押入れに至るまで
星を見るのが好きだった。
勿論都会の只中でだから、夜中でも星の光は打ち消されて、殆ど見えないくらいに弱い。それでも別世界を覗き見るような、その感じが好きだった。
特に冬。部屋の明かりを消して、暗くしんと冷えた空気の中で夜空を仰ぐのは格別だった。
趣味が高じて随分いい値段の望遠鏡に手を出したりもした。
でも今それは、押入れの奥に転がっている。
ある寒い夜。
いつものようにベランダで望遠鏡を覗いていたら、星と僕との間を遮って、夜でも闇でもない何かが通り過ぎていった。
それは塗りつぶした影みたいに真っ黒だった。
目を凝らすと、頭があって手足があって、およそ人の形をしているのが分かった。腕が奇妙に長くて、全体的な印象は楕円に近い。
そして巨大だった。とてもとても巨大だった。足下の家々の屋根が膝までも届かない。けれど不思議な事に、それは足音も物音も立てなかった。何かを踏み潰したりもしないようだった。
まるで影絵のように。
決して重ならない、別の世界の住人のように。
ただ静かに、しんしんと歩を進めていく。
唖然と見送る視界で、不意にそれが足を止めた。
丸めていた背をぐうっと伸ばして、ゆっくり、探るように周囲を睥睨する。見られているのを察したかのような挙措だった。
あっと思って部屋に逃げ隠れた。
気づかれなかったのか、見逃してもらえたのか。
それ以上は何も起こらなかった。
でもそれから僕はすっかり、星を見る気をなくしてしまった。
だから今も望遠鏡は、押入れの奥に転がっている。