それは確かに愛だった
侯爵令嬢の婚約者である公爵令息には、男爵令嬢でメイド見習いであるという可愛らしい幼馴染みがいた。幼馴染みを優先する婚約者との婚約を解消しようとする侯爵令嬢のお話。
侯爵令嬢エイヴリルの婚約者である公爵令息クリフォードには、幼馴染みで公爵家のメイド見習いの男爵令嬢がいる。
名前はリリアンという。幼げで儚げな、男性受けの良さそうな見た目の少女だった。
エイヴリルとクリフォードの婚約は政略によるものだ。王弟を祖父に持つクリフォードと、国内随一の財力を持つエイヴリルを妻合わせようという考えだった。
クリフォードは優秀な男だ。学園での成績も良いし、特に魔法力に関しては、当代の直系王族をも凌ぐのではないかと専らの噂だった。このまま才能を伸ばしていけば、王宮魔法師団長も夢ではないだろう。
ただ一つ、クリフォードには大きな問題があった。どこに行くにも、人目を憚らずリリアンを連れ歩いているのだ。
エイヴリルとクリフォードの間に特別な感情はない。婚姻とそれにまつわる契約さえ守ってくれれば良いのだから、愛人くらい好きに持てば良い。貴族などそんなものだ、とエイヴリルは理解している。
けれど、正当な婚約者であるエイヴリルを差し置いてまでリリアンを連れ回すのは、お話が違ってくるのだった。これでは、エイヴリルの生家である侯爵家まで侮られかねない。
エイヴリルは何度となく、リリアンに注意をしたし、クリフォードに進言をした。けれど、二人の反応は芳しくないのだった。
リリアンは身分の差を乗り越えてクリフォードが自分を選んでくれると思い込んでいたし、クリフォードはリリアンに関しては、いちいち愛人のことなど気にするなと言わんばかりだった。
愛人を持つなと言っているのではない、侯爵家を軽んじるなと言っているのだ。周囲に悟られないようにさえしてくれれば、侯爵家もエイヴリルも愛人の一人や二人など気にしなかっただろう。
けれどクリフォードの態度は変わらず、ついにはエイヴリルと婚約破棄を考えているという噂まで流れてきた。これではどうにもならぬと、エイヴリルは婚約解消に向けて動くことにしたのだった。
エイヴリルとクリフォードの婚約は、王家の意向を多く含んでいる。その婚約を蔑ろにしたとなれば、公爵家といえども無傷とはいかないだろう。
最後の優しさでクリフォードに婚約解消を匂わせてやれば、ようやくそこでクリフォードは危機感を持ったらしい。慌ててリリアンとの関係を絶つと伝えてきた。
別にリリアンと関係を持つなと言っているのではない、侯爵家を重んじてさえくれればそれで政略は成り立つのだ。
そのことをエイヴリルは伝えたが、数日後には学園にリリアンの訃報が流れた。公爵家が切り捨てたのだろう。
エイヴリルとしては三文小説のようにリリアンに嫌がらせを受けたり、悪評を流されたりしたわけではなかったので、身分違いの男に恋をした挙げ句に命を落としたリリアンを少しだけ哀れんだ。
エイヴリルから見てもはっきりと、リリアンはクリフォードに恋をしていた。侯爵令嬢であり自由な恋などままならないエイヴリルはそんなリリアンを愚かしく思いながらも少しだけ眩しく感じていたので、リリアンさえ良ければ条件の良い嫁ぎ先でも紹介してやろうかと思っていたのだ。
ようやく第三者のいなくなった婚約者同士のお茶会で、クリフォードがエイヴリルに微笑みかける。幼馴染みの愛人を喪ったにしても、その顔色が異常なほど悪いのが気になった。
***
さて、そんなリリアンであるが、実は生きていた。エイヴリルの予想通り、リリアンは公爵家の雇った殺し屋に殺されるところであったが、辛うじて生き延びていた。
リリアンの状況を案じた両親から、あらかじめ使い切りの幻覚の魔道具をこっそりと持たされていたのである。使い切りでありながら非常に高価な、そこらの魔法士であれば容易く騙せるほど強力なものである。
