拾陸
逃げ出したことを反省したのか、次の日から朔は真面目に勉学に取り組むようになった。俊海も自分が、朔に亡き帝の皇太子時代と重ねてしまっていたことに気づいたのか、漢詩を写す練習ではなく、平仮名の練習から始めさせることになった。
季節は夏の盛りを迎えるところだった。麗扇京でも蝉の声を聞くようになり、緑が深まった。空は濃く青く澄んでいて、入道雲の白がよく映えた。
一か月が経った頃、柊は御簾越しに朝議の場で巳山上の長すぎる物忌みを咎め、中宮派は巳山上を表に戻さざる終えなかった。
巳山上は物忌みの際に断食をしたとして、悟りに近づいた徳の高い人物だと尊敬の対象となった。太政大臣の餓死させようとした策略は表向き、断食と言い換えられたため、結局は巳山上の力を増大させることになってしまった。
太政大臣は巳山上が餓死しないことに焦りを感じているはずなのに、表情には一切出さなかった。流石にこれ以上、巳山上を政の表舞台から消すことはできなかったのだろう。中宮、浜木綿もそれはわかっていたのか、何の口出しもしてこなかった。
朝霧は巳笠原の香による皇后暗殺未遂、附子の横流し、笠井 忠房の溺死ではない不審死、七瀬の皇后へ献上する薬の意図的な調薬失敗、巳雲居の芥子の買い占め…などの証拠を揃えて、あとは賛同してくれる権力者、巳山上を引き入れた。
朝霧たちが調べた証拠はばらばらで、帳簿の改竄もあり決定打にするには少し弱かった。それでも、柊は今ここで仕掛けるべきと判断した。
「あとは、中宮派に潜り込んだ間者が最後の仕上げをしてくれます。朝霧、あなたは自信を持って戦えばいいのです」
柊は力強く笑って朝霧にそう言った。柊が笑うなら、きっと大丈夫だと朝霧は心強かった。
持てる武器を全て使って巳笠原と巳雲居を強訴する。そうして二人を弾劾し、身内の罪の責任を取らせるために太政大臣を罷免させる。これが作戦の大まかな流れだ。
なぜ、強訴という手段に出たのか。強訴とは仏神の権威を誇示し、朝廷に圧力をかける訴訟のことだ。寺院の圧力に辟易していた朝廷は全ての人間に訴える権利があることを認め、全ての訴状を平等に扱うことで寺院勢力の力を弱めようとした背景がある。強訴とは強硬に訴えることを意味する。
原告は、かつて捨て去ったはずの清廉潔白な役人という姿の朝霧。決戦の日、朝堂院にて緊急の朝議が招集された。八省院とも呼ばれる建物群は帝のおわす大極殿を中心に十二の朝堂の群れが鶴翼の形に配置されている。
定刻になると鐘が響き、招集された文官と武官たちが帝に再拝する。一堂に着席するように、礼法が定められている。今まで異例として始まった皇后と中宮の垂簾聴政のお付きの女房としてしか、朝堂院に足を踏み入れたことがなかった朝霧だったが、今日は宮廷に巣食う毒を一掃する原告として足を踏み入れた。
元は、原告は柊が務めるはずだった。皇后本人が訴えを起こす予定だった。しかし、朝霧は自ら志願して自分を原告とするように柊に進言した。もし、何か失敗したとしてもとかげの尻尾切りのように朝霧を切り捨てればいい。そう考えたからだ。
朝霧が朝堂院に足を踏み入れると、一斉に官吏たちからの数多の視線が降り注いだ。高位の官職を示す束帯を纏う一団からの視線は矢のように朝霧の身体中に突き刺さった。
朝霧は御簾の下された玉座を見る。中はまだ秋彦はいない。その近くには護衛として、日照雨が待機していた。朝霧と目が合うと、日照雨はにやりと笑った。
そして近くにはもう一人、相談役として俊海がいる。俊海は朝霧の姿を見つけると僅かに微笑んだ。この場には敵ばかりじゃない。それだけが朝霧の心の支えだった。
東の御簾には皇后柊が、西の御簾には中宮浜木綿がそれぞれ中にいるのだろう。
しん、と静まり返った朝堂院に軽快な音が響いた。音色は龍笛。皆が音色に耳を傾けている。早四拍子、拍子十六、太食調の長慶子──退出音声が演奏されている。儀式の際に退場するときに奏でられる曲だ。
この場に相応しいとは思えない。日照雨と俊海と目が合う。二人とも愉快そうに朝霧を見つめている。今から、この政の舞台から人が消える。きっと朝霧ならそうなる結果にしてくれるという信頼が滲んでいた。
きっと日照雨あたりが雅楽寮の楽人を引き入れて、こんな曲を演奏させたのだろう。朝堂院の空気はまるで葬式だ。しかし、朝霧には武者震いを引き起こす戦場に思えてならなかった。
曲が終わるころ、朝堂院にはざわめきが広がった場違いな曲が流れただけでなく、太政大臣、融が到着していたからだ。皆が姿勢を正し、太政大臣が通り過ぎるのを息を殺して待つ。
