第1話:細い骨の檻と冷え切った紅茶の油膜
第1話:細い骨の檻と冷え切った紅茶の油膜
かつて、世界を文字通り、握りつぶすための拳があった。
それは黒い泥と、幾千の戦場で吸い上げた鉄の匂いがする、巨大な肉塊だった。
千人の首を一度にねじ切る腕があり、大地を割る足があった。
その圧倒的な質量だけで、有象無象の人間どもは這いつくばり、神とやらの神殿は音を立てて崩れ落ちた。武力。それこそが、世界を支配する唯一の、そして最も単純な引き金だった。
だが、どれだけ敵の肉を裂き、城を灰に変えても、背後に従う魔族たちの腹は満たされなかった。
奪えば奪うほど、彼らは内側から腐っていく果実のように、互いの喉笛を噛みちぎり始めた。
昨日まで忠誠を誓っていた配下が、夜の闇に紛れて隣の戦友の臓物を引きずり出す。
どれだけ強力な拳があっても、彼らの内側で蠢く飢えと不満を、一ミリもせき止めることはできなかった。
武力とは、ただの大きな石だ。
どれだけ巨大であっても、傾斜を転がり落ちて、最後に誰もいなくなった平原で虚しく止まるだけ。
死の直前、喉の奥に焦げた砂の味と、自らの身内が流した腐った脂の味がべっとりと張り付いていた。
何も残らなかった。
どれだけ殺しても、世界のシステムは一ミリも変わらず、ただ己の手だけが、引きちぎった肉の重みで垂れ下がっていた。
それが、最強と呼ばれた魔王の、ひどくあっけない終焉だった。
―――次に肺が動いたとき、あまりの「軽さ」に吐き気がした。
吸い込んだ空気が、薄いガラスの破片のように気管をちくちくと引っ掻く。
肺の容積が、前世の百分の一もない。どれだけ深く息を吸おうとしても、胸の真ん中あたりで、細い骨の檻に遮られてそれ以上入っていかなかった。
「……さま、エルザお嬢様。お気を確かに」
誰かの声が耳の奥で、湿った虫の羽音のように不快に震えている。
重い瞼をこじ開けると、視界の端が白く濁っていた。
起き上がろうとした瞬間、背骨の節々が、冬の乾いた竹のようにパキパキと嫌な音を立てる。
自分の手を見つめた。
白く、薄く、爪の裏が死人のように紫がかっている。
これは拳ではない。少し力を込めれば、自重で簡単に折れてしまいそうな、ただの脆い木切れだ。
「お嬢様、まだお熱が下がりきっておりません。お医者様は、あと一ヶ月、まともに寝台から起き上がることも叶わないと……」
枕元で頭を下げているのは、煤けた灰色の服を着た初老の男だ。
男の額からは、じっとりと嫌な汗が流れ落ち、絨毯の毛羽に吸い込まれていく。
鏡を見て、私は自分の新しい器の小ささに、冷たい笑いが込み上げるのを感じた。
エルザ。それが、この肉体の名前だった。
名門公爵家の令嬢でありながら、生まれつき内臓のあちこちが、熟しすぎた柿のように中から崩れかけている。
余命は一ヶ月。
誰かがこの娘を都合よく使い潰し、用が済んだらゴミ箱に捨てるために用意したかのような、あまりにも出来損ないの張り子。
前世の、あの圧倒的な魔力は、この身体のどこを探しても見当たらなかった。
指先を擦り合わせても、火花一つ散らない。
ただ、寝返りを打つだけで、肋骨の裏側がギチギチと軋み、喉の奥からせり上がってきた生暖かい液体が、唇の端から一筋、白いシーツへと溢れた。
赤黒い血が、木綿の繊維にじわじわと染み込んでいくのを、私はただ眺めていた。
「魔力が、ない」
声を出そうとしたが、カサカサに乾いた喉から出たのは、生乾きの雑巾を絞るような、かすれた掠れ音だけだった。
魔王としての武力は、完全に失われた。
残されたのは、一ヶ月後に確実に動かなくなる、この肉体の檻だけだ。
しかし、頭の芯だけは、冷え切った鉄のように冴え返っていた。
ベッドの脇にある丸机には、数時間前に淹れられたであろう紅茶が、すっかり冷めきって放置されている。
その表面には、部屋の埃を含んだ薄い油膜が、不快な虹色にギラギラと光っていた。
部屋の隅には、掃除の行き届いていない灰色の綿埃が小さく丸まっている。
世界は、私が死んだあとも、何も変わらずにこうして薄汚く、停滞し続けているのだ。
ここは、私が死んでから100年が経過した王国。
かつて暴力で蹂備したこの土地は、今や「言葉」と「数字」という、目に見えない粘液のようなシステムで統治されていた。
「…マザル」
私は、枕元で怯える老僕の名を、記憶の底から引きずり出して呼んだ。
男の肩が、びくりと跳ねる。その皮膚が、恐怖ともつかない奇妙な粟立ちを見せていた。
「公爵領の、南の炭鉱からの収益、そのうちの三割が、どこの誰の懐に流れているか。お前は知っているな」
「そ、それは……、国家書記官のレイモンド様への、その……」
マザルの声が、細く震える。
私はベッドの背もたれに、薄い背中を預けた。
骨が直接、硬い木枠に当たって痛む。その痛覚だけが、今、自分がこの惨めな肉体に閉じ込められているという現実を、冷酷に教えてくれた。
前世の私は、暴力という即効薬ですべてを解決しようとした。
だから滅びたのだ。
だが、このエルザという少女の周囲に張り巡らされた「濁った水脈(利害関係)」は違う。
裏金、情実、ドブ板の交渉。
一見すると汚らしく、不快なその粘液こそが、この過酷な世界のバランスをギリギリで維持している本質だった。
そして今、地上では、その「汚いが必要な実務」を、絶対的な正義という名のク箒で掃き出そうとする、乾いた嵐が吹き荒れている。
遠く、王宮の方向から、馬車の車輪が泥を跳ね上げる音が聞こえるような気がした。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
コツ、コツ、と。
一歩の狂いもない、あまりにも規則正しく、あまりにも「正しい」革靴の音。
それは、私を「汚職の膿」として排除し、民衆の前で華やかに断罪するための、あの男の足音だ。
アルフレッド王子。
寝不足で目を真っ赤に充血させ、正義という名の強迫観念に指先を震わせている、あの善良で、吐き気のするほど正しい男。
私は、口内に残る鉄の味を、もう一度深く噛み締めた。
武力はない。余命は一ヶ月。
だが、この細い指先一つ、いや、この乾いた喉から発せられる「言葉」だけで、彼らの綺麗な世界を内側からじわじわと腐らせていくことはできる。
彼らが放つ「正しい言葉」が、どれほど私の肉体を踏み荒らそうとも。
その刃を、そのまま彼らの喉元へと突き返してやる。
部屋の重い木製の扉が、乱暴に開かれる気配がした。
冷たい風が、生乾きのシーツを揺らす。
私の、最後の三十日間が、その音と共に静かに幕を開けた。




