20 覆水盆に返らず(涼太視点)
ハルくんと喧嘩をした。
いや、喧嘩とも言えないような、一方的なやり取りだったかもしれない。
思いが通じ合ったと思い込んで、告白しようとした。そして、ハルくんに拒まれた。
「ごめん。リョウちゃん。その」
あの時のハルくんは声を上げて俺を遮って、泣き出しそうな顔をしていた。普段は滅多に人の話を遮らない、おっとりしたあの子が、こんな振るまいをするだなんて。
そんなに、俺の告白が嫌だったんだろうか。
「おーい。須藤。おーい」
目の前で、桂木が手を振る。はっと我に帰ると、向かい側の席に座った彼が「しっかりしろよ」と呆れていた。
太陽は大分傾いている。乗り換え駅の近くの、真新しい図書館。大きな窓ガラスからは、さんさんと西日が注いでいた。
桂木はのんきな表情で、問題集のページを開いて、俺に見せた。
「ここが分からないから教えてくれ」
「教科書八十九ページに載ってる公式を使えば解ける。例題は問題集五十ページに載ってる……」
「やる気ねぇのな、お前」
桂木は苦笑いをして、ノートをめくった。筆圧の強い、大きくてはっきりした文字で書くから、ページも消しゴムも消費が早そうだ。ハルくんはもっと小さくて優しい字を書く。
こんな時にまでハルくんを思うだなんて、不毛だ。フラれたくせに、未練がましくて嫌になる。
「お前、なんかあったんだろ」
こいつにまでバレるだなんて、末期だ。俺はため息をついて、「昨日、フラれた」と端的に言った。
桂木はぴたりと手を止めて、俺の顔をまじまじと見る。
「弱ってるな、お前。俺に弱みを見せるとか信じられん」
「桂木、デリカシーって知ってる?」
嫌味で打ち返すと、桂木は「ごめんって」と軽い調子で謝った。ふんと鼻を鳴らすと、桂木は手元に視線を戻す。
「志村くんのこと?」
指先が、ぴくりと震えた。桂木は茶化さず、図星とも言わず、「ふーん」と気のない声を出す。
「話くらいなら、聞くけど」
「俺が、お前の『鈴木くん』の話を聞いたみたいに?」
ちょっと嫌味っぽく言葉尻の音を上げた。桂木は気分を害した風でもなく、「うん」とてらいなく頷く。
「聞くよ、それくらい。友達だろ」
俺は思わず、長々とため息をついた。桂木は嫌になるくらいのいい奴で、こっちが情けなくなる。
こいつみたいに素直なところがあったら、ハルくんは、俺に心を傾けてくれたんだろうか。
もしそうだったら、俺がハルくんの気持ちを分かったつもりになって、無理に迫ることもしなかったんだろうか。
「……両思いだと思ってた」
ぽつりぽつりと話し出す。桂木は窓の外をぼんやり眺めて、話を聞いているのか聞いていないのかよく分からない。だけどそれは、かえって居心地のいい態度だった。
「あっちは絶対俺に気があると思ってたし、それを自覚させればいいだけだと思ってた。だから」
だけどハルくんが俺を好き、あるいはそうだったかもしれないことと、俺に好かれて嬉しいことは別問題だ。
それをすっかり忘れていた。
「俺の好意を喜んでくれるだろうって自惚れた。そしたらそれが嫌だったらしく、告白すら聞いてもらえなかった。はい、おしまい」
手を叩いて、強引に終わらせる。
それならせめて元に戻ろうと、俺なりに努力はしているんだ。
でも覆水盆に返らず。きっともう、俺たちは元通りの「仲良し」には戻れない。
桂木を見ると、彼はこちらへ目を向けた。相槌を打ってくる。
「うんうん。それで?」
「それで……!?」
あまりの衝撃に、言葉を失った。絶句する俺を見て、桂木は「え?」と戸惑った顔をしている。困っているのはこっちだ。
