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3 恋の師弟関係

 その後、僕はガタガタになった。電車の中で、リョウちゃんがやたら距離を詰めてくるから、どぎまぎしてしまったのだ。


 隣り合って座っていると、僕へぴっとりくっついて、息遣いがすぐ近くに聞こえる。さらには大きな手のひらが、僕の手に重なった。


「ハルくん、テストの復習会、いつやる?」

「なんで手を重ねるの? なんで耳元で囁くの……?」


 リョウちゃんがあれこれ話してくれるのに、僕は全然集中できない。うつむくと、唇がもっと耳の近くに来た。


「恋人だからだよ。分かんない?」


 僕はすっかり途方に暮れてしまった。

 リョウちゃんの手のひらが僕よりもずっと大きいとか、耳元で囁かれると落ち着かないとか、そもそも身体が密着しすぎとか。情報量が多すぎる。


「分かんない……」


 途方に暮れる。身体がゆっくり離れて、リョウちゃんはうっすら笑った。掠れた声が、色っぽい。


「ごめん、急すぎたね」


 そして、しみじみとした口調で言った。


「かわいいな」

「えっ……?」


 これも、「恋人」だから言っているんだろうか。それとも、「恋を教える」ために言っているんだろうか。そもそも僕が恋を理解したとして、その時、どうなってしまうんだ。

 リョウちゃんを見ていると、なんでか頬が熱くなった。ぷいっとそっぽを向く。


「……リョウちゃん。こんなこと、僕以外にしちゃダメだよ」

「うん、もちろんしないよ。でもなんで?」

「こんなことされたら、誰だって、リョウちゃんを好きになっちゃうから……!」


 途端にリョウちゃんは無言になった。顔を上げて、窓の外をぼーっと眺めている。

 きっと頭の中で、いろんなことを考えているんだろう。

 僕は、おずおずと口を開いた。


「ねえ、リョウちゃん。僕に『恋を教える』ために、恋人になるって、それは……」


 つまり、僕が恋を理解する時は、リョウちゃんに恋をした時に、なってしまうんじゃないだろうか。

 もじもじと指先を絡ませる。


「その、今更だけど、まずくない……? いろいろと、さ」


 だって、僕がリョウちゃんに恋をしたら、僕らの友情は破綻してしまうだろう。

 でも、「恋をしてしまうかも」の一言を言ってしまったら、きっと取り返しがつかない。いよいよ戻れないところへ足を突っ込む気がした。

 言葉に詰まる僕をよそに、リョウちゃんは力強く頷く。僕へにこりと微笑みかけた。


「心配しないで。俺がなんとかするから」

「そ、そう?」


 僕はリョウちゃんのことを信頼している。仮に僕がリョウちゃんに恋をしたとしても、彼が僕の心を弄ぶことは、まずないだろう。だって僕のことを、大切にしてくれているから。