きっと今ごろ、リリアンの訃報が公爵家と男爵家に齎されているのであろう。リリアンは殺されそうになったショックから、しばらく道ばたに蹲って震えていた。
混乱した頭が冷静になれば、リリアンにも状況が見えてくる。リリアンは公爵家から切り捨てられたのだ、と気づいた。
「あんなに……」
リリアンは呟いて、自分の喉が酷く掠れていることに気づいて、唾を飲み込んだ。水分の少ない唾は、飲み込みづらかった。
「あんなに、クリフォード様に尽くしたのに」
そっと両手を握り込む。小さな手は、メイド見習いであるということを差し引いても貴族のご令嬢にしてはカサついたものだった。クリフォードのために普段から無理をして魔法を使っていたから、代謝が追いついていないのだ。
可愛らしいと言われる顔も、肌の荒れをメイクで誤魔化しているだけだ。学友たちの何もしなくても滑らかな肌が、リリアンは本当は羨ましかった。
けれど、それでも構わなかった。クリフォードのために魔法を使った。勉学も手伝ったし、生徒会の仕事だって負担した。何もかも全て、クリフォードを愛していたからだ。
何しろクリフォードは、当代随一の魔法力と謳われるクリフォードは、実のところ平民程度の魔法しか使うことができないのだから。
クリフォードは生まれつき、貴族としては珍しいほど魔力が低く生まれてきた。間違いなく王家の血筋のはずなのに、貴族の価値の一つでもある高い魔力を持たないクリフォードは、公爵家からしても王家からしても扱いに困る存在だったのだ。
魔力というのは生活環境によっても増減するものだし、特に子どものうちは環境の影響を受けやすいものだ。子どもの頃から魔力を伸ばすためにあらゆる環境が整えられ専門の講師を呼ばれて鍛えられ、それでもクリフォードの魔力は平民と同程度か、それよりも多少マシな程度しか成長しなかった。
これでは、クリフォードは表舞台に立たせられない。公爵家から平民程度の魔力の子どもが産まれたとあっては、血筋を疑う声はいつまでも消えないだろう。
七歳か八歳の頃にとうとう見切りをつけられて、クリフォードは遠縁の低位貴族に養子に出されるはずだった。その予定がなくなったのは、両親が公爵家に仕えていてクリフォードと兄妹同然に育ったリリアンの存在があったからだ。
リリアンは生まれつき、非常に優れた魔法の素養を持っていた。その中でも、他者の能力を引き延ばし、増幅する魔法を極めて得意としていた。つまり一般に付与魔法と分類される魔法に関して、リリアンはほとんど奇跡的な才能を持っていたのである。
リリアンは子どもの頃から、ずっとクリフォードが好きだった。クリフォードの両親である公爵夫妻に、将来は二人を結婚させてあげると言われて、リリアンはクリフォードのために力を尽くすことにしたのだ。
リリアンもクリフォードも今年で十八歳だから、十年。ずっと、ずっと、リリアンはクリフォードのために魔法を使ってきた。
クリフォードが学園に入学してからは、剣の授業でも、魔法の授業でも、クリフォードの能力向上に寄与した。そのために魔力の大半を割いているせいで、リリアン自体の学園での魔法分野の成績は散々なものだった。
それでも良かったのだ。リリアンは、クリフォードを愛していたから。
自分の才能のなさに絶望して、いつもいつも泣いてばかりで、けれど大泣きしながらでも魔法講師たちに食いついていた、負けず嫌いでひたむきなクリフォードを愛していた。
ただでさえ身分差があるのだから、クリフォードと結婚するためには身を削ってでも役に立たなければいけないと思っていた。クリフォードがエイヴリルと婚約したときには足元が崩れるような気持ちがしたけれど、クリフォードが必ずリリアンと結婚すると約束してくれたから頑張れた。
クリフォードを愛していた。クリフォードの囁く愛を信じていた。身分など関係ない、リリアンと結婚したいと訴える声の熱に浮かされていた。
けれど、切り捨てられた。クリフォードは、あるいは公爵家は、エイヴリルを選んだ。それどころか、不要になったリリアンは殺されそうになった。