太政大臣が席に着くと、死角から女官の声が響いた。
「今上陛下の御成ーりー」
御簾の向こうにゆっくりと人影が浮かび上がる。秋彦が到着したのだろう。
「此度の召集は、皇后陛下暗殺未遂とそれにまつわる一連の事件の犯人を追及するものである。改めて強訴の申し状を明らかにして頂きたい」
場を仕切る弾正尹がそう口にすると、周りはざわめきだす。一連の事件、とは皆思っていなかったのだろう。起こったのは皇后の女官が死んでしまった哀れな事故。それを事件性があると騒ぎ立てる愚か者を見に来ていたのだろう。
「私、朝霧は皇后暗殺未遂の犯人として巳笠原大納言を告発いたします」
朝霧の言葉に、官吏たちはざわめいた。女風情がおかしなことを言っているとき馬鹿にする声が大きかった。しかし、わずわかながらに「弾正台に捕らえられた役人が、巳笠原大納言に毒を渡したと証言したのではないか」と囁く者もいた。
不穏な空気が立ち込めている。
「はっ! 馬鹿馬鹿しい。私を陥れようなど百年は早い。あの典薬寮の役人は、嘘をついて私の名誉を傷つけようとしただけ」
笏を持ちながら、巳笠原は豪快に笑った。庶子とはいえ息子であるはずの楉爾を切り捨てる様は悪鬼の如き所業だった。
「朝霧といったか。お前は皇后の女房だったな」
そのとき、西側の御簾から凛とした浜木綿の声が聞こえた。官吏たちは押し黙り、その声に耳を傾ける。
「皇后陛下も見苦しいこと。陛下からの気を惹きたくて、女房を使ってこんなに騒ぎ立てるとは。駄々っ子のようではないか」
浜木綿はこの訴え自体が、柊の幼稚な考えにより引き起こされたものであるとして片付けたいのだ。香による殺人などなかった。あれは単なる不運な事故としたいのだ。
浜木綿からの挑発に、柊は動じてはいないようだった。御簾の中の人影は悠然としている。
「訴えには確かな証拠がある」
柊はそう言った。御簾越しでも、柊が笑いかけていることが朝霧にはわかった。
「典薬寮の役人、楉爾は自身を巳笠原大納言の庶子だと証言し、自身が青朽葉の効能を説明したと証言しております」
朝霧がそう言うと、巳笠原は鼻で笑った。
「だから、その証人こそが信用に足らんと言っている。私にそんな子供はいない!」
「もう一つ、巳笠原大納言が皇后陛下を害そうとした証拠がございます。こちらをご覧ください。これは典薬寮より提出して頂いた帳簿にございます」
朝霧は帳簿を取り出して開いてみせた。
「附子の数が合わない部分がございます。しかし、附子の行方を追うと巳笠原大納言に辿り着きました。これも楉爾が附子を流したと証言しております。典薬寮の附子を盗むなど、これだけでも罪になります」
朝霧は毅然と頭を上げた。どんなに小さくてもいい。どんなに弱くてもいい。巳笠原の印象を悪くするために、疑惑を降り積もらせていく。
全ての人間に訴える権利があること、全ての訴状を平等に扱うことという決まりが、楉爾の証言もただの戯言と切り捨てず一考する価値があると官吏たちに印象づける。
「そして、この頁をご覧ください。明らかに前後の頁と紙が違います。真新しく、紙の素材も違います。この帳簿は改竄されています」
朝霧がそう言い放つと巳笠原は自分を馬鹿にされ続けたのに我慢がならなかったのか、顔を赤くして怒鳴った。
「私の指示で帳簿を改竄したとでも申すか!? 私は知らない。典薬頭の職務の怠慢ではないか」
巳笠原が激昂するのを部下らしき官吏たちが宥めていた。朝霧たちが冷静に淡々と証拠を積み上げていくのに対し、怒ってばかりでは巳笠原の方が幼稚に見えて印象が悪くなるからだろう。
「改竄に使われたこの紙は、麻紙で油を塗布されていて風合いや緻密さなどは上質です。現在、主流の楮紙とは種類が違います」
紙の作り方は外の国から伝来した。最初期は麻で作る方が主流だったが、皇国に麻はあまりなく、楮の皮で糸をつくり、それを織って衣をつくっていたので、それを応用した楮紙が主流となった。
典薬寮の帳簿に使う紙は図書寮の紙屋院で作られた楮紙を使用している。楮紙が優れているのは丈夫さと保存性。気候もあり麻紙から楮紙に移り変わった。
紙屋院では他にも竹や藤を使った紙の試作であったり、竹ではなく藁で漉いた紙の研究を行っているが、油を塗布して厚紙にした麻紙の製造は現在は行っていない。
むしろ、麻紙に油を塗布して強度を上げようと研究し、製造しているのは巳雲居である。そしてこの紙は巳家以外ではあまり出回らないものだ。
