隙間女の慕情
私は日本という国に生まれ、平凡な家庭のもとで育った女です。
子供の時分から控えめで、目立つことを好まなかった私は、いつも日陰者として過ごしていました。
花の顔とは程遠く、さらに引っ込み事案な私には、色恋沙汰などという素敵なものが訪れたことなどありません。
小中高と冴えない青春時代を送り、“嗚呼、私は生涯、無花果のように花のない生活を送ることになるのだわ。”と何度嘆いたことでしょう。
けれど神様は、こんな私にチャンスを与えてくれました。
合コンという大変輝かしいイベントに、初めて参加することになったのです。
もちろん私は数合わせとして馳せ参じたのですが、そんなあんまりな理由など忘れてしまうような出会いをしてしまったのです。
その殿方は、飛鷹彰典という方です。
名は体を表すとはよく言ったもの。その方は空を飛ぶ鷹のような雄々しさと、典雅な性格を併せ持つ素晴らしい男性でした。
もちろん、私の他に来ていた女性は、熱心に飛鷹さんの気を引こうとしていました。
しかし、飛鷹さんはなぜかそちらには目もくれず、場の雰囲気を壊さぬよう取り繕っていた私に声をかけたのです。
『目黒小兎子さん…でしたね。よかったら、これから僕とご一緒しませんか』
私は合コンの後、飛鷹さんと共に夜の街を歩きました。
胸の高鳴りを感じながら眺めた街の灯りの、なんと美しかったことでしょう!
二十年も恋人を持たなかった私のことです、飛鷹さんと過ごした時間は、それはそれは甘く素敵なものでした。
一仕切り街をうろつき、夜も更けてきた頃、飛鷹さんは親切に私を家まで送って下さり、携帯電話の番号とメールアドレスを教えて去ってゆきました。
それから私たちは頻繁に会うようになりました。
喫茶店でお茶したり、映画を見に行ったり、水族館に行ったり…。
いわゆるデートをしたのです。私のような無花果女がこんなに贅沢な思いをさせてもらえるなんて、この時ばかりに神様に感謝した時はありません。
飛鷹さんはとても優しく、朗らかな人です。
私を『小兎子』と呼ぶ声は上等なワインのように私を酔わせます。
手を繋いだり、抱擁したり、キスをする仕草まで映画俳優のように優雅で、私を恍惚の底に優しく突き落とすのです。
“彼はきっと砂糖菓子で出来ているのね。”
心底そう思いました。
あれほどまでに甘い魅力を持つ男性などそうそういるはずがありません。
やがて、彼の愛情をこの身にたっぷりと受け取った時、私は身も心も彼に夢中になってしまいました。
しかし、そんなおとぎ話のような日常にはやがて幕が降りました。
やはり神様は私に残酷だったのです。
私は幸せなお姫様から悲劇のヒロインに身を落とし、世にも哀れな女として彰典さんに飼い慣らされることと相成りました。
いったい何度彰典さんの家を訪れたことでしょう。
もはや数えるのも面倒になったぐらい、私と彰典さんは蜜月の関係でした。
いつものように彰典さんは甘い声で私を誘いました。
私は喜んでそれに応じます。
ベッドに腰かけた私を、彰典さんは優しく髪を撫でながら横たわらせました。
そして、その砂糖菓子のような声とは全く裏腹の冷たい刃で、私の喉をばっさりと切り裂いたのです。
悲鳴を上げる間もありませんでした。
瞬く間に私の体からは血と熱が失われ、私の人間としての生は終わりを告げられました。
けれども、私の鮮血にまみれ嬉しそうに笑う彰典さんを見ていると、なぜか痛みなど薄らいだものです。
彰典さんは別の部屋に行き、本棚と本棚の間に私を押し込みました。
壁に埋められなかっただけましというものです、私は本棚の隙間から、彼の顔をはっきりと見ることができました。
『ああ、やっぱり君は綺麗だね』
『僕のために死んでくれてありがとう』
『愛しているよ、小兎子』