もともと、いつまでもエイヴリルとの婚約を解消しないクリフォードに対して少しずつ不信感が募っていたのだ。自分で自分を誤魔化していただけ。けれどそれも、クリフォードがエイヴリルを選んだ最後の瞬間に誤魔化しきれなくなった。
公爵家の跡取りである自分が、たかだか男爵令嬢なんかを娶るわけがないだろう。クリフォードは半笑いで、馬鹿にしたように、当たり前みたいな顔で、そう言ったのだ。
あの瞬間に、リリアンの中からクリフォードへの最後の愛が消え去ったのだ。
愛が消えれば、周りが見える。クリフォードはいつからか、魔法の才能を持て囃されることに慣れて、少しずつ傲慢になっていた。
リリアンが愛した、あの、魔法の一つも使えないけれど歯を食いしばってでも努力することを止めなかった小さな男の子は、もうどこにもいないのだった。
色々なことを思い返して、リリアンは泣いた。泣いて、自分の初恋に別れを告げた。
しばらく泣けば、次は自分の進退を考えなければならない。公爵家には当たり前だけれど戻れない。公爵家に仕えている男爵家にも戻れない。リリアンが生きていることを知られれば、家族まで巻き込まれるだろう。
思い出して、リリアンは家族から押しつけられたもう一つの魔道具を引っ張り出した。それは小さな空間収納の魔道具で、先ほど使った幻覚の魔道具ほど高価なものではなく、平民たちの間でもプレゼントの受け渡しなどによく使われるものだった。
空間収納の中には、数年は暮らしていけそうな金貨と、衣服や食料などが詰め込まれていた。
最後にひらりと落ちてきた家族からの手紙を握りしめて、リリアンはもう一度泣いた。それから彼女は、立ち上がった。
頭の中に地図を思い浮かべて、教会に向かう。
教会に駆け込めば、救済院に逃げ込むことができる。家族からの暴力や、権力による魔法力の搾取などから人びとが逃げ込むための施設で、救済院に入ってしまえばたとえ王族であっても容易に手を出すことはできない。
生きよう、とリリアンは思った。男爵令嬢のリリアンは公爵家に殺されてしまったけれど、それでもただのリリアンはまだ生きている。
公爵家を敬愛していた。仕えることに否やはなかった。
クリフォードを愛していた。結婚して二人で幸せになれると、本気で信じていた。
クリフォードへの愛は失ったけれど、リリアンの手の中には、家族からの愛がある。たぶんもう会うことはできないけれど、家族から受けた愛があれば、リリアンはどこまででも歩いて行ける気がした。
それから数年後、救済院を経由して隣国に渡ったリリアンは、二人で一人の聖女として他国にまで名を馳せることになる。家族に虐げられて魔力回路が傷ついた一人の少女と出会い、姉妹のような関係を築いて二人三脚で少女の才能を伸ばし、二人で力を合わせて酷い呪いに冒された王妃の命を救ったのだ。その途中で出会った王子たちに二人揃って求婚されることになるのは、また別の話である。
男爵家の爵位を捨て、リリアンを追って隣国に渡った家族との食事中に、かつての故国のとある公爵家から届いた釣書は、リリアンの手に渡る前に同席していた王子によって燃やされることになった。
お久しぶりでございます。思いついたら書きに来るし、思いつかなかったら書きに来ません。そんな感じで生きております。
なろうにもようやく収益化サービスが追加されるらしいというお話を聞いたので、とりあえず試しに上げてみました。アイスの一個でも買えたら良いかな。
ちなみに侯爵令嬢は公爵令息が役に立たなくなった時点でフツーに婚約解消してフツーに別の人間と婚約して婚姻してフツーに幸せに暮らしております。なぜなら、彼らの間には政略はあっても愛はなかったので。
【追記20251104】
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/799770/blogkey/3528822/




