拾漆
「提出していただいた具書通りである。被告らは申開きはあるか」
弾正尹が巳笠原と巳雲居の両名に厳かに告げる。
「…私は、常に国を憂い御上を敬い、忠臣として仕えてきたと自負しておりまする」
巳笠原が怒りに震えながら、口を開いた。
「私は露払いをしたまで。忠臣とは、時に帝の意思よりも国の為を思い動くもの。皇后は皇后の資格あらず。平民の皇后など先人たちが築いてきた歴史、この国の歴史を汚す行いです」
巳笠原は正しいことを進んでやったのだ、と言わんばかりに胸を張った。
「それは、罪を認めたということか」
弾正尹が尋ねると、巳笠原は自分に与えられた席から立ち上がり帝の御簾の前へと進み出て膝をついて臣下の礼をとった。
「今上陛下、真に裁かれるべきは私ではございません。平民でありながら、皇后という地位にのさばる…」
そこまで巳笠原が言いかけたとき、御簾の奥から獣の唸り声のような深い低音が響いた。
「天意が間違っていると申すか」
秋彦の声だった。その声には兄の妻を、そして兄の決断を否定されたことへの怒りが溢れていた。しかし、巳笠原からしてみれば帝本人が怒りを露わにしている状況だ。
帝の言葉は天の意思。神の子孫であり、現人神の言葉をたかが人間が否定できるはずがないと貴族であればあるほど幼少期より教え込まれている。巳笠原は、自分が虎の尾を踏んでしまったことを感じ取ったのだろう。
鯉のように口をぱくぱくと動かし、何も喋らなくなった。
「ちゅ…中宮様…」
巳笠原が縋り付くように浜木綿が座る西の御簾を見た。
「もうよい」
しかし、返事をしたのは浜木綿ではなく太政大臣であった。彼は玩具に飽きた子供のように、巳笠原を見つめて失望を露わにした。
「まさかお前がこのような愚行に走るなど。巳一族としても官職を賜った官吏としても情け無い」
太政大臣は冷たく告げた。彼は保身に走ったのだ。巳笠原を切り捨てることで、自分にまで責任が及ぶのを防いだ。
「巳雲居内大臣は、芥子の買い占めにより叛意の疑いがある。これをどう弁明するか」
弾正尹が鋭く詰めると、巳雲居はやっと口を開いた。
「買い占めは…叛意ではありませぬ。私は持病の鎮痛薬として芥子を必要としたのです」
巳雲居がそう言って逃れようとしたのを秋彦は好機だとばかりに詰め始めた。
「そのような持病を抱えながらの出仕、さぞ辛かっただろう。そなたの内大臣としての任を解く。これからは養生しなさい。太政大臣もそれで構わぬだろう?」
太政大臣も仕方がないというように頷いた。宮廷から遠ざけることで、権力を削ぐ。巳雲居に対して出来ることはここまでかもしれない、と朝霧が諦めかけた時だった。
「そなた、病を患っていたのか。黄ばんだ肌、落ち窪んだ目。それは病ではなく阿芙蓉による中毒ではないか? なぜ、流通が滞るほど買い占める。もしやそなた、外の国から伝来した製法で芥子から阿芙蓉を精製し、自身も常用しながら売り捌き私服を肥やしたのではないか?」
追い詰めるように巳雲居を質問攻めにしたのは浜木綿だった。
「阿芙蓉を製造、流通させることは国への叛意に他ならない。調査は必要であろう」
浜木綿の声には軽蔑が混じっていた。派手な仲間割れと切り捨ての劇を見せられたようで朝霧は唖然とした。太政大臣と中宮、浜木綿にも見捨てられた巳笠原と巳雲居は囚獄司に捕らえられ、女医の七瀬も出頭する運びとなった。なぜなら、女嬬や七瀬を庇護していた浜木綿が、自分に危険が及ぶとわかればすぐに切り捨てたからだ。
***
朝霧は一仕事終わったという疲労感と疑問を抱えながら朝堂院を後にした。笠井 忠房と砒霜入りの毒氷の件は罪に問えなかった。無かったことになっているから仕方がない。
しかし、こちらが影武者を使って帝の死を隠していることによって砒霜の件の罪まで庇っていることは少し複雑だ。
月光宮に戻ると、白雪が待っていた。他の女房たちは人払いされており、白雪一人が不安げな表情で朝霧を待っていた。
