8 恋しちゃったんだ
夏休みが始まったとはいっても、学校へ全く行かないわけじゃない。自主参加と書いて必修の夏期講習に、部活動。それから登校日。もちろん毎日学校へ行くわけでもないけど、それなりに忙しい。
文化祭の準備も、いよいよ本格化してくる。僕たちのクラスも、出し物の準備で忙しくなってきた。文芸部の原稿の締め切りも近づいてくる。
そして僕は、その何もかもが、あんまり上手くいっていなかった。
学校の夏期講習の後、部室に向かう。机に置かれた原稿提出用のボックスには、何枚かのプリント用紙が入っていた。もう何人かの部員は、原稿を提出したらしい。
僕といえば、書くべき原稿の一文字も進んでいないというのに。
ため息をつきつつ、椅子にも座らずに、恋についての研究ノートを取り出した。ぺらぺらめくってみると、ここ最近はリョウちゃんと過ごした日々の記録になっている。ほとんど日記だ。
きっと、間違いない。僕はリョウちゃんに恋をしていた。リョウちゃんはみごと、僕に恋を教えることができたというわけだ。
だけど僕は恋を知ったことを、なかなかリョウちゃんへ言えないでいた。リョウちゃんが好きだって言ってしまったら、僕たちの関係は、少なくとも今の形ではいられないだろうから。
リョウちゃんは、僕たちの関係にパラダイムシフトを起こしたい、と言っていた。それもまた、今となっては、僕を怖気づかせている。
僕はリョウちゃんと、今の関係のままでいたい。この居心地のいい関係を、リョウちゃんがどう変えたいのかと思うだけで、怖かった。
それにリョウちゃんは優しいから、僕が恋を理解したと知ったら……僕がリョウちゃんを好きになったと伝えたら、きっと責任を取ろうとしてくれる。だけどそこにリョウちゃんの気持ちがなかったら、すごく虚しい。
でもあの賢くて頼りになるリョウちゃんが、僕より先にこの可能性を考えていないとも考えにくかった。
となると、僕は一体、どうすればいいんだろう。
たてつけの悪い扉が開いて、鈴木くんが顔を出す。ボックスと僕を交互に見て、「やあ」と手を振った。
僕は力なく手を振り返す。鈴木くんは部室へ入って、僕の隣へ寄り添うように立った。
「ハルくん、どうしたの? 元気がないように見えるよ」
バレている。僕が思わず両手で頬を押さえると、鈴木くんが椅子を引いて、座るように促した。
僕は椅子へ座る。鈴木くんも隣へ座って、僕たちは向かい合った。
鈴木くんが、僕の顔をちょっと上目遣いに見て、頷く。
「悩み事があるように見える。どうしたのかな」
「鈴木くん……」
彼からの熱い友情に、僕の身体がほっと緩む。無意識のうちに、身構えてしまっていたみたいだ。
僕はうつむいて、手元を見つめる。言葉をゆっくりゆっくり選びながら、口を開いた。
「僕はきっと、恋を、理解してしまったんだ。それでかえって、今、すごく苦しい……」
おずおずと鈴木くんを見上げると、彼はなぜか、満面の笑みを浮かべている。思わず「えっ」と声を漏らすと、鈴木くんは朗らかに笑って、僕の肩を叩いた。
「やあ、やっと僕と同じ土俵まで降りてきてくれたね。歓迎するよ」
「鈴木くん、その言い方は何。ちょっとひどいよ?」
不満で、唇がつんと尖る。彼は「ごめんって」と平謝りして、穏やかな微笑みを浮かべた。どこかほっとした表情で、鈴木くんは、また僕の肩を叩く。
「からかってごめんね。だけど僕、嬉しいんだ。ハルくんとやっと、恋バナができるから」
「恋バナ」
おうむ返しにすると、鈴木くんは「そうだよ」と、力強く頷いた。
「これで僕たちは、恋という感情を理解する者同士、好きな人がいる者同士だ。これからはきっと、もっと、深い話ができるはずじゃないかな」
僕はちらりと鈴木くんを見た。その顔が本当に優しくて、こくりと頷く。僕の頬も、自然とゆるんでいた。
この苦しみを味わっているのは、もしかしたら、鈴木くんも同じなのかもしれない。
「ねえ、鈴木くん。恋バナしよう。僕の悩みを聞いてほしいんだ」
鈴木くんは、頼もしく頷いてくれた。僕は鈴木くんへ向き直って、口を開く。
「僕は、リョウちゃんを好きになったんだ。でも僕は、今の友達のままでいたい。だって、リョウちゃんが僕を好きじゃなかったら、虚しいから……」
ぽつりぽつりと告白していった。鈴木くんは、何度も頷きながら、僕の話をただ聞いてくれる。
「リョウちゃんは優しいから、僕が告白したらきっと、付き合ってくれると思う。だけどリョウちゃんは、もう恋を知っている」
だからこそ、僕に恋を教えてくれるって、申し出てくれた。
それはつまり、好きな人がいたということだ。
「そんなリョウちゃんが、僕に恋をしないまま、僕に付き合うだなんて考えると……」
言いながら、声がどんどんしぼんでいく。
リョウちゃんは一体、誰が好きだったんだろうか。もやもやして、口をつぐんだ。
鈴木くんは、指であごをさする。なるほど、と何度も頷いた。
「つまりハルくんにとって、須藤くんの気持ちが自分にないだろうことが、ネックになっているんだね」
そうだ。頷くと、鈴木くんは、眼鏡をかちゃりとかけ直した。
頼もしく、胸元を軽く叩く。
「じゃあ、話は簡単だ」
「えっ?」
僕は驚いて、声をあげる。鈴木くんは、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「須藤くんが、ハルくんを好きになれば、万事解決じゃないかな? つまり、両想いになるんだよ!」
リョウちゃんが、僕のことを、好きになる。そんなの、考えたことなかった。
両想い。なんていい響きの言葉だろう。
くらくらしている間に、さらに鈴木くんが畳みかけてきた。
「僕が思うに、これは勝ち目のない戦いじゃないよ。須藤くんは、ハルくんをとても大切にしているように見えるからね」
「そ、そうかな」
落ち着かずに、膝頭を指で何度も叩く。鈴木くんは、僕の肩を、力強く叩いた。
「そうだよ。ハルくん、君の力で、須藤くんの気持ちを手に入れるんだ」
生唾を飲み込む。
「それじゃあ、僕はどうすればいいんだろう?」
沈黙が、おりた。部室の扉が開いて、どやどやと女子たちが入ってくる。
鈴木くんは椅子から立ち上がって、僕を部屋のすみっこへ連れていった。ひそひそとした声で、鈴木くんが言う。
「ごめん。それは、おいおい考えよう」
「えっ」
急にはしごを外された。鈴木くんは、やけっぱちな口調で呟く。
「どうしたら振り向いてもらえるか分かったら、僕だって苦労しない……」
僕は、自然と笑みを浮かべていた。もちろん怒りや、馬鹿にする気持ちは、まったく湧いてこない。
ただ鈴木くんという友達が、僕に対して、これだけ親身になってくれることが嬉しかった。それに、僕も鈴木くんの力になれるかもしれない。
きっと僕たちは、片想いという、大きな課題を抱える者同士だから。つまり、同志だ。
「鈴木くん。がんばろうね」
拳を握って、軽く胸の前で振る。鈴木くんは僕の目を見て、うん、と微笑んだ。
「がんばろう。お互いに、ね」