「この油が塗布された麻紙は、巳一族が技術を独占し、市場にはあまり出回りません。巳笠原大納言の家の紙で帳簿を改竄した…ということになります」
朝霧がそう告げると、視線は一気に巳笠原と内大臣の巳雲居に集まった。巳笠原は怒りを露わにするように歯を食いしばり、巳雲居は巳笠原とは何も関係がないと言いたいように彼から視線を逸らし俯いた。
「改竄以外にも、この帳簿にはおかしなところがございます。それが、皇后陛下に処方されていた当帰芍薬散の和の乱れにございます。これを処方したのは内薬司の女医、七瀬」
七瀬の名前を聞いた時に、巳雲居の顔が少し青くなった気がした。七瀬は中宮のお気に入りの女医として広まっている。七瀬との関係を否定しては、浜木綿にも追及が及んでしまうと焦っているのだろう。
「七瀬の実家は典薬寮に薬を卸す薬屋でしたが、一時期典薬寮に薬を卸さない時期がありました。大量に買い占められたのは芥子。買い占めた人物は雲居という人物だそうです」
雲居は貴人の御所を指す。つまり、下級貴族には名乗れないそれなりに高位の貴族でなければ名乗れないのだ。
「巳雲居家の遣いの者が、七瀬の実家に出入りしているという証言がございます。芥子の買い占め、これは叛意に他なりません」
朝霧がそう言い切ると、朝堂院に集まった官吏たちは集団恐怖に囚われたようにざわめき出した。今の帝、神護瓊花の時代に移り変わってからまだ六年。
前の時代は政変が起こった。秋彦が逆賊の旗印にされた事件を「秋の変」と呼ぶ。いまだに、あの時の政変の爪痕が深く残る朝廷には、叛意という言葉に過敏に反応する。
「あなや! 巳笠原大納言も巳雲居内大臣も、怪しいところがございますなぁ。無実というならば、無実の証拠をみせなければ。私も身内に罪人がいたとなれば恥ですから。ねぇ、太政大臣」
巳山上がわざとらしく太政大臣に視線を遣った。太政大臣は無表情のままだ。もしかしたら、巳笠原と巳雲居を切り捨てる気なのかもしれない。そうなれば、巳一族は弱体化できるはずだ。
「巳笠原大納言」
柊が御簾越しに巳笠原に話しかける。巳笠原は敵意を隠そうともせずに、御簾の向こうを睨みつけた。まるで御簾が下りていることが盾のようであり、卑怯であると言っているかのように。
「私の宮にいた女嬬が青朽葉の香を焚く炭に細工をしたと弾正台に証言した。連れてきなさい」
柊がそう命じると、弾正台の役人たちが捕縛した女を朝堂院に召喚した。間違いなく、あの日朝霧が追い詰め浜木綿に庇護された巳笠原の庶子である女嬬だ。あの顔を忘れるはずがない。しかし、なぜあの女嬬が弾正台に捕まっている?
柊が裏から手を回したのだろうか。それとも帝の権威を使って無理矢理、中宮の手の内から引っ張り出したのだろうか。だが、今はそんなことを長々と考えている暇はない。朝霧たちにいい風が吹き始めていた。
女嬬の顔はやつれて怯えていた。縄で縛られてれた手首には何度か獄舎と取り調べのための部屋を行き来した時に、縄の取り外しが繰り返されたのか赤く縄の跡が何重にも残っていた。
「わ…わたしは、巳笠原大納言様の命令で皇后陛下の香の炭に細工をいたしました。水で処理して湿炭にするように言われました」
女嬬は震えながらも証言した。巳笠原は自分の娘だろうに、今にも切り掛かって殺してしまいそうなほど女嬬を睨みつけていた。
「香炉に残った湿性を帯びた灰を保管してあります。この者が炭に細工したことは間違いありません」
朝霧がそう言うと、公澄の検屍記録を証拠として提出した。公澄は帝の侍医としての信頼があるため、この証拠は帝も認めるものとして強い効果があった。
今や、朝堂院に集まった官吏たちの目線の先に朝霧はいない。犯人として浮上した、巳笠原と巳雲居に注がれている。疑いの眼差しが彼らを磔にしていた。ここまで疑われれば、評判は地に落ち、官職に相応しい尊敬と畏怖を持つことは不可能だ。
もし、ここで権力によって誤魔化そうとしても、大納言や内大臣としてこれからやって行くには、信用が落ちすぎた。太政大臣はもっと印象だけでも清廉潔白なものを重用し、自身と巳笠原らの汚れた印象を切り離したいだろう。
「巳笠原大納言に命じられたと証言する者がおり、物的証拠も揃っております。巳雲居内大臣の不審な芥子の買い占めは叛意の疑いがあり、皇后陛下への調薬失敗の咎で内薬司の女医、七瀬は弾正台への出頭を求めます」
朝霧ははっきりとそう言って赤くなったり青くなったりしている巳笠原たちを見つめた。