その言葉の甘さ、上等さ、芳醇さ…。私は出るはずもない涙を流しそうになりました。
彼は隙間からはみ出る私の手に頬擦りしながら、こんなことをした理由を話しました。
愛する人を殺してみたかった、そして永遠に愛でていたかった、と。
なんということでしょう。彼は殺人者であると同時に、純粋に私を愛した方だったのです。
私にはもう、殺されたことへの未練も恨みもありませんでした。
それほどまでに私を愛してくれたことへの多大なる感謝と喜びだけが、死体となった私の原動力となりました。
彼はお勤めから帰ると、真っ先に私の所に来てくれます。
私の手の甲に愛おしげにキスをし、髪を撫で、頬をさすります。
この上なく嬉しいことなのですが、私は死体なので動けません。それだけがたまらなく悔しく、悲しいことでありました。
けれど彼が毎朝毎晩、私に『愛しているよ。小兎子』と語りかけてくれます。彼に触れられぬことなど些末な問題です。
私は口もきけませんが、言葉にせずにいつもこう返していました。
『愛しているわ、彰典さん』と。
隙間女となってどれだけ経ったでしょう。私には新たな問題が浮上してきました。
体が腐ってきたのです。
私もミステリーやサスペンスくらいはかじっておりますから、死体を放っておくと腐ってしまうことくらい合点承知の助です。
ああ、どうしましょう。こんなになってしまっては、彼に嫌われてしまうかもしれません。
小さな虫がたくさん飛んでいます。ブンブンという羽音が尋常じゃありません。
すでに血を失った私の肌は蒼白を超えて土気色となり、腐った肉がどろどろとして大変醜いものです。
どうしましょう、どうしましょう。
これでは彼に愛してもらえません。手に口づけをしてもらえません、髪を撫でてもらえません、頬をさすってもらえません。
死してなお彼に愛してもらうことこそ私の至上の喜びであるというのに、それがなくなってしまえば―――私は地獄に堕ちるでしょう。
“嗚呼、助けて、彰典さん!”
されど私の叫びは届きません。だって死人に口はありませんもの。
『おい、遺体があったぞ! すでに腐敗している!』
『うわっ! なんて酷い…。こりゃ被害者を特定するのは骨だぞ』
見知らぬ人たちが何かを喚いています。
着ている服から察するに、どうやら警察官のようです。
『この家から変な臭いがしていたのは間違いないようですね』
『ええ! そりゃもう、ひどい臭いでしたよ。それで、死体か何かあったんですか?』
『そうですね…。生ごみじゃないのは確かでした』
トレンチコートのようなものを着た年配の男性が、中年女性と何やら話し込んでいます。
いいえ、そんなことはどうでもよいのです。
彰典さんが―――どこにも見当たらないのです。あの雄々しい見た目と典雅な雰囲気が全く見当たりません。
どうして? 今日は休日で、お勤めはないはずなのに。
私の彰典さんは何処へ!
警察官たちは私を連れ去ろうとします。嫌だ、離して! 彰典さんと会わせて!
彰典さん、彰典さん、彰典さん!―――
***
それから長い、長い時間が過ぎました。
もうこの部屋に彰典さんは来ません。代わりに知らない人が、入れ替わり立ち代わるようにやって来ます。
私は相変わらず本棚の隙間から外を覗いています。
隙間の向こうに誰かがいると、気づいてほしくて視線を送ります。
だけど私に気づいた人は、決まって恐ろしげな顔をして顔を背けてしまうのです。
“違う、あなたじゃないの。彰典さんはどこ?”
もう腐ってなんかいないのに。虫も飛んでないし、ひどい臭いだってしないのに。
私もうこんな所から出たいの。この狭苦しい所から出て、誰にも恥じることなくあなたに抱かれたい。
お願い、迎えに来て!
彰典さん、私をここから出して!