「いや、だから。告白しようとしたら、それを遮られて止められたんだって。だから、終わり。おしまいなんだよこの話は」
「終わってるわけないじゃん。告白してもないのに勝手に終わらせてるのはそっちだろ。何を言っているんだ」
「それこっちの台詞なんだけど」
ドン引きだ。元々無神経なところがある奴だとは思っていたけど、ここまでとは。
俺がちょっと身体を引くと、桂木はむっとした顔をする。
「半端にやって傷つくくらいなら、全力でやって傷ついた方が、マシじゃないか?」
「う、うわ」
正論っぽいパンチを打ってくるので、思わずノートで防いだ。桂木はそのノートを取り上げて、天真爛漫に笑う。
「でもなんか、安心したわ。お前も人間なんだな」
「俺はお前の無神経さにびっくりしてる」
「は? 俺の正直さは、明らかに美点だろうが」
それもまた本当ではある。だけどこの流れで認めるのはさすがに気に食わない。
「開き直るなよ」
文句を言いながら、スマホを確認する。ハルくんからのメッセージは、来ていない。既読もついていない。
いつも通りの他愛のない話をしたつもりだ。だけどまた、焦って見誤ったんだろうか。
「須藤、よく考えてみろよ」
そして桂木という名前の単細胞生物が、まだ何かを言っている。
「志村くんは、お前の気持ちをちゃんと聞いたわけじゃない。だから、告白は成立していないんだ」
「……でも、嫌そうだった。俺は、ハルくんの嫌がることはしたくない」
桂木は、「気持ちは分かるけどさ」と同情する振りをした。
「だとしても、お前自身の気持ちはどうなる。お前だって、志村くんの態度で傷ついんたんだろ」
「あれは俺が悪い」
声が強張るのが分かった。桂木は、「ばーか」と笑う。
「やり返していいんだよ、そういうのは。話を聞いてくれなくて傷ついたことを、ちゃんと志村くんに伝えていいんじゃないか?」
「だから、傷つけたくないんだよ。大事だから」
「それは別に、優しさじゃないだろ。俺だったら、やり返すぞ」
物騒なことを言い出すので、顔をしかめた。桂木は真っ直ぐな目で、俺を見つめる。
「好きな子によく思われたいって、傲慢だと思わないか?」
「傲慢でもなんでも、取り繕いたいだろうが。好きな子には笑っててほしいし、傷つけたくない。ずっと幸せでいてほしい」
即座に打ち返す。半分は嘘だけど。
ハルくんに幸せでいてほしいのは本当だ。だけど俺以外と結ばれるハルくんを見たら、冷静でいられる自信はない。ハルくんが桂木を見ていたときですら、おかしくなりそうだったのに。
俺以外の隣を選ぶハルくんが幸せだったら、きっと俺は、まともに生きていられない。
桂木は「賢いのにバカだな」と鼻で笑った。黙ってほしい。こいつとは多分、一生分かり合えない。
「まあ、いいわ。俺は後夜祭で、鈴木くんに告白するつもりだから」
えっ、と間抜けな声が漏れた。桂木はにやりと笑って、俺を指差す。
「俺と鈴木くんがラブラブになってたら、お前は涙を飲んで祝福するしかないんだぞ」
「はん……言ってろ」
悔し紛れに鼻を鳴らす。こんな奴、フラれてしまえ。
桂木は、そんなのお見通しだと言わんばかりに「やれやれ」とわざとらしく言った。
「負け惜しみを考えるエネルギーを使って、志村くんに告白した方がいいぞ」
俺はむっつりと黙りこくった。桂木はキザに肩をすくめて、立ち上がる。手早く教科書やノート、筆記用具を片付けて、エナメルバッグへ突っ込んでいった。
「俺はもう帰る。じゃあな」
エナメルバッグを肩に引っ掛けて、桂木は立ち去っていく。
俺はまた、スマホを開いた。ハルくんの既読はまだつかない。
悶々としながら、俺も帰り支度を始めた。




