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【アップ】2025年6月15日(日)10時半 主日公同礼拝/讃美歌とMy noteもあります

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(不思議のパルプンテ)

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782



【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



【本日のメッセージ】

https://youtu.be/nmLy1lN4LTk


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12912072826.html

ブログを見てくださると聖書や讃美歌も閲覧できます^^



2025年6月15日 礼拝説教 聖書箇所 


これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。」

使徒言行録21章20節


わたしが心に悪事を見ているなら 主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け聞き入れてくださいました。

詩編66編18,19節


はじめに

わたしたちの祈りと導きはどこに向かっているか。宣教における交わりから学ぶ。


1

「数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った」。カイサリアでエルサレムに行かないように引き留められながら、なお数日を祈りをもって過ごし、当初からの目的地エルサレムに向かった。「カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれる(滞在用)ように案内してくれた」。カイサリアの弟子たち数人は、勇気づけられパウロたち一行と同行した。また、五旬祭で各地から多くの人が集まり、宿泊場所の確保が困難となる事等を見込んで、安全な家を案内した。「ムナソン(マナソン)は、キプロス島(クプロ人)の出身で、ずっと以前から弟子であった」。ムナソン(ギリシャ語名)は、キリストの七十人の弟子の一人、もしくは、パウロたちによるキプロス宣教による回心者の一人。老齢であったが、自分の家を宿として提供した。かつてペトロはコルネリウスの家を訪ねて、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(使徒10章28節)と言った。ここにも、同じ、神の恵みが共にある交わりがあった。


「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。」「兄弟」とは、主イエス御自身が、御自身の贖いのゆえに、聖とされた者たちを一つのものとしてくださっていることを証しする(ヘブライ2章11節)。「翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老たちが皆集まっていた」。ヤコブはイエスの弟。「パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕(任務)を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく(一つ一つ)説明した。これを聞いて、人々は皆神を賛美し」た。数年前のエルサレムにおける使徒会議においては、割礼を救いの条件とする教えに対する意見の対立が生じた(使徒15章1節)。しかし今回は、喜びと賛美から始めるところに一定の変化を見ることができる。


「(人々は)パウロに言った。『兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、「子どもに割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。」と言い、誓願を立てた四人の者たちと一緒にいって身を清めるように提案する。それは、まったく外面的な儀式であるが、ある律法の慣習を守っていることを見せる意味があった。また、「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、みだらな行いを避けるようにという」先の会議の決定を「異邦人で信者になった人たちに」「すでに手紙を書き送った」旨も報告された。パウロはこの提案を受け入れ、それを実行した。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたによって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」(ローマ14章15,16節)


おわりに

神の御前に自分の分をわきまえるとき、わたしたちは謙遜の祈りに導かれる。聖なる僕イエスの御名により、主の最善を、最善の手段:御言葉と祈りを心を尽くして求めたい。


(My note)


二〇二五年六月一五日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。


(子供メッセージ)


『スコットランド教会新カテキズム』


「使徒信条の六つ目の箇条は何を含んでいますか。」


「栄光に至るイエス・キリストの更なる高みとその実現です。」


イエス様は十字架の上で苦しみを受け、死にて葬られ、陰府よみに下り、三日目に死人の内より甦り、天に上り、全能の父なる神の右に座し給えり。イエス様は復活された後に弟子達の前に現れ、共に食事をし、弟子達を信仰に於いて励ました。そして今もイエス様は全ての人を信仰に於いて変わらず励まし続け、救いの源に在る。


(公同礼拝)


『使徒行伝』(第二一章一五〜二六節)


『詩篇』(第六六篇一〇〜二〇節)


