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15 やがて来たるパラダイムシフト

「ところでハルくん」


 鈴木くんが、抱えていた頭をふとあげる。僕も顔をあげると、彼は神妙な顔で頷いた。


「原稿の進捗は、どうかな」

「うっ」


 文芸部で発行する部誌の最終締め切りまで、あと一週間もない。僕もまた、数多の先輩たちと同じく、徹夜コースの人になるのだろうか。

 また頭を抱えると、鈴木くんは「がんばってね」と僕の肩を叩く。なんとなく、声の調子が生ぬるい。


「締め切りは、待ってくれないからね」

「ううう」


 ここ最近ずっと恋の悩みに取りつかれて、なんにも進んでない。うんうん唸っていると、鈴木くんは「ふふ」と笑った。無駄な力の抜けた、自然な笑みだ。


「でも、ハルくん。君の素直な気持ちを、そのまま伝えればいいんじゃないかな」

「えっ?」


 首を傾げて、鈴木くんを見つめる。彼は眼鏡のずれを直しつつ、また頷いた。


「恋について、君の研究の集大成を書くんだよ。恋について理解した君にしか書けないものが、あるはずだ」

「それは、小説になるの?」


 僕が尋ねると、鈴木くんは首を傾けた。


「さあ。エッセイでもいいし、短歌でもいい。どんな形だっていいんだ。とにかく今の君なら、語る言葉があるはずだろ?」


 鈴木くんの言葉に、うつむく。深く考え込むために、ゆっくり瞬きをした。

 僕の持つ、恋について語る言葉。

 どんな形式でも構わないから、一度、すべてを出し切ってみる。


「君なら絶対できる。僕は、それが読みたい」


 鈴木くんの言葉が、背中を押してくれた。顔を上げる。


「うん。……やってみる」


 そう言うと、鈴木くんは「そうでなくっちゃ」と微笑んだ。

 僕たちは、まっすぐ顔を見合わせた。頷きあう。

 ちょうどその時、他の部員たちもやってきた。

 みんな、提出ボックスへ着々と原稿を出していく。鈴木くんは「豊作だ」と笑った。僕を含めた何人かの未提出者は顔を見合わせて、「がんばろうね」と励まし合う。

 文芸部室は、なんとなく解散の流れになった。そろそろ各クラスの準備も一段落つくだろう時間だ。

 僕が教室へ戻る頃には、大道具のいくつかが出来上がっていた。塗装した血まみれのマネキンは、ザンバラのウィッグをかぶっている。明るい教室の中を、シーツを被った男子が歩いていた。大袈裟にうねうねしながら叫ぶ。


