弍
男は田畑を耕していた。小さな家、しかし一人で住むにはちょうど良い広さだし、近隣の住民も心優しい人ばかりだ。
田畑を耕し終えたら、育てている金柑に水をやる。あとは書物でも読んで午後は暖かな日差しを受けて微睡もうか。そう思った時だった。土を踏み締める音がして、そちらを向くと、薄衣が垂れた笠を被った旅装の女が立っていた。後ろには佩刀した護衛らしき男もいる。
「こんな辺鄙なところまでよくお越しくださいました。どうぞ、粗茶くらいしか出せませんが上がってください」
男は、女と護衛の男を家に上げると静かに扉と窓を閉めた。
***
「最近は陛下のお姿を見かけませんな。やはり体調が芳しくないのでしょう。一年前に大病を患われてから床に伏せることが増えたように思いまする」
「体調の良い時は朝議にも参加なされますし、簾越しにお声を聞けるのですから、あまり心配しすぎるのも臣下として良くないと思いますな」
「それにしても、お子が若宮だけとは心配だ。ぜひ、中宮様に頑張って頂かねば。何せ、若宮は平民の汚れた血を引いておられますからなぁ」
中位の官吏たちがひそひそと立ち話をしているのを、柱の影から朝霧は聞いていた。今の格好は女房の装束ではなく、典薬寮にいた頃に着ていた官服だ。しかし懐には皇后付きを示す佩玉を忍ばせていて、いざとなったらこれで立場を明かすことができるようにしてある。
朝霧に課された最初の命令は、宮中の噂話の収集と典薬寮への出向という形をとった密偵としての調査だった。帝が打ち出した典薬寮の改革の一環の調査員を元典薬寮の役人である朝霧が命じられた。これはきっと皇后である柊が裏から手を回して、朝霧が動き回っても怪しまれない環境を作り出したのだろう。
典薬寮の改革の一大事業として薬殿の新設がある。薬殿は侍医や医生の詰所であり、安福殿の中に設置されている。その典薬寮の組織拡大の建屋として造られることになった。校倉造の建物で今まで収納できなかった薬種を収納する第二の倉庫になる予定だ。
朝霧は典薬寮に向かう前に、朝議の後で暇している官人たちの噂話を収集することにした。やはり、噂の中心にいるのは帝、皇后、中宮の三人だ。
特に中宮派は、中宮に懐妊の兆しがないか今か今かと待っているようだ。皇后については呪いの噂が広まり、廃后まで持っていけないかと企む輩が大勢いるようだ。
帝は一年前に大病を患って一時は政務が滞る事態が発生した。丁度、女性官吏の登用が実験的に始まった時期で心労が重なったのだろうと言われている。今も回復の途上にあり、体調が優れない時は朝議を欠席することもあるという。
皇后は帝が即位してから三年目、神護瓊花三年の冬に若宮を出産した。公にはされていないが、月光宮の女房から若宮を産むまでに二度の流産があったそうだ。どちらも初期に流れてしまい、月のものが重いだけだと思っていた。一度目は子流しの薬を盛られた可能性があり、二度目は毒を警戒する心労から流れてしまった。
皇后は帝からの格別の寵愛を受け、帝も皇后こそが私の唯一の妻であり魂の伴侶であると公言していたようだ。そんな帝の態度が都合が悪かったのが、中宮派の人間だ。中宮である浜木綿は即位の次の年には還俗し入内したというのに、お渡りが一度もなかったのだ。
それが一年前、大病を患った後からは帝は定期的に中宮の元にも通うようになったのだ。大臣たちは「帝も政治的判断ができるほど賢くなられた」と喜び、この勢いのまま中宮が懐妊してくれれば万々歳なのだ。
今日のところは噂の収集はこのくらいにして、典薬寮へ向かう。典薬寮では戻ってきた朝霧に対して下卑た笑みを浮かべて上司が出迎えた。
「おやおや、朝霧殿。せっかく出世したのに典薬寮の調査とはまた閑職に左遷されましたな。いや、こちらの方が男が多いから結婚相手を探すのには最適ですかな?」
朝霧は典薬頭の皮肉を無視して微笑んだ。
「ええ。実は皇后陛下が大切にされている白磁の壺を割ってしまいまして笞刑で腕を打たれました。そしてこちらの職務に就くことに…」
