拾・その目は深淵を見透かす眼、その身は深淵を超える躰
安心できたことが一つ。
寺についさっき、雪村先生から電話でオカ研メンバーは無事、この町から離れて地元に帰ったという連絡がきた。
俺たちは自分の荷物も持たずにここに来たから、先生がスマホでこの寺の連絡先を調べて連絡をしてくれたそうだ。
……今のご時世なら出来て当たり前なんだろうけど、ネットで連絡先が分かる寺ってなんかやだなぁ。
まぁ、俺の個人的感想は置いといて、とりあえず他の人たちの無事は確認できた。俺らの荷物も、雪村先生が預かっているんなら安心だ。
ついでに、そして実はこの寺に着いた時から頼みたかったけど、空気的に言えなかった「服貸してください」もさっき言えたし、Tシャツも借りた。
良かった。これで俺の存在そのものが空気ブレイカーにならなくて済む。
不安は二つ。
一つは、空はだいぶ赤くなっている。たぶん、あと一時間足らずで日は沈むこと。
あの虫は光に弱いからといって夜に強くなるとは限らないけど、そんな根拠のないポジティブは紐なしバンジーをやらかすようなものだ。誰も期待していない。
もう一つは、先ほどカズラの伯父が自分の弟、俺たちを逃がしたカズラの父親にカズラの母親は今、どうしてるかを尋ねようと電話をしたけど、いくらかけても電話を全く取らないこと。
……まさか自分の旦那に何かやらかすことはないと思いたいけど、あの狂気っぷりならありえる。
時間はもうない。
夜が明けるまで待っていた方が、俺たちにとって都合がいいのはわかってる。
でも、俺たちが助かる為じゃなくって悲劇を終わらせる為なら今、動かなくちゃいけない。
「行こう。ソーキさん」
今すぐにでも戦えると言わんばかりに、木刀を持った羽柴が言う。
あぁ。行こう。
鬼女にして、聖母。
鬼子母神の聖域へ。
* * *
住職さんが運転する車に乗せてもらって、俺と羽柴はまた海水浴場に戻る。
車の中には、俺たちと住職さんだけ。
カズラの伯父や他の坊さんたちも来ようとしたけど、羽柴の情け容赦ない「邪魔」の一言で留守番決定。
意外に、反論はなかった。
本音では怖いから行きたくなかったのか、つい半年前まで小学生だった思えない(小学生の頃からこんなんだけど)羽柴の迫力と貫録に負けたのかは、微妙なところ。
たださすがに徒歩で行くには時間がかかるし、土地勘がないから確実に迷うので車で連れていってほしいと羽柴が頼み、それならカズラの父に頼まれて何度か直接見たのにあの虫がどういうものかをきちんと認識できていなかったことに責任を感じたのか、住職さんが志願して今の何とも気まずいドライブに至る。
「……カズラくんは……」
俺が心の中で謝っていたら、住職さんがポツリと呟くように言った。
「……君を呼んだのが本当にカズラくんなら……、そして、お嬢さんの推測が当たっているのなら、どうしてカズラくんは犯人の事を何も言わなかったんだろうな?」
俺や羽柴の言ったことを疑うような言葉だけど、その口調は疑いより素で疑問のニュアンス。
……そう。
カズラは言わなかった。
俺が聞いた声は、ただひたすらに母親を求める泣き声。
犯人に対する恨みごとはもちろん、自分が殺されたという事を訴えもしなかった。
数十秒の沈黙の後、車の窓ガラスに頭をこつんともたれかからせた羽柴が、淡々と答えた。
「殺された恨みを晴らしたい、犯人を告発したいという理由で霊になるのなら、よっぽど霊感がないか神経が図太くない限り、たいていの殺人犯は自首するか呪い殺されます」
かなり身もふたもない話に、俺たちは何も言えなくなる。
身もふたもない話だったけど、俺や住職さんはそれで終わりの結論だと思ったけど、羽柴の話は続いた。
「この世とあの世の境界なんて、人が思うほど遠くもない。しようと思えば誰でも簡単に行き来できる、薄皮一枚で区切られたものですけど、それでも世界がやはり違うのだから行き来はそれなりに容易くできても、そこに長時間とどまるのは難しいものです。多分、空気の薄いところに慣れないままずっといるようなものじゃないでしょうか?