「おばけだぞ~! お前が千人目の皿か~!」

「弁慶とお岩さん混じってね?」


 リョウちゃんが冷静に突っ込む。シーツおばけは「皿が足りない~ッ!」と叫んで、ますます激しく動いた。

 クラスのみんなも爆笑して、場はすごく盛り上がっている。

 騒がしさの中で、リョウちゃんが静かに笑うその姿を、じっと見つめた。やっぱり、リョウちゃんはかっこいい。

 でもリョウちゃんには、僕とは違う人が好きだって噂が立ってる。そして、これも噂だけど、後夜祭に告白するらしい。

 根も葉もない噂に振り回されるなんて、理性的な振る舞いじゃない。リョウちゃんにだって、失礼だ。でも今の僕は、冷静な判断ができる状態じゃなかった。

 僕の心が乱れているのは、リョウちゃんのせいだ。リョウちゃんが、僕をおかしくした。恋なんか教わらなければ、僕はもっと、平穏な気持ちでいられたのに。

 そんな恨みがましいことを、思ってしまった。はっと我に帰る。さっきの僕は、ひどく身勝手なことを思ってしまった。しかも、相手はリョウちゃんなのに。

 荷物を淡々とまとめて、教室の隅っこに立った。まだ解散の合図は出ていない。

 ぼーっとしていると、「ハルくん」とリョウちゃんが声をかけてきた。ぱっとそちらを向くと、彼の表情は少し曇っている。


「俺、何かしちゃった?」


 びっくりした。ぽかんとして、リョウちゃんを見つめる。


「なにも……ないよ。どうかした?」

「ううん。自販機、一緒に行って……くれなかったから……」


 ぼそぼそ、リョウちゃんが呟く。

 どきん、と心臓が跳ねた。こんなしおらしくて、自信なさげなリョウちゃん、見たことない。かわいい。

 気まずそうにうつむくリョウちゃんの袖を引っ張って、にこりと笑った。


「部活の方が、ちょっと忙しかっただけ。かわいいね、リョウちゃん」

「かわ」


 それきり、リョウちゃんは黙ってしまった。顔がほんのり赤く見えて、何度も頬を擦っている。表情もいかめしい。

 機嫌を損ねてしまったかもしれない。焦って、声をあげた。


「リョウちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だけど……なんで?」


 怪訝な顔をするリョウちゃんに、おずおずと尋ねる。

「顔が、赤いよ……?」


 リョウちゃんは一瞬、黙りこくった。しばらく経って、「大丈夫」と言ってうつむく。

 ため息をついて、肩に引っ掛けていたエナメルバッグを斜めがけにした。


「だっさ」


 ちいさく、熱っぽい響きの呟きだった。

 僕はなんでか、何も言葉が出なかった。


 その時、教室で解散の声が響く。それを合図に、教室から人がちらほら出ていった。


「……リョウちゃん。今日は、部活ある?」


 声をかけるのに、ほんの少しだけためらいがあった。リョウちゃんは頷いて、僕に微笑みかける。


「うん。ハルくん、いつも通り、終わったら迎えにきてよ」

「ん。うん」


 グラウンドには、リョウちゃんの好きな人かもしれない、桂木くんもいる。

 だけど、僕はリョウちゃんと一緒に帰りたい。

 桂木くんに、リョウちゃんの隣をとられたくない。


「待っててね。リョウちゃん」


 にこりと微笑みかけて、僕は教室から飛び出した。

 習った和歌を思い出す。


 私の心が乱れているのは、あなたのせい。そうなじりたい気持ちは、確かに、僕の中に芽生えている。

 だってリョウちゃんに同じくらい思われたいから。リョウちゃんの、いちばんになりたいから。


 僕の研究の集大成を、次の部誌に載せよう。

 自分の心のうちを晒すのは、恥ずかしい。はじめて小説を書いて載せたときより、ずっと怖い。

 だけど僕は、これをやらなきゃいけないと思った。

 たとえリョウちゃんに読まれたとしても胸を張れるくらい、全身全霊で。


 そして僕には、締め切り以外のタイムリミットもあった。

 リョウちゃんが後夜祭で告白するなら、僕はその前までに思いを伝えなくちゃいけない。

 もしリョウちゃんが告白したとして、断られるなんてことは考えにくい。だって、リョウちゃんはあれだけ素敵な人なんだから。

 恋人のいる人に告白するのと、いない人に告白するのとでは、全然こちらの心持ちが違う。


 僕がリョウちゃんに告白しなかったとしても、何も変わらない。むしろ僕が告白することによって、リョウちゃんとの関係は、取り返しのつかない変化を迎えてしまうだろう。

 だけど今のままが、いちばん嫌だ。リョウちゃんと両思いになれなかったら、いっそ友達でいる方がつらい。


 パラダイムシフト。取り返しのつかない、大きな変化。

 それを最初に望んだのは、リョウちゃんなんだから。

 恋は身勝手なものだって、嫌というほど分かった。だから僕は僕の身勝手さで、リョウちゃんを傷つける覚悟を、しなきゃいけないのかもしれない。


 そしてそれは、ものすごく恐ろしいことだと思った。

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