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拾肆

 「おいしいね、おいしいね」


 幼子特有の餅のように柔らかそうな頰が桃色に染まっている。小さな口を懸命に動かしながら、さくひいらぎの膝の上でちまきを頬張っていた。


 「若宮様、喉に詰まらせぬようゆっくりお食べください」


 六つの花(むつのはな)が心配そうに水を差し出した。小さな手で杯を包み、朔はゆっくりと水を飲み込む。その様子を見て、朝霧あさぎりは柊のけぶるような睫毛が少し動いたような気がした。


 瞬きをしたのだろう。しかし、その回数が少し多いので彼女が心の中では不安に思っていることが感じ取れた。帝は水を飲んで死んだ。柊が過敏になるのもわかる気がした。


 本来、胃を満たし幸福を感じさせる食事。それ自体に恐れを抱き、柊は口に入れるもの全てが毒物なのではないかと神経を尖らせているのだろう。食べている時は毒で、寝ている時は香で。これでは休まる時がない。


 今日は、七夕の宴が催された。柊は朔の健康を周知させるために、共に参加したが夜が更けてくると朔がぐずり始めたため、宴はまだ途中だったが退席し宮へと戻ってきた。


 宮へ戻ると朔はころっと泣き止みお腹がすいたと言い出したので粽を食べさせることになった。


 「とってもおいしいね、ははうえ」


 朔が無邪気に笑いかける。柊は目を細めて柔らかな朔の髪を撫でた。


 「みんながいっぱい、お腹いっぱいになってくれたらいいな。みんなにちまき、届けばいいのにな」


 朔は口元に米粒をつけながら笑った。米粒を拭いながら、柊は微笑む。


 「朔、あなたは優しい帝になってほしい。みんなの声を聞いて、慈悲を施す優しい賢帝になってね」


 「じひ…?」


 朔は水晶のような澄んだ瞳を瞬かせて、首を傾げた。


 「まだ難しいかもしれないけど、よく聞いて。諫言かんげんに耳を傾け、甘言かんげんに惑わされてはなりません。朔に都合の良いことばかり言う人がいるかもしれないけど、その人の言葉だけでなく、本当に心配してくれている人の言葉を大事にしてね」


 「どうやって見分けるの?」


 朔は柊に尋ねる。六つの花や白雪しらゆきがまだ若宮様には早いんじゃ…と心配して止めようとおろおろしていたが、柊はそんな女房たちの狼狽ぶりには気にも留めずに続けた。


 「人となりを知るには、まず目を見なさい。やましいことがある者は目を逸らします。そして、手を見なさい。働き者の手か、怠け者の手か、爪の手入れはしているか…手はその人をよく表します。あとは、信頼できるか、情報を小出しにしたり撹乱かくらんしたりして、試しなさい」


 柊の言葉は、朝霧によく突き刺さった。心当たりがあり過ぎる。最初に、柊が白雪に扮して朝霧に直接会いにきて試したのも、彼女の人の見極め方なのだろう。思い返せば、柊は話す時は朝霧の目を見つめていた。そしてきっと典薬寮で毎日働く朝霧の手を見て、働き者の手であることを見抜いたのかもしれない。


 「わかった!」


 朔は元気よく母の言いつけに答えた。きっと半分くらいはわからなかったに違いないが、この言葉を大きくなった朔が思い返してくれれば、柊としてはそれで良いのか目しれない。


 「今日はお月様きれいだね」


 朔が何気なく、呟いた。その時、柊の呼吸が浅くなったのを、朝霧は見逃さなかった。帝が死んだ時、柊は帝と月見の酒を楽しんでいた。きっと月には嫌な思い出が混じっているのかもしれない。

 もう純粋に月を愛でることができなくなった柊の姿が、純粋に月を綺麗だと称えた朔の姿と比べて痛々しく映った。


 この人は、ただ最愛の夫を奪われただけじゃない。食事を楽しむこと、安心して眠ること、月などの自然を愛でる当たり前の感覚。それすら、奪われてしまったのだ。


 「雲晴れて 君を映せし 望月もちづきは 今宵も独り 我が胸に照る」


 その時、朔が澱みなく歌を詠んだ。まるで一気に大人になってしまったかのようだった。柊がはっと息を飲んだ。


 「朔、その歌…何処で」


 急に開花した和歌の才能に驚いているわけではなさそうだった。柊はこの歌を知っている。朝霧はそう直感した。


 「俊海しゅんかいがね、父上の字は綺麗だから真似して上手くなりなさいって見せてくれたの。これ、父上が作ったんでしょう?」


 侍読として、今は影武者の精度を上げる為に尽力してくれている俊海という男は朝霧が知らぬうちに朔に会っていたらしい。きっと朝霧が日照雨そばえと調査をしている間の出来事だろう。


