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 その日のひいらぎは月光宮の私的な空間ということもあってか、重い装束を脱ぎ捨て単姿で髪を束ねてさくと遊んでいた。女房たちははしたないと慌てていたが、「春から夏にかけては私にとっては麗扇京みやこは暑くて」と柊は笑っていた。


 波打つような癖毛の黒髪を持つ、柊と直毛の朔。きっと朔の髪質は父親譲りなのだろうと朝霧あさぎりは思った。


 その様子を眺めていたら、朝霧の隣に白雪しらゆきがやって来た。朝霧は、最初の頃に柊と白雪が入れ替わっていたので何となく本物の白雪に対して気まずい思いを抱えていた。


 「あまり、驚かないでくださいね。姉様…皇后様はいつも大胆なことをなされるの。それにここの気候がちょっと暑いという気持ちは私にもわかるから」


 白雪は子犬のように戯れあっている親子を見つめて、微笑ましそうに笑った。


 「今の皇后陛下と若宮様は、まるで何のしがらみもない普通の親子のように見えます」


 朝霧は公澄こうちょうの言葉を思い出していた。言葉が遅れているという公澄の考えは少し焦りすぎなのではないかと朝霧は思う。朔は、これは嫌い、あれは好きといった意思表示はちゃんとしているし、年相応に思える。ただし、帝となる者としてはもっとしっかりしなければならないという意見もわかるのだ。


 ただ朝霧は朔ののびのびとした育ち方が、柊の方針なのだとわかっていたし、幸せを潰すような育て方を柊が望んでいないこともわかっていた。


 そして、朔の排泄障害。これはおねしょのことを言っているのだろう。幼子にはよくあることだが、公澄は深刻に捉えているようだ。しかし、それは朔が日嗣の御子に相応しくないと中宮派などの敵から攻撃される要素を減らそうとしているのだとわかる。公澄も朔を心配しているのだということは伝わってきた。


 「朝霧殿から見て、皇后様もそう見えたなら嬉しいと感じると思います。今上陛下と皇后様はきっとただの平民として生まれても幸せになれたでしょうから…」


 白雪が()()()と過去形で語るのは今の帝は、中宮にも御渡りするからだろうかと朝霧は思った。平民は一夫一妻だ。鳥のつがいが木の枝の上で互いを暖め合い寒い夜を過ごすように、濃密な二人の愛の時間があったことを白雪も知っている。だから、それを惜しみ寂しいのだろうか。


 「あー、朔! もうお馬さんごっこはおしまい」


 柊が疲れの叫びを上げた。女房の一人が、「皇后陛下、按摩あんまでも致しましょうか」と声をかける。柊はそれに頷いたが、朔はまだ遊び足りないのか不満そうな顔をした。


 柊がにやりと笑い、朝霧と目が合った。朝霧は嫌な予感が身体中を駆け巡った。


 「朔、朝霧に遊んでもらいなさい」


 柊の言葉に、朝霧の嫌な予感は当たった。朔は水晶のような純粋な瞳で朝霧を見ている。白雪はくすくすと笑った。柊は按摩をしてもらいに、別室へと去っていき、白雪も文書の整理の仕事があると去っていってしまい、室には朔と朝霧だけが残された。


 朔は人見知りが激しいと聞いていたので、新人の朝霧は朔を泣かせてしまわないように慣れてもらうまでは距離を取っていた。それがまさか、一対一で遊ぶことになろうとは。


 「朝霧…」


 朔が朝霧の名前を初めて呼んだ。朝霧は膝をつき、朔と目線を合わせた。


 「何でございましょう。若宮様」


 朝霧が答えると、朔は無垢な瞳を朝霧に向けた。


 「朝霧は小夜さやの代わりに来たの?」


 朔の疑問にどう答えていいのか、朝霧は一瞬だけ迷った。朝霧の皇后付きの女房への昇格は、不審死を遂げた小夜の代わりの補充だと見られている。しかし、実際は小夜の不審死──皇后暗殺未遂の犯人を探すために引き抜かれたとは月光宮の中でも柊と白雪しか知らないことだ。


