第8話「紅蓮の退魔師の限界」
ツムギが去ってから一月。
王都は、静かに崩壊し始めていた。
「報告します! 西区の結界が完全に崩壊、中級妖怪三体が市街地に侵入!」
「北区の封印陣が暴走しています! 瘴気が地上に噴出し始めました!」
「東区の住民が避難を開始──退魔師の派遣を要請しています!」
詰所は修羅場だった。
報告が次から次へと飛び込んでくる。休む暇もなく、カガリは指示を出し続けていた。
「第一班は西区へ! 第二班は北区の封印陣を確認! 第三班は──」
「副団長、第三班は昨日の討伐で半数が負傷して動けません!」
「……第四班は?」
「東区の結界修繕に出ています!」
人が足りない。圧倒的に足りない。
妖怪の討伐には人員を割けるが、結界の修繕と封印の維持ができる人間がいない。
──いや、一人だけいた。追放した人間が。
「カガリ副団長」
ヒイラギが、蒼白な顔で走ってきた。
「地下の……地下の大封印陣に、亀裂が入っています」
「大封印陣? そんなもの、報告書にはなかったけど」
「それが……ツムギの引き継ぎマニュアルにも記載がなくて……。地下を巡回していた団員が偶然見つけたんです。巨大な封印陣が──崩壊しかけています」
カガリの顔から血の気が引いた。
「地下に、未報告の封印陣がある? 何を封じている?」
「わかりません。ただ、封印の規模が桁違いで……。ギンガ元団長に確認を取ろうとしたのですが、連絡がつかなくて」
「……案内しなさい」
地下に降りたカガリは、息を呑んだ。
巨大な封印陣が、地下空間いっぱいに広がっていた。
幾重にも重なった術式の層。その精密さは、カガリが見たどの封印陣よりも複雑で美しかった。
──そして、そこかしこに亀裂が走っている。
「これは……何年もかけて維持されてきた封印だわ。一人の人間が、毎日霊力を注ぎ続けてきた痕跡がある」
退魔師としての直感が、それを教えていた。
毎日。何年も。一人で。
──まさか。
「ヒイラギ。この封印陣の管理記録は」
「記録自体がありません。公式な記録には一切──」
「ツムギが一人でやっていたのか」
声が震えた。
非公式に、誰にも知らせず、一人で維持していた封印。
退魔力十二の「雑用係」が、こんな巨大な封印を維持できるはずがない。
──つまり。
「あの子の退魔力は、十二なんかじゃなかった……?」
この封印に霊力を注ぎ続けていたから、退魔力が十二しか出なかった。
つまり本来の退魔力は──計測不能なほど高い可能性がある。
カガリは膝をついた。
封印陣の亀裂からは、禍々しい妖気が漏れ出ている。大妖のものだ。
「副団長! 離れてください!」
ヒイラギが叫ぶ。
亀裂から噴き出した瘴気が、カガリの頬を掠めた。
「……私は」
カガリの唇が、かすかに震えた。
「私は、とんでもない失態を犯したのかもしれない」
しかし、認めたくない気持ちもある。
あの退魔力十二の地味な女が、自分よりも重要な役割を担っていたなどと。
「ヒイラギ。封印の応急処置を。全班から封印術が使える者を集めなさい」
「は、はい!」
「それから──」
言いかけて、止めた。
ツムギを呼び戻す、と言おうとして、喉に詰まった。
自分が追い出した人間を、助けてくださいと頭を下げに行く。
紅蓮の退魔師としての矜持が、それを許さなかった。
「……何でもない。まずは応急処置を急ぎなさい」
だが応急処置は焼け石に水だった。
封印術が使える団員を十人集めて修繕を試みたが、ツムギ一人がやっていたことを十人でも再現できない。
封印の術式が複雑すぎて、下手に手を出せば逆に亀裂が広がる始末だ。
「駄目です! 術式の構造が読み解けません!」
「これ、何層にもなっていて……一つ直すと別の層に影響が──」
「ツムギは毎日これをやっていたのか……?」
団員たちの声に、畏怖の色が混じり始めていた。
かつて「雑用係」と嘲笑った人間の仕事の重さを、今になって思い知っている。
その夜、カガリは一人で詰所に残っていた。
机の上には、ツムギが残した引き継ぎマニュアルが広げられている。
結界の修繕手順、封印陣の定期点検、霊脈の調整方法──全て丁寧に書かれている。
ただし、地下の大封印陣についてだけは、一文字も書かれていなかった。
「書けなかったのね。誰にも知られてはいけない封印だから」
マニュアルの最後のページに、小さな文字で一言だけ書き足されていた。
──結界と封印は、この国を守る静かな盾です。どうか大切にしてください。
カガリは目を閉じ、長い長い溜息をついた。
翌朝、カガリは決断した。
「使者を出しなさい。ツムギを──探し出して」
その声は、紅蓮の退魔師とは思えないほど小さかった。