朝霧は泣き真似をして腕を見せた。無数の赤い線が腫れている。その様子を見た典薬頭は何もかける言葉が見つからなかったのだろう。口をもごもごと動かした後、「好きなようにご覧になって行ってください。新たに造られる薬殿はあちらです」と指差した。
「ええ。陛下にご報告いたしますので隅々まで見てまいります」
朝霧が笑顔で答えると、典薬頭は帝の命令には逆らえないので渋々、朝霧が典薬寮を見廻ることを認めた。仕事の邪魔はしてくれるなよ、としっかり念を押しながら。
「朝霧殿!」
誰かが朝霧に声を掛けた。振り返ると、そこには典薬寮時代の同僚である男が立っていた。確か、名前は楉爾といったか。いつも、朝霧に話しかける時は顔を赤らめていてもじもじしている。
「怪我は大丈夫なのですか。皇后陛下も酷いことをなされます。壺を割ったくらいでこんな…!」
楉爾は慌てているが、この傷は朝霧が冶葛によって腫れを偽造しているので実際には朝霧は折檻などされていない。
「ご安心ください。私も薬師の端くれ。このくらいの傷は自分で治せます」
「嫁入り前のおなごになんて酷い。罰を与えるにしても、もう少しやり方はあるものです」
楉爾は厳しい皇后の罰に憤っているようだ。そして彼は腰に下げていた袋を差し出した。中には彼の出身の地方で使われる民間医療の薬が入っているらしい。使ってください、と押し付けられれば突き返すことはできなかった。
「ありがとうございます」
朝霧が礼を言うと、楉爾は照れくさそうに頬を掻いた。
「今から、修治の時間ですね」
典薬寮に勤めていたから、朝霧も知っている。典薬寮の役人は、まず薬草園から薬草を摘んできたりして仕分けと篩にかけると、修治と呼ばれる生薬を精製する際の処置を行う。虫の除去、乾燥の促進、薬効の増強、毒性の弱体化など。そのまま生えていればただの毒でも手間を掛けてやることで薬に変化する。
毒は薬にもなるし、薬も使い方を間違えれば毒だ。
また典薬寮には乳牛院という付属した機関があり、乳師長上の元乳戸が乳牛の飼育、牛乳の採取を行って皇家に献上し、その牛乳から作られる蘇や醍醐は薬になるため典薬寮が管理する管轄だ。
今は医生たちが摘んできた薬草を鮮度ごとに分けて記録し、湯煎や調合の作業に入っている。また訪れる薬種商の対応も必要だ。
「朝霧殿、宜しければ今日は私が案内いたしましょうか? いえ、もちろん朝霧殿にとって典薬寮は庭も同然であるとは知ってはいるのですが…」
楉爾の言葉は最後になるにつれ、早口になって行く。朝霧はその様子がおかしくて、つい吹き出した。
「ではお願いしましょう。典薬寮出身とはいえ、今は外部の者ですからね。薬の帳簿を見せてもらうことは可能ですか?」
「それはもちろん、典薬頭に許可さえとればいくらでも!」
楉爾は自信満々に意気揚々と朝霧を典薬頭の元へ案内したが、典薬頭の反応はその逆で、帳簿を見せることに難色を示した。帳簿は典薬寮の機密事項であり、外部の者となった朝霧には見せられないと典薬頭は言った。
「そもそも、朝霧殿は新設する薬殿の進捗の調査でしょう?」
典薬頭は視線を逸らした。何かやましいことでもあるのかもしれない。薬殿の新設は薬の保管をもっと大量にするという側面もあるが、神護瓊花になる前の時代に起こった未曾有の大災害である土砂崩れによって職を失った民たちに職を与えるという側面もあった。
朝霧は典薬頭の態度に我慢がならず、懐から佩玉を取り出し典薬頭の目の前に突き出した。
「私は今上陛下の命により典薬寮の調査権限があります。皇后陛下からのお許しもあります。典薬頭はもしや、両陛下のご意向に背くと…?」
朝霧がそう言うと、典薬頭の顔は蒼白になり帳簿のある書庫への立ち入りを許可した。たとえ、内心皇后を見下していたとしても真正面から逆らうことなど典薬頭にはできないのだ。
「小癪な…」
皇后へ直接批判ができないから、典薬頭は少し前まで部下であった朝霧に対して文句をぶつぶつと言ったが、そこは朝霧の代わりに楉爾が睨みつけてくれた。
典薬頭の室から出た後、楉爾は満面の笑顔になった。
「朝霧殿、痛快でした。まさか典薬頭があのように顔面蒼白になるとは」
「権力とは適切に使ってこそ…です」