 「はい。若宮様に、そして皇后陛下にお仕えするために参りました」


 朔はもじもじとし始めた。まだ完全に人見知りを克服できたわけではないのだろう。


 「あのね、朝霧はこの前、公澄に会った?」


 「はい。お会いしました」


 朝霧が答えると、朔は「私は会えなかった」と寂しそうな顔をした。朝霧が公澄の検屍記録を確認した日、医者が宮に長居しては皇后の体調に何か変化があるのかと勘繰られるかもしれない、と早々に帰ったので朔は会うことができなかったのだ。

 皇后のもとに医者が行く、何かの病だと思われても都合が悪いし、懐妊の兆しがあると思われても困る。敵が毒を盛るかもしれない。


 「公澄は、夜に漏らしちゃうこと…言ってた?」


 朔は恥ずかしそうに尋ねた。きっと公澄は朔の排泄障害を心配しているのだろう。しかし、その心配している様を朔にも気づかれて余計な心配を朔に与えてしまっている。


 「若宮様、おねしょは次第に治るのでそう不安がらなくともよろしいのです。私はもともと典薬寮におりました。私の言葉を信じてください」


 そう言うと、朔は恥ずかしそうに笑った。その笑みが柊のものとそっくりだった。


 「父上が、遠くに行ってしまって不安なの」


 きっと、中宮のもとに通うようになったことを言っているのだろう。中宮のもとに通うようになる前は、帝は足繁く皇后のもとに通い、朔たちは家族団欒のひとときを過ごしていたと話を聞いている。


 「匂いがね…変になっちゃったの」


 朔の言葉に朝霧は目を見開いた。匂い、纏う香が変わったのだろうか。ただの自らの好みの変化か、中宮が好む香に変えたか。


 「匂いが変とはどういうことですか…?」


 朝霧は嫌な予感がした。自分が疑い深いだけで空回りするならそれでいい。


 「えっとね、父上が病気になっちゃった後から匂いが変わった。前はね、あったかくて優しい匂いがしたけど、今は違うの」


 朔も具体的に匂いがどう変化したかは言葉にできないようだった。その匂いの変化が、病人特有の体臭を指すのか、香を指すのかわからない。しかし、典薬寮の帳簿を確認した時の朝霧の嫌な予想が急に現実味を帯びて来た。


 帝が病に臥せったのと同時期に、不自然に処分された砒霜ひそを含む薬たち。中宮への心変わり。香で殺された小夜。皇后の飲み物に砒霜を入れるには。


 何か、大きな波のような一連の流れがあるような気がしてならなかった。


 「朝霧…?」


 朔の大きな瞳が、朝霧を見つめる。この子の小さな肩に、帝としての器を求める周囲の圧力からも守りたいと思った。




***




 朝霧は、自ら願い出て月光宮での仕事に、朔と遊ぶだけではなく皇后の文書整理をしたいと申し出た。典薬寮てんやくりょうへの調査、宮中に流れる噂の収集と並行してこなすと言えば、柊は承諾してくれた。


 「手伝ってくださるのはありがたいことですが、朝霧殿にしかできない役目もありますから無理しなくても良いのですよ?」


 皇后の文書を管理する役目の白雪は、心配そうに朝霧を見た。


 「大丈夫です。私も少しでもお役に立ちたいので」


 朝霧はそう答えて、書庫にずらりと並ぶ棚を見た。典薬寮の薬棚くすりだなには薬草の匂いが漂っていたのに、ここは少し埃の匂いがする。一度白雪と書庫の整理をしたことがあるが、あの時の白雪は柊が化けていたものだった。


