名を記す
谷崎とは大学以来の付き合いである。
就職先こそ異なったが、月に一度は家を訪れて酒を飲み交わす。そんな、気のおけない間柄だった。
けれどその酒席で、谷崎は暗く俯いている。まだオレと目も合わせない。大事が起きたとかで、先月の約束はふいになった。その慌しさがまだ後を引いているのだろうか。
「なあ川端」
案じて口を開くより早く、谷崎がぽつりとオレを呼んだ。
「うちの店に来た事はあるか?」
「いや。前を通りはしたが、悪いな、まだ利用はしてないんだ」
谷崎は外食系のスーパーバイザーをしている。数店舗を担当していて、そのひとつが近所にもあった。
「俺の居る時なら、こっそりサービスしてやるよ」と冗談口を言われていたが、すると逆に遠慮が働いて、結局一度も行っていない。
「通ったなら見たと思うが、うちの店、外壁に懸垂幕を垂らしているだろう?」
問われて頷いた。
夏のなんとかフェアだのなんだのの広告が数本、かかっていた記憶がある。
「懸垂幕昇降装置ってのがあってな。屋根の高さからのあれも、業者を頼らずこっちで交換できるんだ。バイトにやらせるのは少々危ないから、担当店舗のは全部、俺が替えていた。先月も、俺があの店の垂れ幕をかけ替えた。そうしたら」
「そうしたら?」
「裏地に朱色の筆文字で、あの店の店長の名前が書かれていた。隅にひとつふたつの話じゃない。幕の裏面に隈なく、しかもかけてあった三本全部にびっしりと、だ。一体、いつ誰がどうやってそんな悪戯をした?」
装置があるのなら一度幕を外せばとも思ったが、谷崎の店は二十四時間営業だ。絶対に誰かが気づく。そもそもあの長い懸垂幕を文字で埋め尽くすには相当な時間がかかるだろう。普通に考えれば発覚は必至だ。
「あそこの店長はセクハラ、パワハラで嫌われていた男だ。俺も何度怒鳴りつけたか分からん。これは恨みの線だろうと思ったら気味が悪くなって、誰にも言わずに処理をした。その翌日だったよ、当の店長が死んだのは。遺体はひどく損壊していたそうだ。怨恨絡みの殺人の可能性もあると、警察がうちに聞き込みに来た」
「それが、先月こっちに来れなくなった大事ってやつか」
「ああ。その絡みで俺も店の人間を疑ったり、辛く当たったりもしちまった。きっと、それが原因なんだろう」
縋るような目で、谷崎はこの日初めてオレを見た。
息を呑んだ。あいつの顔には、びっしりと朱の筆文字が浮かび上がっていた。ただひたすらに繰り返して記された、谷崎の名前。その無機質な単調さこそが、潜む妄念の強さを思い知らせた。
「今日垂れ幕をかけ替えたら、今度は俺の名前が書かれていた。なあ、俺、どうなるんだと思う? なあ。どうなっちまうんだよ、俺。なあ。なあ──」
オレには何も言えなかった。
谷崎は、近いうちに死ぬのだろう。