「朝霧殿、お待ちしてました」
白雪はしきりに何かに怯えているようだった。
「召集された朝議のあと、皇后様が宮にお戻りになるのと同時に、中宮様がいらっしゃいました。あろうことか、皇后様は中宮様と二人きりにしてほしいと人払いをしました。ただし、朝霧殿が帰ってきたら朝霧殿だけは部屋に通すようにと言いつけられました」
白雪は敵である浜木綿と二人きりになった柊を案じているのだとわかった。まさか、浜木綿が乱心して柊を害すようなことにはならないだろうが、なぜ柊は浜木綿と二人きりになるという危険を冒したのだろう。
だが、そこに朝霧は呼ばれている。白雪にとっては朝霧こそが姉を救い出す唯一の手段なのだろう。
「わかりました。向かいます」
朝霧は焦りからか、歩幅が大きくなっている気がした。足にまとわりつく袴が鬱陶しい。柊にも何か考えがあるのかもしれないが、浜木綿と二人きりという状況は不安だった。
白雪に案内された部屋の前に辿り着いた時、朝霧は深呼吸をした。
「朝霧にございます」
朝霧がそう言うと中から「入れ」と柊の声がした。どうやら今のところは柊は無事らしい。しかし、中がどうなっているか分からず、朝霧は恐る恐る部屋に入った。
しかし中で朝霧が見たものは、円座に座って酒盛りをしている柊と浜木綿の姿だった。一瞬、信じられない光景に朝霧は目を瞬かせた。
浜木綿から毒のような刺々しさは感じられず、熟れた果実のような香りが漂っていた。
「この者が、朝霧か。化粧が映えるような顔をしているじゃないか」
浜木綿は朝霧の顔を見ると、微笑んだ。
「賢く、面の良い女を捕まえるとは。人を見る目はあったようだね、緋和」
酒をちまちまと飲みながら、赤らんだ頬の浜木綿は艶かしかった。
「人の見る目がないと思われていたなんて、心外だよ。高子」
軽口を叩き合って仲良く酒を飲み、真名で呼び合っている様が信じられなかった。ここにいるのは本当に浜木綿なのだろうか。秋彦のように双子の影武者なんじゃないかとすら朝霧は感じた。
「驚いているようだね、朝霧。だが、あなたにはそろそろ種明かししてもいいだろうと思ったんだ」
柊は朝霧の分と思われる酒を杯に注いで、朝霧に差し出した。朝霧は、酒を受け取りながら頭が混乱しているのだけがはっきりとわかった。
「皇后陛下、この状況はいったい…」
朝霧が戸惑っていると、柊と浜木綿は顔を見合わせてくすくすと笑った。悪戯が成功した子供みたいに無邪気に。
「浜木綿こそが、間者だったんだよ」
そう言って柊は美しい笑顔を朝霧に向けた。中宮派に潜ませた間者がまさか、中宮本人だとは思いもしなかった。柊は「やっと言えた」とすっきりした表情をしている。
浜木綿が間者だったと聞かされて、今までの不審な点が解明された。柊が附子の行方を知っていたのは、浜木綿から教えてもらったから。浜木綿ならば、簡単に附子の行方を尋ねることができただろう。
そしていきなり訪ねてきて、女嬬を庇護下に置いたのは巳笠原が処分してしまう前に保護するためだった。浜木綿がこちらの味方だったのなら、女嬬が素直に証言したことも辻褄が合う。柊が何か手を回したと、あの時は深く考えなかった。七瀬を庇護下に置いたのも女嬬を保護したのと同じ理由だろう。
そして茶会で、「子は七つまでは神の子。いつどうなるかわかりません」と言ったのは巳雲居が芥子を買い占め、朔の暗殺を企てているという情報を遠回しに伝えたのだろう。柊は朝霧の調査を浜木綿か裏付けしていたことになる。
そして、巳雲居を阿芙蓉の製造をしていたという疑惑で追い詰めたのはこちらの味方をしていたからだ。秋彦の御渡りは表立って頻繁には会えない、柊と浜木綿の情報交換を秋彦が間に立ってしていたのだろう。
そして、二人が激しく争っていたのは、帝の死という真実に宮廷の目が向かないように演じていたのだと説明された。確かに、宮中の噂は柊と浜木綿の激しい権力争いに注目されていた。
「どうして、中宮様は皇后陛下の味方になったのですか?」