 白雪が皇后としての公式文書を整理している間に、朝霧は柊の私的な文書を探った。特に帝との間でやり取りされていた恋文を調べた。


 朝霧に恋文を見られるという恥ずかしめを知らず知らずのうちに受けている柊には申し訳なかったが、朝霧の中に芽生えた疑惑を確かめるためにはこうするしかなかった。


 帝と柊の間の文は、有名な詩を用いたものだったり時には詩を創作して、会えない時間を補い合っているように見えた。帝が病に倒れる時期までは。


 「やっぱり…」


 朝霧は静かに呟いた。病から回復した後に贈られてきた文の筆跡が、病に罹る前とは違ったのだ。


 「私の目は誤魔化せない。よく似せてあるけど、別人だ」


 誰かが代筆しているのか。病の後遺症なのではという可能性は他の文とも照合してみて消えた。


 「以前の今上陛下は、右利きだった。でも今は左利きになっている」


 白雪が席を外した隙に、朝霧は恋文の中でも特に「病の後」に書かれたものを丁寧に並べ、光の角度を変えながら文字を見つめた。


 「やはり、筆圧も違う。文字の重心も変わっている」


 どれほど似せようとしても、書き慣れた者の癖は誤魔化せない。病の後に贈られた文の筆跡は、明らかに左手で書かれていた。かつての帝は、右利きだったはずだ。


 「まさか、まさかそんな…」


 朝霧は震える指で文を巻き戻しながら、初めて感じた「恐怖」に身を包まれた。これは単なる政争ではない。何か、もっと根深く、国家を揺るがすような。




***




 そして朝霧は、小夜が死んだ夜に炭を細工できた者を調べるために炭や火鉢の管理をしている女嬬にょじゅたちの身辺調査を開始した。

 女嬬に至るまで、身元のしっかりした皇后に仕えるに相応しい身分の娘たちだった。だからこそだろう。平民出身の皇后より身分の高かったはずの中・下級貴族の娘たちだ。きっと矜持の高いものは平民に仕えているということを不満に思っているはずだ。


 朝霧は噂好きのお喋り者という仮面を被り、女嬬たちの複雑な境遇に理解ある女房を演じながら、接触した。


 「この前の皇后陛下には困らされました。単姿で、過ごされて…」


 「まあ! それはなんてはしたない。平民のようですわ。実際、平民だったお方ですもの。皇后としての品格を持っていただきたいです」


 「まったくその通りです」


 朝霧は時に同調し、時には煽て誘導しながら情報を引き出していった。そして登録されている家を巧妙に偽造している女官を見つけた。


 「そう言えば、ご実家はどちらですか。さぞ、格式高い家なのでしょう」


 「えっと、私は…」


 当たりをつけた女嬬は目を泳がせた。


 「ただの朱南しゅなん地方の地方貴族ですよ」


 女嬬の目は左上を向いていた。無意識に視線がそちらに向いてしまったのだろう。嘘をつき慣れていない様子だ。高度な諜報技術を身につけていたわけではないようだ。


 「あら、あなたは巳笠原みかさはら家の庶子だと思っていたけれど」


 朝霧がそう告げると女嬬は「ひっ」と喉が締まっているかのような悲鳴を出した。朝霧は弾正台だんじょうだいから、捕まった楉爾が巳笠原大納言に青朽葉あおくちばの効能を話したと証言したと知らせを受けていた。