 先程の歌は、雲が晴れて君(皇后)の面影を映す月は、今日も私(帝)の胸を照らしているという意味だ。離れていても心は繋がっている、という深い愛の歌だ。


 柊の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 「母上、どうしたの? 痛い痛いなの?」


 朔は柊が自分の頭を撫でてくれたのを真似して、柊の頭を小さな手で撫でた。


 「今は、中宮様にも寵愛が注がれているから…」


 「しっ! 若宮様がいらっしゃるのよ」


 急に泣き出した柊を見て事情を知らない女房が中宮に帝を取られたから、かつて愛し合っていた時の歌を引き出されて泣いていると勘違いしているのを六つの花が厳しい目で睨みつけた。


 「大丈夫ですよ、朔。どこも痛くないから」


 涙を拭うと、いつもの微笑みをたたえた柊の顔がそこにあった。朔は安心したように柊に抱きつく。そして疲れたのか、眠ってしまった。布団に寝かせに行くのは六つの花と白雪に任せ、柊は朝霧だけを残してあとの女房たちは下がらせた。


 「朝霧、うまく巳山上みやまかみを引き込んだようですね。素晴らしい成果です」


 そこには母の顔はなく、皇后の顔の柊がいた。


 「皇后陛下には、巳山上が一か月も物忌みを続けたら、いくら何でも長過ぎると朝議の場で苦言を呈してください。そうすれば太政大臣は巳山上を表に戻さざる負えなくなります」


 「決戦は一月後ですね。──朝霧、それまで少し暇になりましたね?」


 柊が悪戯っぽくにやりと笑った。


 「え? いや、調査は続行しますし今は嵐の前の静けさという感じなので暇というわけでは…」


 朝霧がそう言いかけるも、柊は有無を言わせぬ微笑みを浮かべていた。


 「……確かに、少し時間は空きました」


 朝霧がそう答えると、柊は手を叩いて満面の笑みを浮かべた。


 「朝霧、俊海と共に朔の勉学を教えてくれないか?」


 「…私はただの地方貴族の娘で、薬草の知識はあれど、若宮様に必要な勉学を教えるほどの知識は…」


 朝霧がそう言うと、柊は首を振った。


 「あなたには、その薬の知識を教えてもらいたいのです。これから、何が必要になるかわかりません。薬の知識があれば未然に自身に降りかかった暗殺の危機を防げるかもしれない。知っていて損はないはずです」


 「わかりました」


 朝霧は頭を下げて、その命令を受け取った。柊は皇后の顔の下に母の顔を持っているが、今はそれが透けて見えた。


 「あの、差し出がましいようですが皇后陛下は、今上陛下が亡くなってから思いっきり泣いたことはございますか?」


 朝霧は恐る恐る尋ねた。これは主人と臣下の枠を踏み越えた問いであることはわかっていた。


 「これは私の持論でしかないのですが、愛しい方が亡くなった時に涙を押し殺すのはあまりよくないかと」


 朝霧の言葉に、柊は目を潤ませた。風が吹いて雲が月を隠した。辺りは薄闇に包まれる。


 「静かに人知れず涙を流したことはあれど、心に従って涙を流したことは一度もない」


 柊の声は震えていた。


 「心のままに泣いてもよいと思います。私も席を外しますゆえ」


 朝霧がその場から離れようとした時だった。「待って」と柊は引き留めた。迷子の子供のような、不安に揺れる声だった。


 「傍にいて欲しい。朝霧…お願い」


 柊の表情は薄闇に紛れてはっきりとは、窺い知れなかった。この人は大事な時は、命令ではなくお願いを使うのだ。そんなお願いに朝霧が弱いことを柊は知っているのだろうか。立ち上がりかけた膝を元に戻して、朝霧は柊の傍に寄り添った。


 しばらくして嗚咽おえつが漏れたかと思ったら、柊は大粒の涙を止めどなくこぼしながら袖を濡らした。濡れたまま乾く暇がないほどだった。暗くて見えないが、血の涙で色が変わってしまうのではないかと思うほど、柊は泣き続けた。


 「互いの袖を枕にして眠った日々が懐かしい。今は独り、寒いのです。私には、朔──もうあの子しかいないのです」


 泣き続ける柊の手を朝霧は無礼は承知しながら握った。この人からもう何も奪わせたくなかった。




***




 巳山上の物忌みが明けるまで、朝霧は調査を細々と続けながら朔の勉学の指南役も兼任することになった。柊は侍読の俊海に東宮学士とうぐうがくしを兼任してもらって、朔を幼い頃から帝として養育しようとしていた。


 そして今日、朝霧は初めて俊海と対面することになった。同じ指南役として情報共有が必要だからだ。朝霧が教えるのは薬草の知識なので、帝王学とは違う。


 俊海の人物像は柊から聞いていた。帝の皇太子時代の東宮学士であり、大学寮の文章生であった過去がある。文章生は年に一度の式部省の文章生試に合格した二十名の優秀者のことを指す。


 その経歴から、優秀な人物であることは容易に予想がついた。


 月光宮の部屋の一つで、朝霧は俊海と対面を果たした。清潔に保たれた衣から、彼が几帳面な性格であると窺える。日照雨よりは小柄で、女にしては長身である朝霧とあまり背が変わらなかった。三白眼の瞳は知的好奇心に満ちており、常に思考の種を探しているようだった。