復讐なんて、生きて未来があるからこそ過去の傷に煩わされるのが嫌で行うこと。未来もなく、ただそこにいるだけで苦しいところにいながらも、復讐したいと思い続けられる人は稀です」
窓ガラスに頭をもたれかからせたまま、羽柴は横目で外を見ている。
見てきたかのように、あの世とこの世の境界は薄く、浅いと語る。
実際、羽柴には見えるのだろう。
生きている俺たちの世界のすぐ隣に存在する、油断すると霊感あるなし関係なく落っこちてもおかしくない、「世界の境界」が。
どこかを、何かを見ているようで、何も見ていないような目で、羽柴は言葉を続ける。
「だから、自分を殺した犯人を告発したいとか、復讐したいと思うある意味で理性的な霊は少数派です。
息苦しい世界でも執着して居座る彼らに、犯人という特定の個人だけを狙う理性があると思いますか?
たいてい、一つの欲望や目的、感情そのものになって、苦しいと思うことすら忘れた存在なんですよ。
そして理性を残した上でこの世にとどまるのなら、復讐の無意味さも理解できるはずです。だから、わざわざ犯人を告発したり、自分で復讐する霊は少ないんですよ。
……復讐よりも、心に残っていること。もう自分に未来がないと分かっていても、それでもしておきたい何かがある人が、留まるんですよ。たとえ陸の上で溺れるような苦痛に苛まれても」
……理解できそうでよくわからない理屈だった。
もしかしたら、それは羽柴が見て感じた勝手な解釈だったのかもしれない。
でも、そういうことは別にどうでもいい、本当か嘘かなんて確かめる必要もない話だと気付く。
カズラの声を、言葉を思い出せばわかる。
羽柴の解釈が正しかろうが間違っていようが、俺が聞いたあの声が本当ならば、そこに「カズラが犯人を告発も復讐もしない理由」なんてどうでもいい。
住職さんは、無言で車を止めた。
俺たちは「ありがとうございます」と礼を言い、羽柴は礼の後に「車からは出ないでください」と指示して、車から降りる。
そして、歩く。
日はもう沈んだ。
あの虫を部屋に閉じ込めてた光はもうない。
それでも、俺たちは行く。
カズラの望みはただ一つ。
「お母さんに、会いたい」
それだけがこの世界に未だ残り、そして残す心。
その残された心を、見つけてやらなくちゃいけない。
* * *
日が沈んだとはいえ、まだ8時にもなっていない。比較的早い時間だというのに、浜辺には人がいない。
キャンプやBBQは禁止だけど、花火はゴミの注意があるだけで禁止してなかった浜辺で、しかも心霊スポットとして少し有名になっているのなら夜でもそれなりに人がいてもおかしくないのに、俺たち以外に「生きた」人間がいない。
いるのは、互いを意識も認識もせずただ蠢くように歩き回る死霊。
青紫色の肌に、ブクブクと膨らんだ体。焦点が合ってないどころか黒目がどっかいってる濁った眼に、水の中で発音するような声。
人がいないのは当たり前。
霊感のない人でも、本能は教える。
ここに生きた人間がいてはいけない。
ここはもはや、この世じゃないことを。
「もうここは、彼岸と言ってもいいね」
海の死者に埋め尽くされた浜辺を見ても、羽柴はやっぱりいつもと変わらず淡々と呟く。
「行こう、ソーキさん。ここにいるやつらは、儀式の影響で訳もわからずこちらに引きずりこまれただけで、何も望んでない。無視している限り無害よ」
そう言って、羽柴は俺の手を取って走り出す。
ゾンビのように徘徊する霊たちをすり抜けて、海の家まで行く。
カズラの親の海の家はもちろん、他にも数件あった海の家もすべて閉まって誰もいない。
ただ、ガザガザとした物音だけが聞こえる。
――あぁ。
やっぱり、出てきた。