この『使徒行伝』の箇所は、パウロが旅装を整え、エルサレムへ上る場面から描かれてある。


エルサレムに到着すると、クリスチャンの兄弟達は喜んでパウロ達を出迎えた。


しかしヤコブを訪問した時、そこに数人の長老達(信仰厚いユダヤ人の偉い人達)が集まって居て、パウロに告げた。


「兄弟よ、ご承知の様に、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にも上って居るが、みんな律法に熱心な人達である。ところが、彼等が伝え聞いて居るところによれば、あなたは異邦人ノンクリスチャンの中に居るユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例に従うなと言って、モーセに背く事を教えて居る、と言う事である。どうしたら良いか。あなたがここに来て居る事は、彼等もきっと聞き込むに違いない。ついては、今私達が言う通りの事をしなさい。私達の中に、誓願を立てている者が四人居る。この人達を連れて行って、彼等と共に清めを行い、また彼等の頭を剃る費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、噂されて居る事は、根も葉も無い事で、あなたは律法を守って、正しい生活をして居る事が、みんなに分かるであろう。異邦人で信者になった人達には、既に手紙で、偶像に供えたものと、血と、締め殺したものと、不品行とを、慎む様にとの決議が、私達から知らせてある」。


そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼等と共に清めを受けてから宮に入った。そして清めの期間が終わって、一人一人の為に供え物を捧げる時を報告しておいた。


詰りパウロはこの時のユダヤの長老達に歯向かわず、言う通りにした。このユダヤの長老達が勧めた儀式は信仰に於いて何の意味も無かったが、パウロは敢えてそれに従い波風立てず、それで福音に就けるならと、とにかく信仰の途に就いた。


当時ユダヤ人達は、自分達の信仰に誇りを持って居り、他のノンクリスチャン(異邦人)を始め、自分達と少しでも違う信仰の仕方をして居た人達、また自分達の信仰の在り方を多少なり非難する人達に対し、傲慢と嫌悪と嗜めを以て居た。だからパウロにも自分達の信仰の作法を伝え、モーセの律法を守らせ、旧い慣習に改めて習うよう働き掛けて、自分達の縄張りにパウロを引き込んだのだ。パウロは神様のもとで信仰に就き、その儀式の在り方を問題とせず、この時は福音に従う形で敢えて彼等の慣習を受け入れた。


信仰厚いユダヤ人達は「自分達は十戒に在る教えを悉く守り、自分に欠けて居るところは一つも無い」と言う強靭な姿勢で臨んで居た。この点に傲慢と盲目が在る事はイエス様に既に諭されて居り(『ヨハネによる福音書』第九章参照)、その傲慢ゆえに他人を自分達(自分)の主観で裁くのに早かった。十戒には「しゅよ。私達を憐れみ、この戒めを守る心をお与え下さい。アァメン」と締め括る。祈りの形で締め括る。もし人が十戒の全てを悉く守れて居たなら「この戒めを守る心をお与え下さい」と言う必要は無い。詰り誰一人この十戒を完璧に終始守る事が出来ないからこう祈るのであり、その「守る心」を日々連続して持つ努力を覚える上、その力は祈りに依り、信仰に依ってしか与えられない。そして信仰に依り祈り続けて居ても、人は生来罪人に在る上、イエス様の様に終始、その十戒(教え)を守る事は出来ないのである。十戒は即ち、常に信仰に戻る為に自分を煽る鑑に成ろう。この事は今も続いて居る。


どんなに信仰厚い者でも、ただ自分でそう思い込んで居るだけで、神様が人に教えた信仰から掛け離れて居る事がある。常に信仰に於いて自分の在り方を問い、信仰の成就から見て常に自分に欠けて居る処を問い、認め、その上で神様に少しでも喜ばれる息子・娘になれるよう祈り続ける姿がクリスチャンの本来に在ろう。「他人を裁けば、その同じ裁きの秤で自分が裁かれる」これを覚える上で誰かを裁こうとする時、その裁きで先ず自分を裁くべきである。それより裁こうとするその相手の為に祈り、自分も共に信仰に於いて救われる様に神様に祈る事。この事の大事が、今でも変わらず問われるのである。


クリスチャンは、信仰に導かれようとしている異邦人の邪魔をしては成らない。この事も常に覚える必要がある。イエス様が全ての人に成され、教えた事を常に思い出す様にし、その上で信仰に従順であれば、異邦人が自分と共に救われる事を先ず祈り願う。そう出来ない時は、信仰より自我を先に立たせて居る姿勢に在り、その姿勢をこそ正さねば成らない自分を知る。常に遜りの信仰を。




【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」

https://www.youtube.com/watch?v=q0lc_w0zV-I&t=1s


「わたしはよみがえりです。いのちです。」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7bqAl-LCXzQ


イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)

https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬

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