 「あなたは、炭に細工した。違いますか?」


 女嬬の目には怯えと涙が溜まっていた。


 「お…お許しを…」


 女嬬は懇願するが、朝霧はそれを聞いてやる気はなかった。


 「人を殺しておきながら、許されるとでも」


 朝霧の声は思ったよりも、冷酷に鋭く発せられた。女嬬はその場に崩れ落ち、失禁した。過呼吸になっているようでひゅーひゅーと荒い呼吸音がする。


 「何事ですか!?」


 白雪が異変を感じたのか、朝霧の元へとやって来た。白雪から見れば、朝霧が女嬬を虐めているように見えたのだろう。


 「白雪殿。この者が中宮派と通じ皇后陛下暗殺の実行犯であり、小夜殿を殺した犯人です」


 朝霧がそう告げると、白雪の顔は青褪め女嬬を噛み殺さんとばかりに厳しい目を向けた。目線だけで人を殺せそうだった。


 「まさか、本当に此奴ですか!?」


 白雪は今にもその女嬬に掴みかかりそうだった。


 「皇后陛下の御前に連れて行き、判断を仰ぎます」


 朝霧も怒りを抑えて冷静に言葉を紡いだ。朝霧は女嬬の腕を掴み、白雪も引っ立てるようにして協力した。皇后の謁見のための間には御簾が下りていてその向こうには柊がいた。

 柊の前に女嬬を連れてくる。女嬬は泣き崩れたまま何も喋らなかった。


 「皇后陛下、この者が青朽葉の毒性を出すために炭に細工をした者でございます。いかがなされますか」


 朝霧が、柊に判断を仰ごうとしたその時だった。女房の一人が血相を変えてこちらにやって来た。


 「皇后陛下、中宮様がお越しになっております。いかがなされますか!?」


 こんな時に来なくたっていいのに、と朝霧は奥歯を噛み締めた。しかし、柊が返事をする前に騒めきが大きく近づいてくる音がした。


 深い群青に染められ唐衣、蝉が羽化したように透けた領巾ひれを纏い、頭には煌めく釵子さいしをつけた豪奢な装いで中宮、浜木綿はまゆうは現れた。


 「中宮様、許しもなく皇后宮に入るとは何事か!」


 白雪が吠えるように叫んだ。しかし、浜木綿は飄々と掴みどころのない笑みを浮かべていた。


 「泣き声が聞こえ、これは緊迫した事態だと思ったまでだ。それにしても皇后陛下、皆で囲って弱い者虐めとは品性に問題があるのでは?」


 浜木綿は笑みを崩さず、中心で泣き崩れている女嬬を見た。


 「可哀想に。この子には見覚えがあります。宮での折檻が辛く、泣きついてきた子ではありませんか」


 浜木綿は慈悲深く微笑む。中宮派と通じている女嬬ならば浜木綿と面識があってもおかしくない。


 「中宮様、この者は皇后陛下を害そうとした者。然るべき対処を…」


 白雪がそう言った時に、浜木綿が勝利したとでも言いたげな笑みを浮かべた。そして白雪は今の自分の言葉が失言であったことに気付いたのだろう。


 「皇后陛下を害す!? 一体いつ、どこでそんなことが起こったのです?」


 浜木綿は皇后を害すのは国への反逆とでも言いたいように、白々しく柊を心配しているふりをした。朝霧は敵である、中宮たちに情報を与えるべきではないと思った。


 「中宮様! お助けください。炭に細工をしたと濡れ衣を着せられております」


 それまで嗚咽を漏らすだけだった女嬬が浜木綿に平伏した。


 「炭に細工…? まさか、この前香で亡くなった小夜とかいう女官のことですか? あれは不運な事故でしょう」


 浜木綿は憐れむように女嬬を見た。御簾の向こうで柊が倚子の肘掛けを強く掴んだように見えた。


 「可哀想に。濡れ衣を着せられて。この者を解雇するというならば私の宮で引き取りましょう」


 浜木綿の言葉に、朝霧は反論したかったが何も言えなかった。皇后を暗殺しようと企てた中宮派──その頭とも言える中宮に、これは事件であることに気づき調査を行い犯人が巳笠原の人間であることを突き止めたと知られたら。

 

 相手が何をするのか分からなかった。また柊や朔が危険な目に遭うかもしれない。今度こそ息の音を止められてしまうかもしれない。朔の瞳が蘇った。あの無垢なる者が悪意に呑まれ亡くなってしまうことを想像した。


 柊はしばらく悩んだようだった。そしてこう結論を出した。


 「私はもうこの者の顔を見たくない。中宮が引き取ってくれるというならば、それで良いでしょう」


 柊の言葉に、朝霧は拳を握りしめた。悔しかった。犯人を目の前にしてみすみす逃すことになるとは。白雪も悔しそうに下を向いていた。

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