19 覚悟を決めて
早朝、すっきりとした目覚めがあった。
ベッドから降りてカーテンを開けると、真夏の朝日が明るく差し込んでくる。蝉も元気に鳴いていた。光を浴びて、よし、と拳を握りしめる。
意を決して、スマホの電源を入れた。いくつかの通知が来ている。
SNSの通知は二件。鈴木くんからのメッセージと、リョウちゃんからのメッセージ。
原稿の進捗を尋ねる鈴木くんの方には、すぐに返信できた。原稿は、今日明日で仕上げる予定だから、締め切りにはきっと間に合う。走る犬のスタンプを押すと、すぐ既読がついた。鈴木くんも、笑顔の猫のスタンプを送ってくれる。
そしてリョウちゃんへの返信に、詰まった。
いつも通りの、他愛のないメッセージが届いている。もう既読をつけてしまったから、返信までに時間は置きたくない。
リョウちゃんは、とか、ごめんね、とか送信欄へ書き込む。結局デリートして、言わないことにした。何を言っても、墓穴を掘るだけの気がする。
結局、返信はできなかった。もう少し、時間を置いてみることにする。
スマホを置いて、洗面所へ向かった。顔を洗って、歯を磨いて、リビングに行く。
お父さんは、もう仕事着に着替えて食卓についていた。お母さんは、まだ眠っているらしい。
梅干しと味噌汁をおかずに山盛りのご飯を食べながら、お父さんがちらりとこちらを見る。
「おはよう」
「おはよー」
僕もご飯をよそって、生卵を落とした。醤油を垂らして黄身を壊す。
これだけじゃ足りないから、ヨーグルトと納豆も出した。
食卓にご飯を置いて、手を合わせる。食べ始めた僕を見て、お父さんが表情を緩めた。
「よく眠れたみたいだな」
うん、と頷く。照れくさくなって、「ありがとう」ともごもごお礼を言った。お父さんは聞こえたのか聞こえていないのか、味噌汁を一気に飲み干す。ふう、と息をついて、立ち上がった。
「お父さんはもう出かける。食器洗いは任せてもいいか?」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
お父さんは食器を流しに置いて、台所の向こうから僕を見た。
なんだろう、と首を傾げると、お父さんは眼鏡のずれを直す。
「まあ、なんだ。あんまり悲観的にならなくても、なるようになるはずだ」
そう言って、お父さんは家を出ていった。僕は「行ってらっしゃい」と呼びかけて、その背中を見送る。
卵かけご飯をかきこんで、納豆をかき混ぜた。ぐるぐる箸を回して、しばらく無心になる。
リョウちゃんとのこと。僕の恋心のこと。
全部丸く収めることは難しい……というか、できないだろう。だけどお父さんが言うことを信じるなら、僕はリョウちゃんを大事にしたいように、僕の本音を大事にしていいらしい。
それなら、結局、やることは一つなんじゃないだろうか。
リョウちゃんに告白して、あの非礼の理由を言って、改めて謝ろう。
僕の事情が分かったら、リョウちゃんの気持ちは軽くなるかもしれない。もっと傷つけてしまう可能性の方が、もっと高いかもしれないけど。
それに僕だって、このままじゃ嫌だ。
もう僕とリョウちゃんの友情は、崩壊の危機に瀕している。だったら僕にできることは、僕の真心を差し出して、リョウちゃんに委ねることしかないかもしれない。
かたん、と音がした。お母さんが起き出して、ぼさぼさの頭をかき混ぜながらあくびをする。
「春希、おはよー……。お父さん、もう行っちゃった?」
お母さんは炊飯器を開けて、自分の茶碗へ白米をよそった。
小盛りの白米に生卵を落として、味噌汁をよそう。ずずっと音を立てて飲みながら、渋い顔をした。お母さんは夜型だから、朝は弱い。
「春希。お母さん、今日も原稿でこもっちゃうから、自分のことは自分でお願いね」
「うん」
「洗濯機は朝のうちに回しちゃうから、干すのお願いしてもいい? 食器はお母さんが洗うわ」
「はーい」
僕は食器を流しへ置いて、自分の部屋へ戻った。しばらく経って、洗濯機がごうんごうんと鳴り始める。
パソコンを開いて、テキストエディタを立ち上げた。昨日より格段に頭がすっきりしていて、いい感じ。
無心になって、本文をタイピングしていく。
確かに僕は恋をしているんだろう。身勝手にわがままを言う苦しさも、もどかしい思いも、……好きな人を思う楽しさも、痛いほど味わった。
僕の心が乱れているのは、リョウちゃんのせいだ。そう恨む気持ちにすら、どこか甘さが隠れている気がする。あれだけリョウちゃんを傷つけておいて、本当に最低だ。
洗濯機が鳴る。僕は洗濯物を籠へ出して、庭に干した。シワを伸ばしながら、眩しい日差しを見上げる。
リョウちゃんを、これ以上傷つけたくない。それと同じくらい、このままじっとしていられないのも、本当。
部屋に戻って、改めてリョウちゃんからのメッセージを確認する。
いつも通りの、他愛のない会話。樹くんの発言がかわいくておかしかったとか、ご飯がおいしかったとか。
リョウちゃんは、これまでと同じ関係に戻ろうと、努力してくれている。きっと恋人ごっこも、おしまい。
そして僕はこれから、そんなリョウちゃんの心遣いを、台無しにする。
返信をしようと、送信欄へ書き込んだ。
文化祭のあと、時間ある?
教室に残れたら残ってほしい。
端的に、それだけ尋ねた。既読がすぐにつく。
それきり怖くなって、僕はスマホをベッドへ置いた。ひっくり返して画面を下にして、見えないようにする。
ヘッドフォンをつけて、耳を塞いだ。またタイピングへ没頭する。
本当に情けない意気地なしだ。だけど、これが僕にできる精一杯。
僕は、後夜祭で、リョウちゃんに告白する。リョウちゃんが好きだから、あの時変な態度を取ってしまったって、謝る。
リョウちゃんは、それでかえって傷ついてしまうかもしれない。僕の傷も、もっと深く、もっと取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。
だけど今のままがいちばん嫌だ。お互いの傷に見て見ぬふりをするのが優しさだと思うけど、僕の恋心は、そんなことを許してくれない。
優しくていい子の、リョウちゃんから好かれる僕じゃなくていい。自分勝手で悪い子で、リョウちゃんに嫌われたって、恋心の生み出す衝動に従いたいんだ。
僕がどれだけ苦しんでいるか、リョウちゃんも思い知ればいい。
リョウちゃんが傷ついた分も引き受けるから、僕の気持ちを伝えたい。
ヘッドフォンでがんがんに音楽を流しながら、書き続ける。お昼ご飯はカップ麺で済ませたし、夕方になっても、お父さんが呼びに来るまで、ずっと書いていた。
食事に呼ばれて、ご飯をかきこむように食べる。お母さんは呆れたみたいに「ちゃんと噛みなさい」って言ったけど、聞くものかと思う。そしてすぐ部屋に戻って、最後の一文まで、キーボードへ叩き込んだ。
書き終わる頃には、とっぷり夜も更けていた。スマホを取り上げると、通知が一件光っている。
リョウちゃんからだ。
SNSを開いて、メッセージを確認する。
リョウちゃんはただ一言、「いいよ」と言っていた。




