14 君が出会いを忘れていても(涼太視点)
小学校四年生の野外学習ではじめて、ハルくんのことを認識できた。これまでクラス替えで一緒になったこともあるだろうし、話したこともあっただろう。
でもその時の気持ちこそ、俺にとっての、彼への第一印象だ。
その頃の俺は、周りにまったくの無関心だった。同学年とは話が合わないし、一緒にいても楽しくなかったし。幼稚で話にならない、と本気で思っていた。
だから野外学習で水族館に行く朝、家を出る時熱っぽくても、誰にも言えなかった。
母さんはまだ赤ちゃんの弟のお世話で忙しかったし、父さんは仕事で忙しい。同級生は頼りにならない。先生も、「須藤くんなら大丈夫」って放置気味。
何より、体調を崩したって言ったら、面倒なことになる。きっと周りは大騒ぎするし、それはすごく面倒くさい。母さんと父さんにも、迷惑はかけたくない。
だから、我慢していた。幸い咳の出ない風邪だったから、バスではずっと寝ていた。隣に座っていたハルくんは大人しかったから、それだけはありがたかった。
野外活動の目玉は、水族館のイルカショーだった。
入り口を入ってすぐ、イルカの水槽だ。すぐ横では、シャチも泳いでいる。猛スピードで泳ぐイルカやゆったりひれを動かすシャチに、みんなが目を奪われていた。その間、俺はずっとふらふらして、壁へよりかかっていた。
そのままなんとか引率についていったけど、ペンギンの水槽の前で力尽きてしまった。床にうずくまって眺めた人混みと、黄色い帽子をかぶったみんなの後ろ姿を覚えている。
引率の先生は他の問題児たちの相手をしていて、「いい子」の俺なんか目もくれなかった。次はイルカショーだからって、みんながぞろぞろ歩いていく。
どうして、と思った。母さんと父さんは弟にかかりきり。先生たちも俺は大丈夫だって決めつける。同級生たちは話にもならない。
このまま俺がはぐれて、騒ぎになるのかな。そうしたら、みんな、やっと俺の相手をしてくれるのかな。
ひんやりした薄暗い空間で、そんなことをぼんやり考えていた。その時に、ひとりこちらへ戻ってきた子がいた。
その子が、ハルくんだった。
「須藤くん、大丈夫?」
見上げると、薄暗い中で、大きな丸い瞳がキラキラ輝いて見えた。差し出される手のひらはやわらかそうで、思わず、その手を取っていた。ひんやりとしていて、心地いい感触だったことを、よく覚えている。
「バスの中でも、具合悪そうだなって思ってた。声かけられなくて、ごめんね」
そう言って、なんでもないことみたいに、ハルくんは俺の手を引いた。
しばらく経って、先生たちが慌ててこちらへやってくる。俺たちがいないのに気づいたんだろう。
「須藤くん、体調が悪いみたいです。僕、側にいます」
そして、イルカの水槽前の階段に二人で座った。ハルくんは、せっかくのイルカショーも見ないで。
先生が一人残って、僕たちを見ていたけど、気持ちとしては二人きりだ。
ハルくんは、動けない俺の側にずっといてくれた。嬉しかった。それと同じくらい、後ろめたかった。
その時の俺は具合が悪くて、そこまでの頭は回らなかったけど、今の俺が言語化するならさっきの通りだ。
とにかく、申し訳なかったことを覚えている。
「ごめん」
小さな声で謝ると、ハルくんはきょとんとした顔で首を傾げた。
「なんで?」
「せっかくの水族館、回れなくて。いいの? 俺のことは放って、行っていいよ」
もごもご言った言葉は上っ面だけで、全然本心じゃない。なんでか、この子に、離れてほしくなかった。
そしてハルくんは、「なんだ」と笑ったんだ。
「僕がここにいるのは、僕が決めたことだよ。それにほら」
ハルくんの指が、イルカたちを指差す。
「イルカをのんびり見るなんて、なかなかできないしね。見て、あそこの……」
そしてマイペースに、イルカの一頭一頭の様子を話す。
きっと、俺のことを心配してくれているんだろう。その上で、彼は俺の隣で、こうして水族館を楽しんでいる。
それがなんだか、ものすごく、大きなことに思えた。