朝霧はそう尋ねる。そこが一番の謎だった。浜木綿は柊と政治的に対立する立場にある。
「私はね、八束様の伴侶になりたかった」
浜木綿は酒でも飲んでないと喋れないというように酒を煽っては口の滑りを良くした。
「緋和が…柊が八束様の精神的な伴侶だとしたら、私は八束様の政治的な伴侶になりたい。そう思って協力した。八束様の死を知らされた時、そして死を隠すと聞かされた時、あの人の理想を継げば私は伴侶になれるんじゃないかって思った」
浜木綿の独白には恋焦がれた女の姿があった。たとえ、愛しい人の心を預けられなくても構わない。政治的に利用されてもいい。伴侶になれるのならば、身も心も利用してくれて構わないという覚悟が感じられた。
帝の理想を継ぐことで浜木綿は帝の伴侶になれたのだろう。それとは別に、理想を継ぐ同志、同じ秘密を共有する者同士として、柊と浜木綿は伴侶だった。朝霧はそう感じた。
「しかし、皇后陛下はなぜ中宮様に協力を頼めたのですか? 今上陛下が亡くなるまで、正真正銘、中宮様は敵だったのでは…」
中宮に御渡りが始まったのは帝が亡くなった後。影武者の秋彦に代わってからだ。そしてその秋彦も、子を成すために中宮の元に通ったわけではなく、柊と浜木綿を繋ぐために通っていたのだ。
帝が死んだ時に、浜木綿は柊に協力した。その前はただの敵同士である。柊は何の勝算があって、浜木綿に帝の死を打ち明けたのか。浜木綿が協力してくれたからよかったものの、浜木綿が柊を排除する絶好の情報を与えることにもなりかねなかった。
「わかりませんか?」
柊は静かに問うた。そこには朝霧を試す意図はなく、ただ自分の思いに共感して欲しそうだ。
「同じ者を愛したという、女の勘です」
柊はそう言って花が綻ぶように美しく笑ったのだった。
***
巳笠原と巳雲居を囚獄司に引き渡したあと、後の調査により二人の有罪は確定し、検断されるに至った。太政大臣は一族から罪人を輩出してしまった責任を取り太政大臣の座を辞すことになった。罷免という強引なやり方に出る前に、太政大臣自らが引いてくれたのはありがたかった。
しかし、宮廷にはいまだに巳一族が高位の官職を独占している状態であり、元太政大臣である融は自分の息がかかった者を次の太政大臣の座に据えようとしている。
巳一族の影響から脱し、皆が公平に忌憚なき意見を出し合う理想の政を現実にするのにはまだ時間がかかりそうだった。
事件の解決のため、奔走していた朝霧には柊から休暇を与えられ、朝霧は久々に実家に顔を出していた。
「帰ってくるなら、文くらい寄越したらいいのに! まったくこの子ったら。今日はご馳走にしなくっちゃね。…あと、縁談の話なのだけど!」
「母様! 縁談の話はいいから」
母は朝霧が帰ってきたことに嬉しそうにするも、すぐ縁談話に持って行こうとする。本来は父が娘の縁談を用意するものだが、父が痴呆でもう判断力がないので、母は自分がしっかりしなければと気負っているところがある。
朝霧以外の娘たちはとっくに嫁に送り出したのに、仕事ばかりの末娘が行き遅れるのではないかと母は不安そうだ。
「せっかく宮仕えなのだから、良い殿方見つけてないの?」
母が心配そうに尋ねる。良い殿方と聞いて、朝霧は俊海の顔を思い浮かべた。教養があり、話が合い、朔の教育を任された同志でもある。彼のことは好ましく思っていた。
「今、仕事が楽しいの。やりがいも感じてて…私の知識が役に立ってるって頼って貰えて嬉しいの。だから、母様。もう少しだけ、結婚は待ってくれる?」
「あなた、そう言って仕事ばかりで一生独身を貫く気じゃないでしょうね?」
独身でもいいかな、と思っていたところだったので母に痛いところを突かれて朝霧は黙った。しかし、母はため息を吐き仕方がないと呟いた。どうやら、しばらくは待ってくれるらしい。
「お父様に挨拶してらっしゃい」
