第4話「はじめての居場所」
その夜、私は畑の近くの木の上で見張りをしていた。
コハクは膝の上で丸くなっている。月明かりに照らされた金色の毛並みが柔らかく光っていた。
深夜を過ぎた頃、山の方角から妖気が流れてきた。
──来た。
闇の中から這い出てきたのは、五匹の地蜘蛛だった。
体長は犬ほど。八本の脚が地面を引っ掻きながら、畑に向かって進んでくる。
目が赤く光っていて、普通の地蜘蛛より明らかに凶暴化している。
「瘴気に当てられてるのか……」
山の霊脈に何か異変が起きて、妖怪たちが瘴気に侵されているのだろう。
本来、地蜘蛛は臆病で大人しい妖怪だ。畑を荒らすような真似はしない。
木の上からそっと降りて、畑の前に立つ。
地蜘蛛たちが一斉にこちらを向いた。赤い目が八つ、闇の中でぎらぎらと光っている。
「ごめんね。ここから先は通せないの」
両手を構える。
使えるのは総霊力の三割。それでも、地蜘蛛程度ならなんとかなる。
──いや。
地蜘蛛が一斉に飛びかかってきた。
予想以上に素早い。瘴気の影響で、通常の倍は強化されている。
私は薄い結界を張って突進を受け止めつつ、右手に浄化の光を集めた。
「浄化──」
淡い白光が広がり、地蜘蛛たちを包む。
瘴気が祓われ、五匹の地蜘蛛は大人しくなって、そのまま山の方へ帰っていった。
「……よし。殺さずに済んだ」
妖怪を殺す必要はない。瘴気さえ祓えば、彼らは元の穏やかな妖怪に戻る。
退魔師団では「討伐」が手柄になるから、こういうやり方は評価されなかったけれど。
「きゅう!」
コハクが嬉しそうに鳴いて、私の肩に飛び乗った。
「ふふ、ありがとう。応援してくれたの?」
コハクの頭を撫でていたとき。
「──見事だな」
背後から声がした。
低く、落ち着いた男の声。気配はまったく感じなかった。
振り返ると、月明かりの下に一人の青年が立っていた。
長身で、黒髪を無造作に束ねている。腰には太刀を一振り。着流しの上に薄手の羽織を纏った、浪人のような風体だ。
しかし、その立ち姿には隙がなかった。
鍛え抜かれた者特有の、自然体の中に潜む緊張感。
「あ、あなたは……?」
「ハヤテ。この村で用心棒をやっている」
ハヤテと名乗った青年は、真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
警戒しているわけではない。むしろ──興味深げに。
「浄化術で妖怪を鎮めたのか。殺さずに」
「はい。瘴気を祓えば元に戻りますから」
「……そんな精密な浄化術を使える退魔師は、王都でもほとんどいないぞ」
しまった。
やりすぎた──とは思ったが、もう遅い。
「いえ、たまたまです。相手が弱い地蜘蛛だったから上手くいっただけで──」
「嘘だな」
ハヤテは断言した。穏やかだが、有無を言わさない声だった。
「あの浄化は、対象の妖気と瘴気を正確に区別して、瘴気だけを選択的に祓っていた。退魔術の基礎ができていない人間には絶対にできない技だ」
この人、ただの用心棒じゃない。
退魔術の何たるかを、正確に理解している。
「……詳しいんですね」
「昔、少しかじっていた」
それ以上は語らない。
お互いに踏み込まない距離感。これは、同じように何かを隠している者同士の暗黙の了解だ。
「ハヤテさん」
「呼び捨てでいい」
「じゃあ……ハヤテ。今夜のこと、村の人たちには──」
「言わない。あんたが言いたくないなら」
月明かりの下で、ハヤテがかすかに笑った。
笑うと、鋭い印象の顔が少しだけ柔らかくなる。
「ただ、ひとつだけ」
「はい」
「あんた──全力じゃないだろう」
心臓が跳ねた。
「さっきの術、かなり霊力を抑えていた。まるで、霊力の大半を別のことに使っているみたいに」
──この人には、隠し通せないかもしれない。
「……大丈夫です。慣れてますから」
いつもの言葉で誤魔化した。
ハヤテは何も言わなかったが、その目は「嘘だ」と語っていた。
翌朝。
畑が無事だったことに、村人たちは大喜びだった。
「タエ様! 畑が荒らされてません!」
「夜中に見張ってたら、妖怪が来なかったんですよ!」
村人たちは「たまたま来なかったんだろう」と思っている。
それでいい。余計な注目は集めたくない。
──しかし。
「あんた、昨夜畑にいただろう」
タエさんには見抜かれていた。
朝餉を一緒に食べながら、タエさんはにこにこと笑っている。
「妖怪が来なかったんじゃなくて、来たけど帰したんだね?」
「……なぜ、そう思うんですか?」
「長年の勘さ。あと、あの畑の周りに薄い浄化の跡が残ってたよ。元薬師のばあさんの家に住んでる子が退魔師だなんて、なんだか因果だねぇ」
タエさんは味噌汁をすすりながら、穏やかに続けた。
「ツムギ。あんたがここにいてくれるなら、村はとても助かる。──でもね、無理はしなくていいんだよ」
「……え?」
「あんた、『大丈夫、慣れてますから』って言うけど、慣れてるんじゃなくて我慢してるだけだろう?」
返す言葉がなかった。
「ここは誰にも急かされない場所だよ。自分のペースで、やりたいことをやればいい」
温かい味噌汁が、喉を通って胸の奥に落ちていく。
こんなふうに──ただ優しくされることに、もう何年も縁がなかった。
「……ありがとうございます、タエさん」
「お礼はいいから、おかわり食べな。痩せすぎだよ、あんた」
コハクが膝の上で「きゅう」と鳴いた。
まるで「そうだそうだ」と言っているようで、私は少しだけ泣き笑いの顔になった。
こうして、私の辺境暮らしが始まった。
朝は畑仕事を手伝い、昼は薬草を摘んで簡単な薬を作り、夜はこっそり村の結界を張り直す。
コハクはいつも私のそばにいて、ハヤテは時折ふらりと現れては、何も言わずに夜の見回りを手伝ってくれた。
穏やかで、あたたかくて、ここにいていいと思える毎日。
生まれて初めて、「居場所」というものを見つけた気がした。
──けれど、王都ではすでに異変が始まっていた。




