二枚のコイン。
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でも、私は兄貴が画力で足を引っ張るとは思わない。
スランプには入った。けれど、くしゃくしゃな絵を見ても、絵が下手な私からしたら高望みし過ぎな気がしたくらいの完成度だった。
それが、スランプを抜け出すとより良くなった。
抜け出すきっかけとなったのは、やっぱりと言うべきなのか由紀姉ちゃん。
何をしているんだろうと思って兄貴の部屋を覗いたら、一緒の布団でぐっすり寝ていて驚いた。しかも抱き合ってたし……。
次の日の朝には兄貴の隈はすっきり消えていて。由紀姉ちゃんが加わって食べた朝ご飯は、私がいつも通り作ったのに、いつもの何倍も美味しかった。
由紀姉ちゃんはそれから、ずっと泊りがけだった。私の服は由紀姉ちゃんにぴったりで、本当に年上なのかと疑う。
まあ、それは置いておいて。
兄貴は今頃、由紀姉ちゃんと頑張っているのかな?
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「ま、まあそんな子もいるよ! ほら、ピアノのお稽古終ったらきてくれてるって言ってたし!」
俺の顔があまりにも死にかけだったのか、由紀が必死に慰めてくれる。
でもさ、由紀。
「ほら、男の子が嫌いな子もいるしね!!」
執事さん(仮)がさあ、「こんな不潔そうな輩の近くに行かないで下さい!」って言ってたんだけど。
俺、そんなに不潔そうに見える……?
心はどんどん沈んでいく。
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終わるのは、冬で日が短いのもあって午後四時。約五時間。
兄貴が売るのは僅か五冊。けれど印刷じゃなく、全部手描き。この点はかなり大きいのではと私は思う。
有名な人は何十冊と売るらしいけれど、それは印刷。兄貴が売るのは手描き。質感が違う。まあ、お客さんはちびっ子だけれど、お母さんやお父さんが気に入って買うケースもあるかもしれないことを考えると、印刷より手描きの方が印象には残りやすい。
何より、兄貴の絵は印刷より生の方がより一層引き立つ。それは、クレパスで描いて絵の具で塗っているからかもしれないけれど。
でも、兄貴の絵本はきっと売れる。私はそう信じて、英語の長文をまた解き始めた。
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☆ ☆ ☆
ふわ、ふわ、ふわ……。
そうじきの かぜに のって、ゆきちゃんの つくえに とうちゃくです。
「あら、ほこりくん」
ゆきちゃんの つくえには かわいらしい りぼんを つけた、ほこりちゃんが いました。
「やあ、ほこりちゃん。きょうは ここで ひなたぼっこ?」
ほこりくんは いつも ほこりちゃんが ゆきちゃんの つくえで ひなたぼっこを しているのを しっていました。
「ええ、そうよ。ほこりくんは なにを しにきたの?」
「ぼくは、おかあさんに いとを とってくるように たのまれたんだ」
「そうなの。いとおばあちゃんは さっき、ぴあのの うえで ねてたよ」
ほこりちゃんは ぴあのの ほうを ゆびで さします。
「ありがとう、ほこりちゃん。いってくるね」
ほこりくんが てを ふると、ほこりちゃんは ふりかえして くれました。
☆ ☆ ☆
「うーん、お客さんこないねー」
由紀が足を伸ばして、ぐてーとする。広げてある絵本は華麗に避けているけれど。
時間は午後三時。見てくれる子やお母さんお父さんはいるが、買ってくれる人は現れない。
こんなに時間が経つと、「自分の絵本は売れないのではないか」と言う焦りが隠せなくなってきた。おまけに、ピークがお昼過ぎてすぐだったのか、人もだんだん減ってきている。
「あ、私が読み聴かせしよっか! 暇だし!」
「最後の一言が余計だった気がするけれど、頼む」
それ、売れてないってことだから。傷つくぜ? 俺だって!