「ソーキさん」
羽柴は、木刀を構えて見すえる。
あの窓も塞がれた2階じゃ良く見えなかった姿が月と星あかり、そして街燈で照らされて、夜なのによく見える。
子猫ぐらいの大きさの、蜘蛛に似た形状、そして水死体の顔の虫。
もはや人としての全てを失った、「よくないもの」を。
「お寺で言ったように、私がこいつらを引き付ける。だから、ソーキさんは2階に……!」
羽柴の言葉は途中で切れた。
俺も、海の家の裏手から出てきた人物を見て、目を剥く。
ふらりと、おぼつかない足取りで二人、出てきた。
一人はごつい体格のおっさん。もう一人は、細くて病弱そうと思えるおばさん。
……カズラの両親だ。
二人は浜辺でうろつく霊たちのように、頼りない足取りで店の裏手から出てきながら、こちらに顔を向けて笑った。
俺を見て、笑って言った。
「カズラ」と。
* * *
母親の方は予想していたけど、父親の笑顔と言葉に俺は固まる。
おっさんは顔にひっかき傷や殴られた痕がある。俺たちを逃がそうとして、正気を失い狂気のままに暴れてた妻を抑え込んでできた傷だろう。
そこまでして俺たちをかばってくれていた、カズラの死を現実だと受け入れていたというのに、今、父親は母親と同じ目をしている。
ギラギラと輝くと同時に暗く淀んだ眼。
現実を見失い、自分が望んだものだけしか見えていない、狂気に染まった2対の目が俺をとらえて、幸せそうに狂った笑みを浮かべて呼びかける。
「カズラ。おかえり」
「木乃伊取りが木乃伊、か」
ポツリと、羽柴は呟いて俺の前に出る。
二人の顔が同時に歪み、周囲に蠢く虫がザワザワと声をあげる。
「じゃま」「じゃま」「じゃま」「じゃま」「じゃま」
「うるさい」
人の面影は水死体の顔しかない虫に羽柴はそう一蹴して、片足をブンと振った。
振ったと同時になんかが勢いよく吹っ飛んでいったと思ったら、虫の1匹にそれが命中して、また黒板をひっかくような不協和音をあげた。
え? 何? 何したの? と思ってよく見てみたら、何かが命中した虫のところには、小さなサンダルが一つ転がり、羽柴の片足は裸足になっていた。
……どんな勢いで靴を投げ飛ばしたんすか、羽柴さん。
なんかこうやって靴だか下駄だかを飛ばして妖怪やお化けを倒すキャラクターがいたことを、場違いながら思い出す。
それと同時に、俺を金縛りにさせていた恐怖や緊張がほぐれて解けた。
「ソーキさん」
羽柴はまだサンダルを履いているもう片足を浮かせて、俺に言う。
「役割分担に変化はなし。
私が引き付けるから、ソーキさんは見つけてあげて」
迷いなく、いつもと変わらない淡々とした声音で言われた。
だから俺も、迷いを消す。
大丈夫。いつも通りだ。
羽柴はいつもと同じ、手段が物理一辺倒だけど心配のいらないチートだ。
だから、俺はやるべきことをやれ。
せっかく、羽柴が頼ってくれたんだ。
いつもと違うのはこれだけだと、俺は言い聞かせて足に力を入れる。
いつでも走り出して、あの2階に行けるように、構えた。
おばさんの方は羽柴を親の仇……いや違うか。
羽柴をカズラの仇のように睨み付けるけど、おっさんの方は若干顔が引きつってた。どう見ても、ドン引いてるな、あれ。
おっさんの方はまだおばさんほどイっちゃってなさそうなことに少し安心しつつ、俺が走り出すタイミングを見計らってると、羽柴が急にポニーテイルにまとめていた髪を下ろした。
「ソーキさん。これ、腕にでもつけてて」
そう言って、俺の方を振り向かずに俺に渡した。
それは俺が数年前に誕生日プレゼントであげた、トンボ玉のついたヘアゴム。
「もう一回、サンダルを蹴り飛ばしてぶつけるから、その隙にそれをつけて2階に行って。