朝霧は柊から佩玉を渡された時のことを思い出していた。「私のような弱い皇后の印が何の役に立つかはわからないけれど、一応、持っていて」と柊の顔には自分の不甲斐なさが滲んでいた。
「そういえば楉爾殿。典薬寮にて変わったことや噂はありませんか? 私が典薬寮を去ってから勝手が変わっていたりしたら…と思いまして」
朝霧は探るように、楉爾を見た。
「いえ、業務内容は先人たちが作り上げてきた伝統的なものを踏襲していますよ。朝霧殿が典薬寮から離れてからも特に変わりはないかと」
朝霧が書庫で帳簿を過去十年分に絞り調査すると言うと、楉爾も手伝うと申し出た。
「十年分とは、一人では大変でしょう。私の分の仕事は今日は他の人に任せます」
「ありがとうございます。では、附子に注目して帳簿の確認をしてくださいませんか?」
朝霧がそう頼むと、楉爾は「附子ですか…?」と少し険しい顔をした。附子、別名鳥兜。鳥兜ではなく、附子と呼ばれるのは典薬寮では修治され毒性を弱め鎮静剤として使用ができる状態になった物を差す。
しかし、毒性を弱めた附子も使い方を間違えれば毒に逆戻りだ。
「楉爾殿、他言無用でお願いしますよ。実は皇后陛下の女官の不審死、実は私は附子が使われたのではないかと睨んでいるのです」
楉爾は少し顔が青くなった。朝霧の目的を少し察知したのかもしれない。
「朝霧殿は…まさか…」
楉爾が口にしかけた言葉を、朝霧は人差し指を立ててしぃーと言うことで黙らせる。楉爾は黙って何度も頷き、帳簿の確認に移った。
朝霧も最近の帳簿から確認に入る。沈香の変種、青朽葉を調べたが元々、沈香の香りをさらに強めるために品種改良された物で炭に一工夫して焚かないと毒にならない。そもそも炭の湿性はあまり知られておらずそのため、貴族たちの愛用品であり、青朽葉が皇家に献上され典薬寮に保存されている量が多少変動することは、何もおかしくないのだ。
最近では、帝と中宮にそれぞれ献上されている。青朽葉の毒性を理解している人間は典薬寮に居るだろう。皇后の宮で炭に細工できる人物に、青朽葉の毒性を教えたのかもしれない。
では、炭に細工したのは一体誰だ?
そして朝霧は柊が言った仮定の話を思い出していた。皇后の飲み物に、砒霜を入れるにはどうしたら良いか。あれが朝霧を試すための作り話ならそれでいい。しかし、毒を入れるにはどうしたらいいか、だけで十分なのに砒霜と毒の種類を限定した理由は。
そして、帝が大病を患った一年前の記録には砒霜を含む薬用試料である水銀朱、丹朱、硝酸水銀などが不自然に廃棄されている。理由としては長期保存による劣化のため。そんなに典薬寮は杜撰な管理をしていたのだろうか。
帝が病に臥せた時の、砒霜。そして病が治った後の突然の中宮への心変わり。
朝霧は自分の思考のせいで、嫌な汗が流れ始めていた。焦りのせいか呼吸が早い。もし、病に倒れる前の皇后に一途な帝を信じるならば。
薬によって意識が朦朧としている帝に、誰かが中宮にお渡りするように唆した? もしくは中宮を皇后と誤認させているとか。帝は皇后にも中宮にも平等に定期的に訪問するようになった。周りから見ればやっと政治的配慮から、中宮を顧みるようになったように見える。
恐ろしい闇を覗き見てしまったような、石をひっくり返したら百足や蟲が沢山蠢いていたのを見てしまったような嫌な気持ちが朝霧を襲った。
そして、朝霧はある程度帳簿の調査を終えるとまた調査に来る旨を典薬頭に伝え、新設される薬殿の現場に足を運んだ。
「朝霧殿…」
楉爾が声を顰めて話しかけてきた。
「実は附子の一部が不自然に無くなっています。私は無くなった附子の行方を探します」
「ありがとうございます、楉爾殿。この典薬寮に心を許してはなりません。頼れるのは楉爾殿、あなただけです」
朝霧は楉爾の両手を掴んだ。楉爾は茹蛸のように耳まで真っ赤になった。
「お任せください! この楉爾、朝霧殿の清廉潔白な姿に感銘を受け、少しでもお力になりたいと思っておりました」
朝霧のちょっとした正義感が彼に影響を与えていたのだと、朝霧はこの時初めて知った。