引率の先生に、体温計を渡された。熱は三十八度近い。
ふうふうと息をする俺の隣で、ハルくんは、じっとイルカを見ていた。
帰りのバスの時間には少し熱が下がって、三十七度くらいになっていた。だけど、まだしんどい。
バスに乗り込んで、ぐったり窓辺によりかかる。首のすわりが悪い。
「こっち来ていいよ」
ハルくんの柔らかい声が、誘った。俺は抗えずに、その薄い肩に体重をかけた。
少しひんやりして、気持ちいい。
次に目を覚ましたときには、学校へ着いていた。
ハルくんはみんなが下車しても、動けない俺を気遣ってか、最後まで降りていなかった。
みんな着々とお迎えが来て、ハルくんのお母さんも迎えに来る。
うちも母さんがすぐ迎えに来ると言ったらしいけど、まだ来ていなかった。赤ちゃんがいると大変らしい。
「まだ須藤くんにお迎えが来てない。須藤くんと一緒に帰る」
ハルくんは、そう言って駄々をこねた。いつもだったら、申し訳なく思うくらいに。
だけど俺は、不思議と、嬉しかったんだ。
この子が俺のために、わがままを言ってくれているのが。
結局おばさんが根負けして、俺とハルくんは、一緒に俺のお迎えを待った。
しばらく経って、母さんは汗びっしょりで、息を切らせてやってきた。何度もハルくんとおばさんに頭を下げて、俺を車へ乗せた。
母さんはシートベルトを着けながら、俺に何度も謝っていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「ううん。大丈夫」
いつもだったら、母さんを気遣って、強がるための言葉だ。
でもその時、はじめて、心からそう思った。
俺の風邪は、一晩で治った。翌朝登校して、いちばんにハルくんへお礼を言おうと思った。だけど、彼は風邪で欠席だった。俺がうつしたんだ。
プリントを送る係に立候補して、ハルくんの家にお邪魔した。
ハルくんは顔が真っ赤で、咳が出ていて、苦しそうだった。熱も高そうなのに、フラフラの状態で、出てきてくれた。俺のせいで、こんなに苦しんでいる。申し訳ない。
だというのに俺は、ハルくんのパジャマ姿に、どきどきしていた。弱っているハルくんに、胸騒ぎがした。
「……ごめんね、うつしちゃって」
彼は自分のせいで苦しんでいるんだから、謝らなければいけなかった。僕がちいさく頭を下げると、ハルくんは「だいじょうぶ」とガラガラの声で言った。
「須藤くんが、元気になってよかった」
その笑顔に、俺の中の何かが、ぱちんと弾けた。
もう風邪は治ったはずなのに、じわじわと身体の熱があがっていく。
「えっと……志村くん。これ、プリント」
ハルくんは俺の手からプリントを受け取って、名前の書かれたファイルにそれをしまった。志村春希。春希が、彼の名前。
「あとハルくんって呼んでいい?」
なぜか俺の口を、そんな言葉が突いた。ハルくんのぽかんとした顔に、俺はしどろもどろになった。ものすごく気まずかったことを、よく覚えている。
「いや、ごめん、急に。変だよね」
恥ずかしくて、うつむく。だけどハルくんは「うれしいな」と、またガラガラの声で言った。
「じゃあ僕は、リョウちゃんって呼ぶね」
こうして、俺は完全に、ハルくんへ「落ちた」。
幸いにも俺たちは気が合った。ハルくんは勉強が好きで、俺との会話も楽しんでくれた。
俺たちが一緒にいるのは当たり前の日常になって、中学の時もずっと一緒。それから当たり前のように、同じ高校を志願した。
ハルくんは、勉強熱心だ。俺の志望校へも、ついてきてくれた。
そんな彼は、恋が分からないことに悩んでいる。だったら俺が教えてあげたい。
つまりは、俺を好きになってほしい。
楽しくて、つらくて、時々虚しい、喜ばしいこの気持ち。重たいくらいの愛を、俺に抱いてほしいんだ。
俺の初恋は、小学生の頃から今に至るまで、ずっと続いている。
ハルくんが俺たちの出会いを忘れていても、差し出された小さな手を、俺はきっといつまでも覚えているんだろう。