私が良く身に着けてる物だから、少しの間はあの二人や蟲どもの目を眩ませるはずだから」
どういう理屈かはわからんけど、正直下手な神社や寺のお守りより羽柴の身に着けてたものの方がご利益がありそうなので、納得する。
つーか、個人的に神社のお守りよりも羽柴の私物の方が俺の心情的にも嬉しい。
……変態か、俺は。
「うん。ありがとう、羽柴」
とりあえず俺は、最後の心情だけは悟られないように願いながら礼を言ってヘアゴムを受け取り、それを手首に通す。
ちらりと、羽柴がそれを確認するように後ろを向いた。
向こうがいつ何をやらかすかわからない状況なので、羽柴が俺の方を向いたのはほんのわずかで、首もほとんど動かさず、目だけをこちらに向けたと言った方が正確なくらいだった。
それでも確かに見えた羽柴の目は、いつもと変わらない深さだった。
変な表現だけど、羽柴の目を言い表すのに一番ぴったりなのは「深い」だ。
羽柴の目は俺らの背後の夜の海のように、どこまでも暗く、黒いのに透明感があるというか、何もかも透き通ってすり抜けるような、深い瞳をしてる。
その深海のような、深淵のような羽柴の目が、一人に向けられる。
水死体の顔を持つ虫でも、まだこちら側に近いけれど狂気に呑まれてしまった父親でもなく、とっくの昔に起こった悲劇を終わらせることが出来ずに、母親だったからこそ人を辞めてしまった人だけを羽柴は見ている。
本来、羽柴に向けるのはお門違いにも程がある憎悪の視線をものともせず、むしろそれを受け止めるように、その憎悪も見透かすように、まっすぐ見ている。
そのまっすぐな目に見られて、母親は小さく肩を震わせた。
羽柴と同じくまっすぐに見返して、睨み付けていた瞳がユラユラと揺れる。
歯をカタカタと鳴らして、絞り出すように彼女は言った。
「……見るな。
見るな見るな見るな見るな見るなあああぁぁぁぁぁぁぁ!!
ぞのめでわだじをみるなぁぁぁぁ!!」
泡のはじけるような音と同時に、母親の声音が変化した。
言葉全てに濁音がついているような、不明瞭な発音。水の中でしゃべるような声。
水死体の言葉を吐き出すと同時に、虫と父親がこちらに向かってきた。
羽柴は無言で、もう一回足をさっきよりも勢いよく振ってと言うか蹴りだして、サンダルを投げ飛ばした。
そのサンダルは父親の鼻にまっすぐ飛んでいって、綺麗に命中する。
おっさんが後ろに倒れそうになり、たたらを踏んでる隙に俺は駆け出す。
虫とおっさんの横を通り過ぎたのに、羽柴の言う通り羽柴のヘアゴムが目くらましになっているのか、どちらも俺に見向きもせずに、羽柴の方に向かって行く。
……おっさんの方は、鼻の痛みでそれどころじゃなかっただけかもしんないけど。
それはまぁ置いといて、最大の難関であるおばさんの方を見てみると、おばさんは両手で顔を覆ってカタカタ震えながら俯いている。
これなら羽柴のご利益あるなし関係なく、気付かずにいけると思った俺は甘かった。
* * *
ダッシュでおばさんの横を通り過ぎた瞬間。
「カズくん?」
悲しげな、痛みに耐えるように何かを願うような、悲痛な母親の声と。
「ぢょうだい」
水底から泡立つように濁った、もはや呪いと化した欲望と願望の声が同時に聞こえた。
声の主が、俺の肩を掴む。
羽柴のご利益さえも無効化して、俺を認識して俺を捉えた、俺じゃない誰かを求めている人は言う。
「カズくん、ごめんなさい、ごめんなさい。お願いだから、帰ってきて」
「ぼじい。ぢょうだい。ぞのがらだをぢょうだい。いぎがえりだい。じにだくない」
振り返って、盛大に後悔した。
おばさんの顔が二分されていた。
顔半分が別人の顔になっているのではなく、不自然というレベルを突き抜けて右と左で表情が違う。
