履いていた靴
「もし」
ホームで帰りの電車を待っていると、不意に袖を引かれた。
驚いて振り向くと、居たのは小さなお婆さんだった。背丈は低いけれどすっと背筋が伸びていて、着物をしゃんと着こなして、とても品の良い感じの人だった。
「そんな靴を履いていたらいけませんよ」
え、と思って足元を見る。すると私は男物の革靴を履いていた。色は黒。埃も傷もなくぴかぴかの、下ろし立ての顔をした靴だった。
当然ながら私のものではない。男物なのは勿論、今朝もいつものパンプスで家を出た記憶がしっかりとある。しかしこの靴に履き替えた覚えは、今日一日のどこにもなかった。
指摘を受けて気がついたら、急に気味が悪くなった。途端足がむずむずしてくる。ついさっきまではなんとも思っていなかったのに、今はとにかく、早く脱ぎ捨ててしまいたくて仕方ない。
「どうぞ、履き替えてくださいな」
そんな心の内を見透かしたかのように、お婆さんはスニーカーを差し出した。やはり真新しい、新品の靴だった。
平素なら到底しない事だけれど、その時の私は少し混乱していたのだろう。深く考えもせずに、ありがとうございますと受け取って、電車待ちの列を離れた。
ホームの椅子に腰を下ろして靴を履き替えたら、まるで解き放たれたような、ひどくほっとした心地になった。
「そうだ、靴代を」
財布を出しかけると、お婆さんは「結構ですよ」と手で制した。それからすっと身を屈めて私が脱いだ革靴を拾い上げ、何の躊躇いもなく線路に放り捨てた。
そんな仕業をしてのける人には見えなかったので呆気にとられてしまった。けれどそんな私を尻目にお婆さんは、
「お気になさらずに」
そう微笑んで行ってしまった。
家に帰ると、私のパンプスは玄関口にちゃんとあった。
すると帰結として、私は朝からあの黒革靴を履いていた事になる。どうにも納得できない心持ちだった。
それから幾日かして、やはり帰り道。
駅に着いたらホームの方が騒がしい。窺うと、どうやら飛び込みがあったようだった。しばらく電車は動かないとのアナウンスもあった。
人身事故の直後の場所でただ待っているというのは、あまり好ましくない事に思えた。急ぐ理由があるでもないし、どこかで少し時間を潰して、また戻ってこよう。そう考えた時、あのお婆さんが改札を出てくるのが見えた。
あちらも私を覚えていたのだろう。目が合うと、
「今度は間に合いませんでした」
言って、悲しげに首を振った。
確かめはしなかった。けれど、それで判った。それだけで伝わった。
飛び込んだその人は、あの黒革靴を履いていたのだ。