第6話「山の主」
辺境での生活は、驚くほど肌に合った。
朝は日の出とともに起きて、コハクと一緒に畑仕事を手伝う。
昼は山に入って薬草を摘み、薬師の家に残されていた道具で簡単な傷薬や風邪薬を作る。
夕方はタエさんの家で村人たちと夕餉を囲み、夜はこっそり村の周囲に結界を張り直す。
地味で、静かで、誰にも急かされない日々。
こんな暮らしが世の中にあったのかと、毎日驚いている。
「ツムギちゃん、この薬すごく効くよ!」
「おかげでうちのじいさんの腰痛が楽になったって!」
「今度は虫除けの薬も作ってくれないかい?」
村人たちは気さくで温かかった。
薬を作れば喜んでくれるし、畑仕事を手伝えば感謝してくれる。
退魔師団では八年間一度も聞かなかった「ありがとう」が、ここでは毎日聞こえた。
「大丈夫です、慣れて──」
つい口にしかけて、止めた。
この村では、その言葉は必要ない。
「……嬉しいです。ありがとうございます」
素直にそう言えるようになったのは、いつからだろう。
その日の午後、私は山の中腹で薬草を摘んでいた。
コハクが肩の上で耳をぴくぴくさせている。
「どうしたの、コハク?」
異変に気づいたのは、コハクの反応からだった。
山の奥から、重く濁った妖気が流れてきている。
地蜘蛛や小鬼のものとはまるで違う、力のある妖気。
「──まずい」
妖気の方角は、村に向かっている。
全力で山を駆け下りた。
村の入り口に着いたとき、すでにそれはそこにいた。
体長は馬ほどもある巨大な猪。しかし、その体は黒い瘴気に覆われ、目は血のように赤く濁っている。
額に一本の角を持つ──山の主だ。
「山の主が里に降りてきたのか……!」
山の主は本来、山の霊脈を守る守護者だ。
それが瘴気に侵されて暴走しているということは、霊脈の異変が相当に深刻だということ。
村人たちは悲鳴を上げて家の中に逃げ込んでいる。
タエさんだけが、鍬を持って立ちはだかっていた。
「タエさん、下がって!」
「ツムギ!」
私は村人たちの前に飛び出した。
山の主が咆哮する。衝撃波で地面が揺れ、木の葉が吹き飛んだ。
──これは、三割の力では厳しい。
地蜘蛛とは格が違う。山の主クラスの妖怪を浄化するには、それなりの霊力が必要だ。
しかし、封印の維持を緩めるわけにはいかない。
「コハク、離れて」
「きゅう!」
コハクが私の肩から飛び降りた──と思ったら、私の前に立ちはだかった。
小さな体を精一杯膨らませて、山の主を威嚇している。
「コハク、危ない!」
山の主が前脚を振り上げた。
コハクの小さな体など、一撃で潰される。
──考えるより先に、体が動いた。
封印に回している霊力の一部を、ほんの一瞬だけ引き戻す。
全身に霊力が満ちる。視界が澄み渡り、世界の色が変わった。
「鎮めの術──『静寂』」
両手を地面につけた瞬間、白銀の光が波紋のように広がった。
光は山の主を包み込み、黒い瘴気を剥がしていく。
まるで汚れた衣を洗い流すように、優しく、丁寧に。
山の主の赤い目から、少しずつ濁りが消えていった。
巨大な猪はよろよろと後退し、やがて力なく膝を折った。
瘴気が完全に祓われたのだ。
「……大丈夫。もう終わったよ」
私はゆっくりと山の主に近づき、その額に手を当てた。
山の主は穏やかな目で私を見つめ、小さく鼻を鳴らした。
──礼を言っているのだと、わかった。
「帰って。山を守って」
山の主はゆっくりと立ち上がり、森の奥へと消えていった。
その瞬間、全身から力が抜けた。
「っ──」
膝が折れる。地面に手をつく。視界がぐらぐらと揺れた。
封印の維持を一瞬でも緩めた反動で、霊力が乱れている。急いで封印に霊力を戻す。
「きゅう! きゅう!」
コハクが慌てて駆け寄ってきた。心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫……ちょっと、霊力を使いすぎただけ……」
「ツムギ!」
駆けつけてきたのはハヤテだった。
無表情のはずの顔に、隠しきれない動揺が浮かんでいる。
私のそばに膝をつき、肩を支えてくれた。
「……すまない。間に合わなかった」
「ううん。大丈夫、私──」
「大丈夫じゃない」
ハヤテの声が、低く、はっきりと言い切った。
「今の術は──〈鎮めの術〉だろう。あれを使えるのは、〈鎮めの一族〉の人間だけだ」
息が止まった。
「なんで……それを……」
「昔の仕事で、記録を読んだことがある。だが〈鎮めの一族〉は百年前に途絶えたはず──」
ハヤテが私の目を見た。
嘘を許さない、真っ直ぐな瞳。
「お前──何を封じている?」
答えられなかった。
答えてしまったら、もうこの穏やかな日々は終わる。
「……ごめんなさい。今は、言えない」
ハヤテは数秒間、黙ってこちらを見つめていた。
それから静かに目を伏せた。
「……わかった。言いたくなったら言えばいい。──ただ、一人で抱え込むな」
その声があまりにも優しくて、今度こそ涙が零れそうになった。
「きゅう」
コハクが私の膝に乗ってきた。小さな体で、精一杯の温もりをくれている。
ハヤテがそっと私の肩に羽織をかけてくれた。
「……ありがとう」
この人たちになら、いつか話せる日が来るかもしれない。
そう思った。