右はボロボロと涙をこぼしながら我が子の帰りを誰かに訴え続ける、狂的でありながらも人をやめても母親そのものの顔だけど、左はニヤニヤと媚びるように、嘲るように嗤う何かの顔。
もう母親であることすらやめた、かろうじて人の言葉は話すけど人としての理性や知性なんか見当たらない、欲望がそのままむき出しな何か。
母親から、母親の体の中から、ガザガザとうごめく音が聞こえる。
儀式のやり方が間違えていたからか、それとも手あたり次第に呼び出しまくったせいか、母親はいつからか狂気だけではなく、別の何かにも侵されていた。
「よくないもの」は、彼女の体と精神の大半を乗っ取りながらも、それでも別の誰かを、犠牲を、身代わりを、俺を求めていた。
振り払おうにも俺の肩を掴む手は片手なのに、異様な力で骨がミシミシと軋み、短い悲鳴を情けなく上げるしかできなかった。
「カズくん、お願いだから帰ってきて」
「がわりにじんで。わだじのだめにじんで」
二重の狂気の声と、もう片方の手が俺の首にゆっくりといたぶるように迫る。
痛みにうめきながら、俺が必死で肩に掴む手を引き離そうと四苦八苦していると……
「ソーキさんに触るな!!」
羽柴の怒声と同時に、何かが風を切る音、ごぐちゃ!という外側は少し硬いけど内側は柔らかかったものが潰れるような音、黒板をひっかくような高い音と言う順番で聞こえて、最後に聞こえた音は壁にバケツの水を力いっぱい叩き付けるように浴びせたような音だった。
おばさんの背中からそんな音が聞こえて、二重の声が同時に「ごふっ!」とか言って、おばさんは俺から手を放してその場に膝をつく。
わずかに俺にもかかったべちゃりと気持ち悪い感触の液体と、潮と腐ったものが混ざったような匂いに覚えはあった。
……羽柴、虫を何匹か木刀でホームラン、もしくはホールインワンな勢いでおばさんめがけて打ったな。
もちろん、そのことを確かめたり突っ込んだりしてる暇はない。
羽柴もおっさんのみぞおちに前蹴りをかまし、虫を木刀で叩き落としながら俺に「早く! 行って!!」と叫んで、先を促す。
俺は「ごめん!」と一言謝って、肩を押さえながら走った。
羽柴がその後も引きつけてくれたのかおばさんは追って来ず、俺は2階に上がって扉の前で一息をつきながら、閉まっている扉のドアノブをつかんでそれを回そうとした時、気付く。
部屋の中で、何かが這い回っていること。
虫は全部は外に出ていない。
何匹かまだ、この部屋の中に残っている。
漠然と虫は全部外に出たと思い込んでいた。
どうする? 戻って羽柴の指示を仰ぐか? せっかくここまで来れたのに? 羽柴を囮にさせといて、のこのこ戻んのかよ?
羽柴なら、俺が無理をする方が嫌がる。俺の勝手な甘い判断で、大丈夫だろうと思って事態を悪化させたことは何度目だ?
戻れ。俺の甘い考えとくだらないプライドで羽柴を余計に危ない目に遭わせたり、悲しませたりするな。
……俺はそう叫ぶ自分の声に従って、戻るべきだったと思う。
でも――
「ソーキさん。お願い。」
「お母さんに、会いたい」
その二つの声に、俺は応えたかった。
「ごめん。絶対にすぐに見つけだすから、またしばらく守ってくれ」
俺は自分にも羽柴にも誰にも見えない、けれど確かに存在してる俺の守護霊に無茶な頼みごとをして、入る。
異界に。聖域に。簡単に越えられるけど、越えてはいけない深淵を超える。
羽柴が言うほど、息苦しくないなと場違いなことを一瞬、考えた。
「怪物と戦う者は、自らが怪物にならぬよう心せよ。
汝が深淵を覗くとき、深淵もまた等しく汝を見返すだろう」
出典『善悪の彼岸』 フリードリヒ・ニーチェ著