母にそう言われて、朝霧は久々に父の寝室を訪れた。父がもう朝霧のことをわからなくなってしまってから名前すら呼んでもらえない現実が辛くて、父のことを避けていた。父の部屋に行くのは少し、脚がすくむ。しかし、勇気を出して部屋に入った。
部屋は蔀戸が開け放たれていて、几帳などは取り払われており、日の光が差し込んでいた。布団から上半身を起こした状態で、父は放心したように外を眺めていた。
「父様、ただいま帰りました」
朝霧は挨拶だけ済ますとさっさとこの場を離れたい気持ちでいっぱいだった。父を見ていると、元気だった頃を思い出して泣きたくなってしまう。胸が締め付けられて、今の父を認められない自分の情けなさを見せつけられているようで。
朝霧の声に反応し、父は白く濁った瞳を朝霧に向けた。そして、へにゃりと頼りない笑顔を見せた。この笑顔が朝霧は大好きだった。
薬草をうまく見分けられたり、嗅ぎ分けられたりすると父は頭を撫でて、へにゃりと笑うのだ。
「おお、薬子か」
父は朝霧を見つめながら、朝霧の真名を呼んだ。薬のように人の役に立つ人になりなさい。そういった願いが込められた父がつけてくれた自分の真名が朝霧は大好きだった。
父が痴呆に罹ってから、薬子として認識してくれたことは初めてだった。
「はい、父様。薬子です」
気がつけば、涙が溢れていた。なぜ泣くのかと、不思議そうに父は薬子を見つめている。崩れかけた記憶の一欠片を父は一瞬でも繋ぎ直したのかもしれない。
朝霧は休暇中のほとんどを、父と他愛ない話をすることに費やした。言葉による返事はなく、一方的に朝霧が喋り続けるだけだったが、父は頷いてくれた。
休暇を少し早めに終えて、月光宮に戻るとちょうど俊海が朔のための教本を運んでいるところに出会した。
「俊海殿、目の前が見えないほど積み上げた冊子を一人で運ぶのは無理があります。お手伝いしますよ」
「ありがとうございます。朝霧殿。図書寮から動物の図録を借りてきたところです。若宮様が描きたいと仰るので」
俊海は最初ほど、厳しくはなくなった。朔が絵の才能を伸ばせるように尽力している。朝霧は上半分の冊子を取って運ぶのを手伝った。
「朝霧殿は休暇に入ったと聞いていましたが、もう少し休んでいてもよかったのでは? 予定より早いですが」
俊海は、朝霧が冊子を半分持ったことでようやく顔が見えた。俊海の問いに朝霧は少し恥ずかしがりながらも答えた。
「実は、やりたい仕事が出来たんです。実家に帰って父と話していて思い出したのですが、父が作った『毒薬草子』は未完成だったんです。だから、私が引き継いで『毒薬草子』を完成させようと思って」
毒薬草子という聞き慣れない単語に、俊海は興味を示した。泓涵が作った、独自の毒や薬に関する草子だと説明すれば、俊海は目を輝かせた。
「もしよろしければ、その編纂を私も手伝わせて貰えませんか?」
俊海は新たな知識を吸収したくて、うずうずしているようだ。
「毒や薬は時代の流れによって多種多様になります。私は生涯をかけて、毒薬草子を作っていきたいと考えているのです」
「そりゃあもちろん! 私も生涯をかけて付き合っていきますとも」
俊海の返事の後、二人の間には沈黙が落ちる。生涯をかける。生涯、付き合っていく。何だか、求婚したような形になってしまいお互いが照れて視線を逸らした。
「いや、先程の言葉に嘘はなくてですね! 本当に生涯をかけて毒薬草子の編纂に携わりたいと強く願っているのですが。…あの、その、朝霧殿と生涯を共にしてもいい覚悟ですよ」
照れを隠すように俊海は早口で喋る。朝霧はそれを聞きながら、嬉しさが込み上げてきた。
「ふつつか者ですが、生涯をかけてよろしくお願いします」
朝霧がそう言うと、俊海は満面の笑みで頷いた。爽やかな風が吹いていた。
***
神護瓊花十六年、帝崩御。諡を「慶」とする。皇后柊、中宮浜木綿、皇太子の元服を終えると同時期に出家。皇后は月影院、中宮は朝光院となる。
朔皇太子、即位。元号を神護黎明と改める。
慶帝の世が終わり、後に瑛帝と呼ばれる御世が来る。