 でも、そうも言っていられない。


「たしかに、リョウちゃんは僕のためにハッカ飴を持ち歩いてくれるし、僕のことが好きなのは分かってる。でも僕たちは友達で、そこに恋愛感情は、ないじゃん」


 必死に訴える僕に、リョウちゃんは真面目な顔で頷いた。言わんとすることは、分かってくれたんだろうか。

 リョウちゃんは、そうだね、と一旦認める姿勢をとった。


「今はそうだからこそ、パラダイムシフトを起こそうよ。何のために、俺たちは恋人になったと思う?」

「パラ……?」


 スマホで検索しようとしたら、そっと取り上げられた。あーっと声をあげる僕の手を、リョウちゃんが握る。僕は思わず、言葉を失った。


「パラダイムシフトって、こういうことだよ」

「分かんないよぉ……!」


 小声で悲鳴を上げた。

 リョウちゃんは低く笑って、「ごめんね」と手を離す。僕はしばらく、恥ずかしくて、頭を抱えた。リョウちゃんは、僕の肩に手を置く。その熱に、どきりとした。


「今は分かんなくていいよ。これから、分かっていこうな」


 どうしてか、目の前の幼馴染が、猛獣に見えた。

 そのまま、僕はますます使い物にならなくなる。顔どころか、身体まで熱くなってしまって、ひたすら無言になってしまった。

 最寄駅へついて、へとへとの状態で、自宅へ送られる。よぼよぼと、自宅の玄関扉を開けた。

 お母さんが奥から出てきて、「おかえり」と声をかけてくる。エプロンで手を拭きながら、後ろに立つリョウちゃんへ微笑みかけた。


「涼太くんも、こんばんは。いつも春希と一緒にいてくれて、ありがとうね」

「こんばんは、おばさん。いや、いつものことだから」


 そんな他愛のない会話を聞きながら、僕の頭は、「パラダイムシフト」でいっぱいになっていた。

 それは一体、なんなんだ。僕たちの関係に起ころうとしているそれは、どういうやつなんだ。

 考え込む僕をよそに、リョウちゃんは爽やかに手を振って、彼の家へと帰っていった。

 僕も手を洗って、家族で食事をとる。心ここにあらずの僕を見て、お父さんが箸を置いた。


「春希。何か、悩みでもあるのか」


 ちらりと、お父さんを見遣る。お母さんは「お父さん」と小さく言って、肘で彼をつついた。


「そういうのは、春希が言ってくれるまで、待つものよ」

「しかしお母さん、僕は……いや。人の心なら、小説家のあなたの方がよく分かるはずだな。僕は実験と研究しか、能のない男だから」

「あら。そんな謙遜をする必要なんてないのに。あなたは優しい人だって、いつも言ってるじゃない」


 お父さんは、研究所勤めの天才科学者。お母さんは、売れっ子小説家。

 そんな偉大な両親を見ながら、僕はうなだれた。

 やっぱり、先人の知恵を借りるべきだろう。


「実は、分からないことがあるんだ」

「なんだ、春希。言ってみなさい」


 お父さんが食い気味に言う。僕は、そろそろと様子をうかがいながら、口を開いた。


「恋って、なんだと思う……? あと、パラダイムシフトって、何……?」


 両親は戸惑ったみたいに首を傾げて、顔を見合わせる。先に口を開いたのは、お母さんだった。


「恋が何なのかは、あなた自身で考えて、答えを見つけるべきだと思うわ。お母さんからは、何も言わないことにしておくわね」


 お父さんが咳払いをして、口を開く。


「パラダイムシフトとは、これまで当たり前とされていたことが、根本的に大きく変わってしまうことを意味する。例えば、天動説から地動説への転換がそうだな」


 つまりパラダイムシフトって、かなり大きな変化だ。

 それを、リョウちゃんは、僕との間に起こしたいらしい。

 僕はそれきり黙り込んで、食事を続けた。

 お父さんとお母さんも、この話題にあえて触れることはなかった。


 お風呂に入って、寝る支度を整える。

 ベッドに入りながら、電気を落とした暗闇の中で、さっきの会話を、何度も反芻した。

 どうやらリョウちゃんは、僕たちの友情を、根本的に、大きく変えるつもりらしい。でもそうなったら、僕たちの今の日常は、崩れてしまうだろう。怖い。

 つま先を合わせた。内腿をきゅっと寄せて、膝同士をこする。


 でも僕は、なんでか、わくわくしている。

 リョウちゃんが僕を嫌いなわけない。つまりリョウちゃんが望む変化は、僕とリョウちゃんを、引き離すものじゃないはずだ。

 じゃあ、これから一体、どんなことが起こるんだろう。


 そして「パラダイムシフト」とやらを望むリョウちゃんに、なんでか、胸がきゅうっと切なくなった。

 なんでだろう。不思議だ。

 分からない。すごくモヤモヤする。今のままじゃダメなのかって、じくじく、胸が痛みすらする。

 なのに、悪い気分とは思えなかった。むしろ、もっと味わっていたい感じ。

 僕は一体、どうしてしまったんだろう。だけど考える隙もなく、今日いちにちの疲れがやってきて、僕をつかまえた。


「ねむ……」


 だんだん、まぶたが重たくなってきた。アラームをかけて、スマホを裏返して、目をぎゅっと瞑る。

 明日、学校でリョウちゃんに会ったら、またいろいろと聞いてみよう。

 ドキドキしすぎて、ちゃんと聞けるかどうかすら、分からないけど。

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