものと、書かれていたものを見て、納得した。


 それが、お前が5月の第2日曜日に渡すはずだった、お前の残した心か。


「渡してやれ。絶対に、喜ぶ」

『――うん』


 嬉しげに笑ったカズラと俺の手が合わさった。

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