けれど由紀の提案は嬉しい。由紀の呼びかけで結構の人が振り向いたりしている。読み聴かせでもしたら、もう少し立ち止まってくれる人も増えるかもしれない。
由紀はいわゆる女の子座りをして、絵本が見えるようにお客さんがいる方へ向ける。
「『ふわ、ふわり』。ふわ、ふわ……。 あらら? ほこりくんが ゆきちゃんの おかあさんが つかっている――」
うん、なんだ。
自分がつくった物語を目の前で読まれる程、恥ずかしいことないよな!
「おねーちゃん」
俺が綾○を飲んでいると、いつの間にか男の子が由紀の前に立っていた。
「お、君は絵本好き?」
短パンに長袖のTシャツとシンプルな格好の男の子。小学一年生くらいだろうか。頬がつやつやだ。
「……うん、すきだとおもう」
少しテンポが遅い子だ。なんだか、他の子と違う雰囲気を持っている。
「おねーちゃん、それさいしょからよんで」
表情を変えない。一人目にきた子とは正反対だ。
「うん、いいよ」
由紀はパタンと絵本を閉じ、また最初から読み始める。
「『ふわ、ふわり』。あらら? ほこりくんが――」
男の子はそれを一生懸命見ている。寒さ対策か、短パンの下にタイツを履いていて、耳当てを首からさげている。
と言うか、耳当てなんてしてる子初めて見たな。
物語は「ほこりくんがお母さんに、いとをもらってくるように頼まれて、いとおばあちゃんを探しに出かける」、と言うもの。数々の登場人物にいとおばあちゃんんの場所を聞くが、いとおばあちゃんはそこにはいない。そして、お母さんのところで雑談していると言うオチ。
単純にすると面白くないが、いとおばあちゃんはページごとにちらちら出ている。かなりよく見ないとわからないけれど。
「絵本は絵が主体。だから、話はそれほど凝ったものじゃなくてもいいんじゃないかな?」
妹はそう言って俺をいつも励ましてくれていた。まあ、凝ったものを書けないと言うのもあるだろうけれど。
「――こうして、ほこりくんは いとおばさんを みつけることが できました。おしまい!」
ぼやーっとしていると絵本が終ったようだ。表紙を合わせて全三十二ページ。それほど文字も多くないし、読みきるのは早いだろう。
男の子は閉じた絵本をじっと見ている。その視線は「じー」と言う効果音が似合うくらいだ。
「……おねーちゃん。それ、ちょうだい」
男の子はポケットから百円玉を二枚出した。お母さんからにでももらったのだろう。
「いいよ! でも、描いたのはそっちのお兄ちゃんだから、お兄ちゃんに渡してあげて」
由紀がそう言うと男の子は立ち上がり、俺の目の前にお金を差し出してきた。
小さな手には二枚のコインが握られている。
「あ、ありがとう……」
手を出すと、男の子はコインを俺の手に置く。
冷たい、冷たい二枚のコインを握り締めてみると、当たり前ではあるけれど、硬かった。
「はい。渡してあげて?」
由紀が、冬にひっそりと咲く花のように柔らかい笑みを浮かべていた。
今すぐ抱きしめたい。
そう思ったが、公衆の前でそんなことできるはずがない。俺は絵本を受け取り、男の子に渡した。
「……ありがとう」
にこっと、男の子は笑ってくれた。それまで無表情だったから、その笑顔がとても特別なものに見えた。
何と言うか、ひまわりとかそこまでの笑顔じゃなくて、チューリップみたいな……?
あー。
こんなの見たら、また書きたくなる。
もう一度、あの笑顔を見たくなる。
「ゆう。帰るよー」
お母さんだろうか。男の子は絵本を抱えて、その人にに抱きついた。その人は男の子が笑顔なのに驚いた顔をして、こちらを見た。そして、会釈をして手を繋いで会場の出口へ歩いていった。
「良かったね」
「ああ」
由紀に生返事をしてしまった。
次、最終回。