 「初めまして。皇后陛下の女房の朝霧と申します」


 「こちらこそ。侍読の俊海と申します」


 互いに礼を交わし合うと、互いの視線は顔ではなく相手の持っている書物に向かった。


 「私は、四書五経の『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』『論語ろんご』『孟子もうし』、『易経えききょう』『書経しょきょう』『詩経しきょう』『礼記らいき』『春秋しゅんじゅう』、歴史書の『皇国すめらぎのくに書紀しょき』『古事記こじき』『史記しき』『漢書かんじょ』、詩文や文学書の『文選もんぜん』『白氏文集はくしもんじゅう』、政治学の『貞観政要じょうがんせいよう』『孝経こうきょう』を持ってきました」


 俊海は机の上にその書物を置いた。鈍器のような音がした。


 「私は『本草経集注ほんぞうきょうしっちゅう』『脈決みゃくけつ』『黄帝明堂経こうていめいどうきょう』『黄帝内経こうていないきょう』の『素問そもん』『霊枢れいすう』『甲乙経こういつけい』、『小品方しょうひんほう』『集験方しゅうけんほう』を持ってきました」


 一息に言ってしまうと、互いの輝いた目が合った。


 「典薬寮出身の方はこんな書物を読まれるのですね! 新しい発見です。なぜ私はもっと早くあなたに会わなかったのでしょう」


 「…私も、大学寮だいがくりょう出身の方とお会いするのは初めてです。その量の書物を頭に入れておられるのでしょう。頭が下がる思いです!」


 朝霧と俊海は互いの手を固く握り合った。こんなに波長の合う人は初めてだ。直感的に朝霧はそう思った。


 「華陽国志かようこくしは読まれましたか」


 俊海が目を輝かせながら尋ねる。


 「南中志なんちゅうしは楽しく読ませていただきました。三国志さんごくしは愛読書です!」

 

 朝霧がそう答えると、俊海は満面の笑みを浮かべた。


 「そうですか!好学な方なのですね。三国志といいますと、私はあの場面が…」


 俊海が話を続けようとしたとき、大きな咳払いが聞こえた。


 「あの、私がいることお忘れなく」


 少しの怒りを滲ませて、白雪が腕を組んで仁王立ちしていた。その時に俊海は朝霧の手を握ったままだったことに気づいたのか「失礼!」と手を離した。朝霧も舞い上がってしまっていて、気づかなかった。


 「若宮様は、まだ三つなのですよ。大人が嗜む書物をこんなに沢山…。これだから、勉学馬鹿は!」

 

 拳を握りしめ、白雪は叫んだ。「勉学馬鹿」とは不服だ、というように俊海は口を尖らせた。案外、面白い人なのかも知れない。


 「私が幼いころはこういった書物に親しむ環境が整っておりました。若宮様も今のうちから慣れればそれはもう博識になられるでしょう!」


 俊海は持ってきた書物を一つ掴んで、白雪に差し出した。しかし、白雪はぴしゃりと跳ね返した。


 「俊海殿、子供に大切なものは何かわかりますか?」


 白雪は静かに尋ねた。俊海はすぐに口を開く。


 「それは、勉学に集中できる環境です。学がなければ何もわからない。将来、困るでしょう」


 「確かに。それも大切です。人間、身を置く環境によって雲泥の差がでます」


 白雪は頷いた。平民から貴種きしゅの娘に養子となり血の滲むような努力を重ねて、皇后の女房となった白雪の言葉は重く響いた。


 「私が子供に大切なものだと思うのは、陽の光と適度な運動です。今、若宮様はちんと庭を駆け回るのが好きなのです」


 確かに朔は狆を贈られてから狆といつも一緒で、寝る時も一緒に寝ているらしい。そのおかげか、夜泣きは減りおねしょも減少傾向にあるらしい。


 「しかし、無学な帝では将来困るのは若宮様ですよ?」


 俊海が反論する。


 「でも若宮様はまだ三つの遊びたい盛りです! 大人と同等の勉学を押し付けるなど、あんまりです」


 白雪も負けじと言い返す。俊海の考えは公澄こうちょうに近いのだろう。昔の朝霧だったならば、公澄の厳しい言い方に反感を覚えたが、今なら彼の気持ちもわかる。公澄も俊海も白雪も、皆が朔のことを思っての発言だとわかるのだ。


 「白雪殿、これならどうですか? 私たちは書物の内容を噛み砕いてわかりやすくゆっくり教える。そして遊ぶ時間も作る。午前は勉学の時間に当てて、午後は遊びの時間にするのはどうでしょう」


 朝霧が提案すると、白雪は渋々「皇后陛下のご意向ですものね…」と頷いた。それでもやはり白雪個人としては、朔が勉学を始めるにはまだ歳が若いと思っているようだ。


 だが、こうして俊海との朔の教育が始まった。

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