第5話「封印の軋み」
ツムギが王都を去ってから、十日が経っていた。
「カガリ副団長、東の結界に亀裂が見つかりました!」
「また? 先週修繕したばかりでしょう」
「は、はい。ですが、修繕した箇所とは別の場所に新たな──」
「……わかった。第三班を向かわせなさい」
カガリは苛立ちを隠さずに報告書を机に叩きつけた。
おかしい。
ツムギを追放してから、結界の不具合が異常な頻度で発生している。
修繕しても修繕しても、まるで穴の空いた桶に水を注ぐようだ。
「副団長、南の封印陣の件ですが──」
「今度は何?」
「封印の術式が、なぜか不安定になっていまして。マニュアル通りに補修しているのですが、上手くいきません」
「マニュアル通りにやって駄目なわけがないでしょう。手順を間違えているんじゃないの?」
叱責を受けた団員が、しょげた顔で退室していく。
カガリは眉間を揉みながら、窓の外に目をやった。
──あの雑用係は、こんなことを毎日やっていたのか。
いや、違う。あの程度の仕事が回らないのは、引き継ぎが不十分だっただけだ。ツムギがいなくても、手順さえわかれば誰でもできる。
そう自分に言い聞かせた。
だが、現実は言い聞かせた通りにはならなかった。
ツムギが去ってから二週間。
王都の結界は修繕が追いつかなくなり、小さな妖怪が街中に現れるようになった。
封印陣は三箇所が機能不全に陥り、地下の霊脈は調整する者がいないまま乱れ続けている。
「カガリ副団長。市民からの苦情が──」
「わかってるわよ!」
カガリの声が、詰所に響いた。
彼女は優秀な退魔師だ。大妖を焼き尽くす力を持ち、武勇に関しては退魔師団で随一。
しかし──結界の修繕や封印の維持は、彼女の専門外だった。
「ヒイラギ」
「は、はい」
「あの雑用係──ツムギが普段やっていた仕事の全容、もう一度洗い出して」
「え、いや、それが……ツムギがやっていた仕事の全容は、正直よく把握できてなくて」
「はぁ?」
カガリの声が低くなった。
「八年も一緒にいて、同僚の仕事内容すら把握していなかったの?」
「だって、あいつの仕事って地味で目立たなくて……結界と封印の補修くらいかと……」
「その『くらい』が今、全部崩壊しかけているんだけど?」
ヒイラギは顔を青くして黙り込んだ。
そのとき、詰所の扉がゆっくりと開いた。
杖をついたギンガ元団長が、重い足取りで入ってくる。
「ギンガ元団長。もう引退されたはずでは──」
「カガリ。ひとつだけ忠告しに来た」
老人の目は、いつになく厳しかった。
「ツムギの仕事は、マニュアルではできん。あの子は──退魔師団の誰よりも重要な役割を担っていた」
「重要な役割? 退魔力十二の?」
「退魔力の数値だけで退魔師の価値を測るのは、木を見て森を見ずだ」
カガリの表情が険しくなった。
「では具体的に、あの人のどこが重要だったんですか?」
ギンガは口を開きかけて──止めた。
ツムギとの約束が、頭をよぎったのだ。
「……それは、わしの口からは言えぬ」
「言えない? 元団長がそんな曖昧なことを──」
「曖昧ではない。言えぬのだ。──だが、近いうちにお前にもわかる。嫌でもな」
ギンガは踵を返し、詰所を出ていった。
その背中は、いつもより小さく見えた。
カガリは唇を噛んだ。
苛立ちと、認めたくない不安が胸の中で渦を巻いている。
「──たかが封印管理係がいなくなったくらいで、退魔師団が揺らぐはずがない」
その夜。
王都の地下深く、誰も知らない場所で──巨大な封印陣に亀裂が走った。
封印の奥から、三百年ぶりの笑い声が漏れた。
『──ふふ。あの小娘がいなくなったか。いよいよ退屈しのぎの時間が終わるな』
九尾の厄災、玉藻。
その金色の瞳が、暗闇の中でゆっくりと開いた。
『だが──あの小娘だけは、傷つけるわけにはいかぬな』
大妖狐は小さく呟いて、再び目を閉じた。
封印が完全に崩壊するまでには、まだ時間がある。
だが──その時間は、確実に減り続けていた。




